迦陵頻
「まず、そもそも松田主がどうやって旧校舎の屋上から転落したかだ。校舎内から屋上へ出る塔屋の扉は常に施錠されており、周囲には転落防止の柵もあった」
言って、女帝が俺のほうに視線を向けた。なんだか、試されてるみたいな気分だ。
「確か、バールで扉をこじ開けて、ニッパーで柵の金網を切ったんじゃなかったっけ? 新聞やTVの報道によると、扉のそばにバール、柵のそばにニッパーと柵の切り取られた部分が落ちてたらしいけど」
「その通り」と彼女はうなずく。
「そして、破られた金網の向こう側。屋上の縁に脱いだ上履きが揃えて置かれ、その地点の真下の花壇に、転落した松田主の遺体があった。ここで問題となるのが、先ほど薬師君が指摘してくれた足跡の件だ」
宝生家のお嬢様は涼しげな目で薬師さんのほうを一瞥し、話を続ける。
「転落現場とされる旧校舎の屋上には、グラウンド等から飛散した砂埃が長年にわたり積もっていた。そして、警察は屋上の鑑識活動を行った結果、こう断定した。『砂埃に松田主が誰かと争ったような痕跡はなく、塔屋の扉から上履きが置かれた地点まで、彼一人の足跡が片道分だけ残されている』とな」
彼女はここで言葉を切った。重い沈黙がのしかかるようにこの場を支配する。
前からわかっていたこととはいえ、俺はしばし考え込んでしまった。なにせこの警察の鑑識結果を普通に解釈すれば、松田先輩の転落に他者が関与する余地が全くないのだ。扉と金網が破られ、上履きがキチンと置かれていたことから事故の線もあり得ない。
「本当につかっちゃんの足跡しかなかったの?」
膠着した空気の中、最初に口を開いたのは智慧だった。
「ああ。屋上は床はもちろん、縁や柵、柵の切り取られた部分、塔屋や水道タンク周辺を含め隅々まで捜査が行われたようだが、どこにも不審な痕跡はなかったらしい」
「聞けば聞くほど前途多難だなー。たえちゃんは何か、足跡に関して気づいたことはある?」
「一つ気になる点がある」
宝生家のお嬢様は人差し指をぴっと立てた。
「屋上に残った足跡はなぜか、一歩一歩立ち止まるようにして、強く踏み込んだものだったらしい。警察は松田主が自殺の前で、心の迷いや恐怖を感じていたのだろうと判断しているがな」
「強く踏み込んだもの……か」
これが刑事ドラマであれば、謎を解く手がかりになりそうな情報である。こちらはただでさえ材料が少なく不利なのだから、どんな細かな点にでもこだわっていくしかない。無意味な偶然という、現実の事件にありがちな可能性は、あえて考えないようにしよう。
「さて……」
宝生さんは組んでいた腕を一旦ほどくと、重々しく組み替えた。
「足跡の問題に関しては、学校に到着した後五人でまた新たな情報を集めるとして、そろそろ遺体の状況について確認しよう。
先程も少し触れたが、遺体があった場所は旧校舎屋上の、上履きが残された地点の真下にある花壇。死因は転落時に花壇の煉瓦に頭部を強く打ちつけたことによる頚椎骨折。死亡推定時刻は一月九日の午前七時半頃。遺体の第一発見者は早朝に旧校舎の部室に毎日一人で来ていた、当時二年生の文芸部員だ」
ここで一旦息をつき、俺たちを見回す。
「この気になる第一発見者については、学校で当人から直接話を聞くことにする。それよりも松田主の遺体には三つ、重要な点があった」
女帝は白魚のように透明に輝く細い指を、今度は三本立てた。
「その重要な点の一つってもしかして、先輩が軍手をしてたこと?」
「君は実に察しが良い」
笑みを浮かべる彼女。
「松田主の遺体は両手に軍手を嵌めた状態で発見された。バールで塔屋の扉を破る際に軍手を嵌め、外さずそのまま飛び降りたと云うのが警察の見解だ」
女帝は左の掌で右の肘を下から支えるようにして腕を組むと、右手を立てて細っそりした顎にやった。
「警察はこの軍手を、屋上に残されたバールとニッパーに、誰の指紋も付着していなかった事実の根拠としている」
「バールとニッパーに指紋がなかったってほんと?」
俺は思わず口を開いた。この情報は初耳だった。
「ああ。指紋も、その他の不審な痕跡も、全く検出されなかったようだ」
宝生さんは顎に手をやったまま言った。
「ちょっと待ってよ。それっておかしくない?」
「おかしい? 何が?」
不思議そうに首を傾げる智慧。
「仮に松田先輩が自殺したとするなら、どうして先輩の指紋がバールとニッパーに残ってないんだ?」
