見張塔からずっと.2
「夢中で話していたら、もうこんな時間になってしまいましたね」
西連寺さんが黒板の上を見る。時計の針は、五時二〇分を指していた。
「だいぶ、音楽に関する話が長引いてしまいました」
彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「いえ、私のためにしていただいたわけですから」
智慧が応じる。西連寺さんは智慧を声楽部へ入部させたがっていた。ならば普通、顧問の武佐先生の音楽に対する考え方は隠しておくはずである。だが、そうしなかった。恐らく嘘のつけない人なのだろう。
「実は……非常に申し上げにくいのですが、文芸部の大江さんと一緒に帰る約束をしていて、そろそろ校門に向かわなければならないのです。もっと事件の話をするべきでしたが、すみません」
「いえ、貴重な御時間と御意見を頂き、有り難う御座います」
宝生さんが綺麗に三〇度の立礼をする。それを見て、俺たちも感謝の言葉を述べた。
今回色々と西連寺さんに話を聞いたが、最も興味深かったのは、鳥羽さんが秘密クラブ〈赤い部屋〉のメンバーではないかという疑惑が浮上したことだろうか。
「私も松田くんの事件には色々と思うところがありますから、ぜひ頑張ってください。応援していますし、何かまた聞きたいことがあれば、いつでもいらしてくださいね」
西連寺さんはそう言って微笑むと、椅子から立ち上がった。どうやら、もう音楽室を出るつもりらしい。譜面を片付けて、ピアノの屋根の上に置かれた南京錠を手に取る。
彼女は部屋を出る前に、毎回しているという戸締りの確認を始めた。校舎の外に面した窓、廊下に面した窓、そして黒板から遠いほうの出入り口の鍵が締まっていることが確かめられる。俺たちはその後、黒板から近いほうの出入り口から廊下へ出た。
――音楽室の出入り口の木製の引き戸には、新校舎の扉にあるようなシリンダー錠はついておらず、南京錠を通す掛金がある。蝶番のように可動する横長の板状の金具と、輪形の金具からなる掛金だ。輪型の金具は引き戸に、板状の金具は戸の周囲の枠に固定されている。これを見ていると、やはりうさぎ小屋の鍵を思い出す。あれよりはさすがに少し上等な見た目だが、全く同じタイプのものである。
板状の金具に開いた長方形の穴に輪形の金具を通し、輪形の金具を九十度回転させてから、輪に南京錠を通して錠を掛ける。こうすることで、板状の金具から輪形の金具を抜くことができなくなる。輪型の金具は戸に、板状の金具は戸の周囲の枠に固定されているため、戸は開かなくなるというわけだ。
「う〜ん……今日は一段と固いですね」
西連寺さんが南京錠を手に悪戦苦闘している。どうやら、南京錠がなかなか掛からないらしい。
「お手伝いしましょうか?」
「そうですね……すみません、それではお言葉に甘えさせていただきます」
彼女は引き戸から一歩離れる。
軽く持って感触を確かめてみると、なるほど少々硬い。持ち替えて、両手でしっかりと力を加える。すると、U字状のツルが本体の穴にカチッとはまり込んだ。
「わぁ〜、ありがとうございます」
西連寺さんは顔の前で両手を合わせ、周囲のルクスが上昇しそうな笑顔をこちらに向けた。なんだかちょっと誇らしい。
「でれでれしてんじゃねーよ」
智慧がひじでこちらをつついてくる。
「してない」
俺はぷいとそっぽを向く。まったく、薬師さんの目の前でそんなことを言うんじゃ……ん?
「うふふ、それでは行きましょうか」
西連寺さんは口に手を添えて上品に笑うと、先に廊下を歩き始めた。
「…………」
なんだろう。さっき視界の端で、窓外の木の枝が少し揺れた気がした。この音楽室に入る前もそんな気がしたが、鳥か、それとも別の小動物でもいるのだろうか?
そんなことを思っている内、皆が歩き始めたので、俺もそれに続き音楽室を後にした。
昇降口付近で西連寺さんと別れ、二階の美術室にもう一度向かったが、そこには鳥羽さんはおらず、おまけに法水さんもいなかった。吉山さん曰く、鳥羽さんがどこに行ったのかはわからないらしい。
俺たち五人は宙ぶらりんのまま、ジョルジョ・デ・キリコの絵のような、夕日の色に染められた廊下に放り出されていた。
「屋上の水道タンクの点検があるのは六時半からでしょ? 今からまだ一時間も後だよ」
智慧が言う。
「うむ。ならば、またあの部屋に戻るしかあるまい」
「やっぱりそうなるのか」
俺は肩を落とした。
こうなるという覚悟はある程度していた。法水さんの行き先を西連寺さんに尋ねたとき、『普段は物理準備室にいることが多いですから、もしかしたらそこに戻ったのかもしれませんね』と言っていたのである。
「物理準備室に行った後、美術室に行って、音楽室に行って、また美術室に戻って、物理準備室に戻るわけかぁ」
智慧が天井を見上げる。
正直言って、あの部屋にはもう行きたくない。妖狐が苦手だということももちろんあるのだが、あそこは部屋自体が踏み入ってはならない不連続線の向こう側であり、特異点だった。しかし――
「他に行く場所の当ても無いだろう」
この女帝の言葉が全てだった。
――俺たち五人は、三階の物理準備室への階段を上った。
あの部屋に近づくにつれて、何か言葉に尽くせぬ気配が迫ってくる。「ああ、もうすぐ到着する」と思い、それを怖れている自分に気づく。
大袈裟かもしれないが、あの場所には、俺という存在に対して根源的な不安や違和感を掻き立てる、途方もない何かがあった。明らかに正常な領域ではない。ラヴクラフトの書いた宇宙的恐怖とはこんな感じなのだろうか。
「おっ、まだ南京錠は掛かってないね」
フロアに上がった智慧が、物理準備室の入り口のほうを指差した。
視界にその扉が出現した途端、自分が毛ほども慣れることができないでいることを思い知る。むしろ二度目の今のほうが、得体の知れない恐怖感は大きくなっていた。
だが前回と同じように、宝生さんはノックの数秒後に、引き戸をゆっくりと開いていった。