胡蝶楽
さらさらと流れる小川の両岸には、菜の花の黄色が麗らかに揺れている。智慧は風光る川沿いの道を、まるでステップを踏むように歩いていた。
天真爛漫な彼女は、さながら菜の花の精でもあるかのように、あまりにもこの情景に溶け込んでいて、不覚にも一瞬綺麗だと思ってしまった。
いかんいかん、智慧相手に何を考えているんだ俺は。頭を振って気を取り直す。
隣を歩く薬師さんのほうを見ると、ひらひらと飛ぶ可愛らしいモンシロチョウたちを眺めながら、ほんわかした表情を浮かべていた。小柄で童顔で、少したれ目がちな彼女のそんな柔和な表情を見ていると、こちらもほっこりとした気持ちになれる。
と、そんな俺のそばへ一頭のちょうちょが飛んできて、それを追った彼女の視線と自分の視線が重なった。じっと彼女の顔を見つめていたのがばれてしまい、俺は気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「ちょうちょって、見てるとなんだか癒されるね」
「は、はい! えっと……かわいらしいですよね」
そう答えた彼女も、頰を桜色に染めちょっぴり恥ずかしそうだった。
こうして薬師さんと並んで登校できることになったのを、俺は〈宝生さん〉に感謝しなければならない。彼女の一声によって、同じ中学校から須弥山高校へと入学した五人全員が集まることになったのだ。もっとも、その理由を考えれば喜ぶのは少々不謹慎ではあったが。
「おーい、しょうちゃーん、まりちゃーん」
前を歩いていた智慧が手を振って俺たちを呼んだ。
彼女は味がある木製の橋のそばで立ち止まっていた。あの橋の先が宝生さんとの待ち合わせ場所だ。
「な、なんだか……緊張してきてしまいました」
さきほどまでとは打って変わり、薬師さんが強張った表情でつぶやく。
「わかるよ。あの人って、何度会っても萎縮しちゃうんだよね」
気を引き締めつつ、彼女と一緒に智慧に追いついて、向こう岸を見やった。
対岸には燃えるような濃いピンクの花を咲かせた紅梅が幾本も並び、明媚な光景が広がっている。俺たちを呼び出した宝生さんは、橋を渡った先にある一際見事な紅梅の樹の下にいた。
――それはまるで、上質な映画のワンシーンのようだった。
樹蔭で和綴じの本を優雅に読む彼女。その美々しく気品に満ちた立ち姿は、鮮やかさの中に古風な格調高さを併せ持つ紅梅によく映えていた。
古来より、髪には神聖な力が宿ると伝えられているらしいが、本当にそうなのかもしれない。
彼女は毛先を真っ直ぐ切り揃えた、和を感じさせる姫カットの髪を、胡蝶を象った髪留めでハーフアップに纏めている。しなやかに川風に靡く、鴉の濡れ羽色の腰まで届く長い髪は、抜けるように白く肌理の細かい肌と芸術的なまでのコントラストを描き、ある種の神々しさすら感じさせる美しさを放っていた。
「あー、さてはしょうちゃん、見とれてんの?」
まじろぎもせず彼岸に見入る俺の顔を覗き込むようにして、智慧が言った。
「そ、そんなわけないだろ」
薬師さんの手前、つとめて何でもない風を装い、俺は橋へと右足を踏み出す。
川風の向きや地形の関係からか、一歩一歩川を渡るにつれ、肌に触れる空気の温度が下がっていくように感じた。それは隔てられた境界を越え、宝生さんの領域へと立ち入っているかのような印象を俺に抱かせる。
橋を渡り終え、馥郁たる香りが漂う梅の樹へと歩み寄ると、彼女は本に目を落としたまま、泰然とした様子で口を開いた。
「ここの紅梅は散るのが遅くて良い」
彼女はそう言いながら本――表紙の題箋に書かれたタイトルは〈源氏物語〉だった――に栞を挟んで閉じると、すっと顔を上げてこちらを見た。
いわゆるクールビューティというのだろうか。玻璃のように冷たく透き通った、知的で凛とした眼差しだ。丁度、他者におっとりした温かい印象を与える薬師さんとは好対照を成している。
目の前に立つこの人物こそが、中学からの同級生五人の一人であり、俺たちを呼び集めた張本人〈宝生妙果〉さんである。
あらゆる学問、武道、芸術や人心掌握術に精通し、神武以来の美少女と崇拝する者がいるほどの容姿端麗。その上旧家の代々政治に携わる一族という止ん事無き生まれである彼女は、中学校在籍当時、あたかも校内に女帝の如く君臨していた。
「たえちゃん、おはよー」
およそ何に対しても物怖じするということを知らない智慧が、明るく宝生さんに挨拶した。こんな風に宝生さんを呼ぶのは、日本中探してもこの変態だけだ。
「うむ。お早う」
女帝は沈着に智慧に答えた。
俺と薬師さんが恭しく朝の挨拶を終えると、宝生さんは丁寧な手つきで鞄に本をしまい、今回の招集へと至った本題について話し始めた。
「こうして皆を聘したのは他でもない。松田主の事件の真相を解き明かすためだ」
彼女は俺たちを見回し、とてもこの春女子高生になったばかりとは思えない威厳で言った。
「じゃあやっぱり……宝生さんもあれは自殺じゃないって考えてるんだね?」
「無論だ」
頼り甲斐のある声で彼女は断言した。
――今から三か月前の一月初旬、須弥山高校旧校舎の屋上から一人の男子生徒が転落死し、警察はそれを自殺と結論付けた。その自殺として処理された男子生徒が、俺たちの中学時代の先輩である松田主だった。
彼は学年が二つ上だったので、中学校での付き合いは一年ほどだったが、ここに集められた五人とは割合家が近所だったこともあり、いわば皆の兄貴分的存在だった。特に同じ文芸部に所属していた宝生さんとは関わりが深かったように思う。
「松田主はクラスメイトから爪弾きにされ、自ら死を選ぶような人間ではない」
宝生さんがきっぱりと言い切った。
「俺もそう思う。あの人はいじめに屈するようなタマじゃない」
松田先輩は人並み外れてタフで頭が切れてなんでもこなす、つかみ所のない食えない人だった。ジョークのセンスもあって誰からも好かれていて、この人には何をやっても敵わないと思わせてくれるような先輩だった。
「つかっちゃん(松田主)、核戦争で人類が滅んでも最後の一人として生き残りそうだったもんねー」
物騒な例えだが的確なことを智慧が言う。
「君はどう思う?」
宝生さんが薬師さんに問いかけた。
「は、はい。えっと……」
奥ゆかしく、集団の中ではあまり積極的に発言しない薬師さん。宝生さんへの緊張も手伝い、まるで授業中先生に当てられた生徒のような面持ちだ。
「皆さんの考えには私も賛成です。松田さんが自殺するなんてとても思えませんし、遺書だってどこからも見つかっていません。でも……」
彼女が不安げな上目遣いでちらりとこちらを見る。
「〝足跡〟のことは、どう説明すればいいんでしょうか?」
薬師さんの発言を受けて、俺と智慧は思わず「うーん……」と唸ってしまった。かたや宝生さんは、
「うむ、確かにそうだな」
と腕を組んで静かに頷き、
「それも含めて一旦ここで、転落現場の状況を順序立てて整理しておいた方がいいだろう」
足跡の件を指摘されるのを予想していたらしく、先輩の事件のおさらいを始めた。