「えー? 軍手をしてたんだから、扉と金網を破ったときの指紋がついてないのは当然じゃないの?」
俺は首を振った。
「そうじゃない。あのバールとニッパーを、旧校舎の屋上に持ち込む過程でついたはずの指紋が、なんでないのかってことだ」
「あ、なるへそ」
智慧はぽんと手を打つ。
「たえちゃん、そこんとこどうなの?」
宝生さんは右手を顎から離し、掌を上にして少し横に傾けた。
「松田主がバールとニッパーを持ち込む際にも軍手をしていたか、彼自身が何らかの意図か気紛れで指紋を拭き取ったか、扉と柵を破っている内に、指紋が軍手に擦れて跡形も無く消えたか……警察の見解はこんなところだ」
「それで、たえちゃん自身の考えは?」
「恐らく君達と同じだよ」
宝生さんは不敵に笑み、言った。
「そもそもあのバールとニッパーは、松田主が持ち込み使用したものではない」
それを聞き、智慧もにっと笑みを浮かべた。
砂埃の問題はある。だがバールとニッパーに何の痕跡も残っていなかった理由については、犯人が使用したものだからだと考えるのが一番しっくりときた。あのバールとニッパーはどこにでも売られている物で、出どころはいまだ特定されていないのだ。
「もしそうならあの軍手は、先輩を屋上から突き落とした後に、犯人が遺体にはめたものってことになるね」
「つかっちゃんが軍手をしてたら、バールとニッパーに指紋がない不自然さがだいぶマシになるからねー」
智慧がうんうんと頷く。すると、
「すまないが、補足しておかなければならないことがある」
と宝生さん。
「遺体を調べた検視官によれば、手についた傷の状態から判断して、軍手は転落の前に嵌められたものであるらしい。また、軍手の外側に残っていた指紋は、嵌める際に付着したと思われる松田主の指紋だけだった」
「うーん……手強いなぁ……」
智慧が額に手を当てた。全く同感だった。
「そうすると、方法はわからないけど、犯人は松田先輩自身に軍手をはめさせて、その後で屋上から突き落としたってことになる。争った痕跡も、自分の足跡も全く残さずに」
「なんかこう、一つぐらいつかっちゃんが殺されたことを示すような事実はないの?」
智慧の助けを求めるような言葉に、宝生さんが口を開く。
「松田主の遺体には三つ重要な点があったと、私は言ったな」
彼女は真っ直ぐに智慧を見据えた。
「二つ目の重要な点は、松田主が頭部を打ちつけた花壇の煉瓦が、校舎にかなり近い位置にあったことだ」
「そうか……」
思わず俺は声をもらした。
「どゆこと?」
俺は「よく見る刑事ドラマの受け売りだけど」と前置きし、自分の意志で飛び降りる自殺に比べて、無理やり転落させられる他殺では、落下場所が建物に近くなるということを智慧に説明した。
「なるほどねぇ」
彼女はしばらく感心したような顔で頷いていたが、
「でも、自殺なら一〇〇パーセント建物の遠くに落ちるってわけじゃないでしょ?」
確かにそうだが、そんな風に言ってしまっては身も蓋もない。俺は返答に窮してしまった。すると見かねた宝生さんが、
「屋上の縁は旧校舎の建物からせり出す形になっている。それを考慮すると、遺体の校舎との近さはあまりに不自然だった。そして『松田主が頭部を打ちつけた』と云う部分にも着目してほしい。彼は頭から花壇に転落している」
と、助け船を出してくれた。
「先輩は頭から落ちてたの? 自殺だと普通、足から地面に落ちるはずだけど」
再び刑事ドラマの受け売りを述べると、宝生さんはゆっくりうなずいた。
「あの高さの建物であれば、自殺の成功率を高める為に敢えて頭から飛び降りた可能性はある。だが、遺体の場所が校舎に近過ぎることも考え合わせると、単なる偶然と捨て置くことはできない」
俺と彼女のやりとりを聞いて、智慧は今度こそ納得した様子だった。
「さて、次で最後だ」
宝生さんはここで一旦間を置くように、上品な仕草で髪を軽くかきあげた。枝毛一つ無い艶やかな髪は、なんの引っ掛かりもなく、上質な黒い絹糸みたいにさらりと揺れた。
「恐らくこれが事件を解く鍵になるだろう。松田主の遺体にあった重要な点……その三つ目だ」
女帝が俺、智慧、薬師さんの顔を順々に見る。場は静まり帰り、全員が息を飲んで彼女の言葉を待つ。
「松田主の額には傷があった。それも、転落時に煉瓦や地面と衝突する前についたと思われる『正体不明の傷』がな」
「正体不明の傷?」
俺と智慧は驚きのこもった声で繰り返した。この情報も初耳だった。
「何か硬く長い直線的なものにぶつけたような、細い傷だったそうだ。屋上の縁が建物からせり出していることを踏まえると、落下中に校舎の壁面等に接触してついた傷ではないだろう」
「落ちる直前に屋上の縁の角にぶつけたとか?」
と智慧。
「屋上の縁――特に上履きが残された地点の周辺は、警察が綿密に捜査を行なっているが、何の痕跡も発見されなかった」
「正体不明ってことは、その傷については詳しく調べられなかったってこと? かなり重要な手がかりのはずだけど」
気になって問うた。
「調べはしたようだが、その傷が何処でついたものなのか発覚する前に、足跡の検出を含めた屋上の捜査が終了したらしい」
「なるほど……」
途中で、他殺はあり得ないという結論が出てしまったわけか。
「それに、自殺の動機と解釈できるような事実もないではなかった」
女帝は柳眉を顰める。
「転落の前の日にあった、『松田先輩のノートが盗まれて、上履きが切り刻まれた事件』のことか……」
この件については、大々的に報道がなされていたため、俺や薬師さんや智慧も知っている。
――一月八日の昼休み終了間際、教室に帰ってきた松田先輩は、机の中からノートが消えていることに気づいた。
先輩は高校では『ミステリー部』なる推理小説の研究や執筆を行う部に所属しており、何者かによって盗まれたノートは、中学時代から小説のネタを書き溜め続けた創作ノートだった。当時のクラスメイトの証言によると、彼はノートの消失にかなりショックを受けていたという。
そしてさらに、その日の六時間目だった体育の授業が終わった後、下駄箱で靴を履き替えようとした先輩は、自分の上履きがズタズタに切り刻まれているのを発見した。
この窃盗と上履きの器物損壊によって、警察は松田先輩のクラスでいじめが常態化しており、彼が学校に対する抗議の意志を込めた自殺を行なったと見て捜査を進めたようだ。だが、普段からいじめが存在したかどうかについては確証が得られなかったらしく、世間では「学校がいじめの事実を隠蔽しているのでは?」とかなり騒がれていた。
「いじめの事実が実際に存在したのかどうかはまだ不明な部分もある。だが何れにせよ、彼がそんなものに屈する人間ではないと云うことは既に話した通りだ」
宝生さんは毅然として言い切る。
「そうそう。つかっちゃんの転落には絶対裏に何かあるって。額の傷の謎も気になるし」
「わ、私もそう思います。変な告発文のこともありますし……」
智慧や薬師さんがそれに同意し、再びこの場に団結の空気が流れた。
やがて宝生さんの言葉により、これから自分たちが何をするのかの具体的な方針へと話が移っていった。区切りのよいところまできたので、俺は今までずっと抱いていた疑問について聞くことにした。
「一つ宝生さんに質問があるんだけど、いいかな?」
彼女は俺の目を見ると、
「答えられる範囲で答えよう」
と、何かを感じ取ったのか重々しい口調で言った。
「宝生さん、随分と警察の捜査状況に詳しかったけど、どうやってその情報を得たの?」
彼女は俺の問いかけに何も答えず、じっとこちらの目を見据えている。
「例えば、バールとニッパーに指紋が残ってなかったこととか、検視官が軍手は転落前にはめられたものだと判断したこととか、遺体の額に残った謎の傷のこととか……多分世間に公表されてない情報だと思うんだけど、情報源はどこなの?」
彼女は依然として何も答えず、こちらの目を直視している。特に睨まれているというわけではないのに、俺はまるで蛇にねめつけられた蛙のように、全身の筋肉が硬直して動かなくなっていくのを感じた。どうやら触れてはならない領域の事柄だったようだ。
その無言の圧力に、一瞬質問を撤回しようかとまで思い始めたとき、彼女は突然にっこりと笑って、
「秘密だ」
それだけ言った。
「ただ、情報の信憑性だけは保証しよう」
そして、女帝は大きく手を広げてそう続けた。
全身の筋肉が急激に弛緩し、俺は息をついた。全く、心臓に悪い。
宝生さんはその後、俺の疑問は至極尤もだが、情報源についてはどうしても口外することができない。申し訳ないが、ここで自分が話した内容もできる限り内密にしてほしいという趣旨のことを述べた。
彼女がどうやって警察の捜査情報を得たのかについては、詳細な部分は結局わからなかったものの、実はぼんやりとした想像はついていた。大方、宝生家のコネや権力を使ったのだろう。情報の確実性に関しては、彼女の言葉通り信用しても良さそうだった。
宝生さんは一つ咳払いし、
「それでは、これからの方針に話を戻そう」
と、場を仕切り直した。
「たえちゃん、学校に着いたらまず何を調べるの?」
「うむ。そうだな。まずは昼休みに、生前の松田主と交流があった〝ある人物〟に話を聞きにいく」
「ある人物?」
「告発文に名前があった、ミステリー部……」
宝生さんの言葉が、不自然な場所でふいに途切れた。
「あ、あれ? たえちゃん?」
呼びかける智慧。が、彼女は答えない。
宝生さんはなぜかいきなり瞳をくわっと見開き、一点を見つめたままフリーズしてしまった。なんか怖い。
「……?」
一体何事かと俺は彼女の視線を追い、そしてすぐにその理由を悟る。
川上のほうからこちらに、寝癖がついたままのボサボサ頭で、眠そうな目をした細身の男がのそのそと歩いてくる。その男は、空を奪い合うように枝々を伸ばし狂い咲く梅の花には目もくれず、ひたすら手に持ったPS Vitaの画面を凝視していた。
「やれやれ、今頃になって重役出勤してきたか」
俺はスマートフォンの時計を見て、思わずため息をついた。
「たっちゃん、遅いー! この五人でたっちゃんが一番家近いのにー!」
智慧が手でメガフォンを作り叫ぶ。宝生さんが決めた時間からはかなり遅れているが、これでやっと全員揃ったわけだ。
――彼は不動龍樹。宝生さんが集めた、中学からの同級生五人の最後の一人である。
大抵の有益で社会的な物事に興味がない龍樹は、暇さえあれば古今東西の〝ゲーム〟と名のつくものをやり込んでいる。そのジャンルはアクション、RPG、格闘、縦スクロールシューティング、TPS、FPS、レーシング、音楽、パズル、ADV、ゲームセンターのクレーンゲームなどから、将棋、囲碁、連珠、チェス、チェッカー、シャンチー、オセロ、麻雀、バックギャモン、ナイン・メンズ・モリスといったボードゲームまで多岐にわたる。
「たっちゃんも中学の頃から変わらないねー」
「どうせまたゲームのし過ぎで寝坊したんだろうな。いつものことだから、遅れて来ること自体はもう何とも思わないけど」
智慧にこぼして、彼がこちらに到着するのを待っていると、さっきまでフリーズしていた宝生さんが俺の横を競歩の選手の如き早歩きで通り過ぎた。
彼女はずんずんと龍樹に歩み寄り、彼の正面に仁王立ちになる。これが漫画なら「ドドドド」だの「ゴゴゴゴ」だのといった効果音がでかでかとコマに描かれていることだろう。
進路を塞がれた龍樹は、緩慢な動作でゲーム機の画面から顔を上げた。その彼の頭に、宝生さんの手が鋭く伸び――
「龍樹……寝癖がついているぞ」
彼女は龍樹の寝癖を直し始めた。いつの間にか、手にはヘアミストが握られている。
龍樹のほうは再びゲーム機の画面に視線を落とし、黙って彼女に身を任せていた。
「龍樹、寝る前にちゃんと髪を乾かしたか? 髪が水分を含んだままの状態で床に就くと、水素結合で寝癖がつきやすくなる。それにキューティクルも痛むんだ」
「……ん〜……」
龍樹はゲーム機の画面を見たまま、ちゃんと聞いているんだか聞いていないんだかわからない返事をする。
「もー、たえちゃんったら、たっちゃんにはいつも甘あまなんだから」
智慧が腰に手を当て、呆れ混じりに言った。
「今は二人だけの世界にしといてあげよう」
俺は肩をすくめる。
薬師さんはまるで少女漫画のロマンティックなシーンにときめく読者のように、目を輝かせながら宝生さんと龍樹を眺めていた。
しかし何はともあれ、龍樹が来てくれたのは正直言って心強い。彼は勉強にもスポーツにもとりたてて熱心ではないし、なんらかの部活動に打ち込んでいるというわけでもない。だが、閃きという一点において、ここにいる五人の中で最も優れた力を持っているのは、恐らく彼だった。
俺は薬師さん、智慧、宝生さん、龍樹という個性的な仲間たちの顔を改めて見た。
松田先輩を介して集まったこのメンバーは、みんなタイプがバラバラではあるが、全体にどこか不思議なバランスの良さがあった。「この五人が協力すれば、何か大きなことを成し遂げられるのではないか?」といった、期待感のようなものを内包していた。
これからみんなで、松田先輩の転落の裏に隠された真実に迫ることになる。俺はそんなことを考えながら、決意を新たにした。