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見張塔からずっと

 まず、音楽作品に優劣は明確に存在する。と武佐先生は言う。

 その曲で感動するかどうかが、個人の好ききや思い入れで決まるという部分は確かにある。だが、それとその曲が優れた曲かどうかは全く別の問題であって、曲に対する主観的な価値と客観的な価値を混同しているという。最もわかりやすいのが、クラシック音楽と巷間こうかんで流行っているような大衆音楽の差で、クラシック音楽は、数百年・数千年たった後でも国や地域を選ばず聴き継がれるような超越的・普遍的な芸術性があるが、大衆音楽はすぐに忘れ去られ消えていく。音楽に優劣はないと主張している人間のほとんどは、曲を聴いて客観的な価値を判断する能力がなく、そもそも議論の土台に立てていないという。

 ただ、世の中には星の数ほど楽曲が存在するのだから、全く同程度の客観的価値を持った曲もかなりの数存在する。同程度の価値の曲だけを選択して並べ立て、それらの曲に優劣がないことを根拠に、世の中の全ての楽曲に優劣がないと述べている人間もいる、とのことらしい。

「客観的な価値が高いというのは、言い換えれば、〝美のイデアの一端を捕まえているか否か〟だそうです。

 二〇一二年七月号の〈レコード芸術〉誌に、音楽評論家の吉田秀和さんの遺稿が掲載されていました。

『音楽、いや演奏というものは、ある絶対的なものの追求に他ならない。その絶対的なものはちょっとやそっとでは捕らえられず、実現できない。演奏家たちはそれをつかまえようと決死になっている。私たちは、その姿に感動する。そうしてその彼らのなかから、ある絶対的なものに到達して、あるいはほとんど到達して〝神話〟の高みにまでのぼりつめようとしたものが出てくる。――そういうものの存在に敏感な公衆がないところには、〝絶対的なるもの〟のきれはしさえ存在し得ないのだろうか……。』

 武佐先生は、この〝絶対的なるもの〟こそが〝美のイデア〟であり、吉田秀和は演奏に限定しているが、全ての芸術は美のイデアの観照だ、とおっしゃっています」

「そのイデアっていうのは何なんですか? FFエイトに出てくる魔女にそんなのがいましたけど」

「武佐氏の云うイデアは、恐らくゲームに登場する魔女ではなく、プラトンのイデアのことだろう」

 俺の適当な発言に対し、宝生さんが口を開いた。

「現実の世界に完全な円は存在しない。仮令たとえ腕の良い製図技術者がコンパスで描いた円であっても、コンピュータグラフィクスで作られた円であっても、それが幅を持った線で描かれている限り、必ず画素ピクセルや原子レヴェルでの凹凸おうとつが存在する。だが我々は、完璧な円と云うものを観念として思い浮かべることはできる。古代ギリシャのプラトンは、このような理想的な観念を我々が思い浮かべることができるのは、形而けいじじょう学的な領域に属する、時空を超えた、非物体的な、永遠の真なる実在――イデアがあり、物体世界はその影として現れているからだと述べた。

 このイデアの概念は、中世以後、さらに精神内容・意識内容としての側面が強くなった。形而上学的な領域とは精神世界だと云うわけだな。それがさらに時代を経て、現代の英語のideaアイディア、ドイツ語のIdeeイデー、フランス語のidée(イデ)と云った単語に変化していく。これらは着想・理想・理念・観念等と訳されており、プラトン的イデアとはほとんど無縁になっている。

 と、このように、細かく見れば様々な意味の変遷へんせんはあるのだが、現代でイデアと云った際には、〈善そのもの〉や〈美そのもの〉といった普遍的な観念を指すことが多い。武佐氏も、『永遠かつ絶対的な美そのものの観念があり、それに向かい続けるのが芸術だ』と述べたいのだろう」

「ええ、ええ。その通りなんです」

 まさに的を射ていたらしく、西連寺さんは笑顔で首肯した。

 宝生さんはそれを確認すると、再び述べる。

「武佐氏の仰っていることは分かります。ですが、一つ疑問が有ります」

「はい、なんでしょうか」

「クラシック音楽が流行の音楽より客観的価値が高い理由に、数百年・数千年経った後でも、国や地域を選ばず聴き継がれるような、超越的・普遍的な芸術性を持っていることが挙げられていましたね。武満たけみつとおるの生年は一九三〇年であり、まだ来年で没後二〇年ですが、世界中のコンサートホールで演奏が繰り返されるスタンダードな作曲家の一人です。最も世界で評価されている日本人音楽家と云って差し支えないでしょう。武満徹の音楽は美のイデアの一端を捕らえていると私は考えますが、我々は武満徹の音楽が数百年・数千年経った後も世界中で聴き継がれているかどうか、確かめる手段が有りません。武佐氏はこのような場合、美のイデアの一端を捕らえている楽曲と、そうでない楽曲の違いをどのように定義してられるのでしょうか」

「……もっともな疑問ですね」

 声楽部の部長はももの上で手を重ね、居住まいを正す。

「軽音楽部の顧問の先生も、同じような趣旨の質問を武佐先生になさいました。それに対し、武佐先生はこう述べたそうです。

 ――『質の良い受け手に支持されているかどうか』であると」

「それこそ一部の人間の主観じゃないんですか?」

 どこが客観的なんだ。俺は思わず問うた。

「ええ。やはり軽音楽部の顧問の先生も同じことをご指摘なさいました。『それは一部の人間が決めた権威への迎合ではないか?』と。武佐先生はこのようにお答えになっています」

 いわく、質の良い受け手は、主観的な目線と客観的な目線の両方で音楽を評価することができるし、本当に価値のあるものは必然的に普遍性を帯びるので、質の良い受け手が選んでいるのであれば、主観性はあまり問題とならないという。加えて、本当に価値のあるものには、高級な受け手が自ずと集まるのであって、権威に盲従しているわけではないらしい。プロ・アマを問わず、質の良い受け手は本当に価値があるかどうかを自分自身で判断できるし、それぞれが自分自身で判断した結果、同じ地点に収束している。本当に価値のあるものは数が少ないので、そこに質の良い受け手が集中するというわけである。これが金さえ出せば誰にでも買え、ブランド品の所持自体が目的化しているブランド志向と違うところだ、とのことである。

 ――さらに、一部の人間による支持を絶対視していることに反発しているようだが、支持する人間の数さえ多ければよいというわけでもない、と武佐先生は続ける。

 楽曲に優劣があるように、受け手にも明確な優劣がある。そして、おとった受け手の数のほうが、すぐれた受け手の数よりも多い。例え上手くマーケティングを行ってその曲を何百万・何千万、あるいは何億人に支持させたとしても、美のイデアを感じ取れる高級な受け手に支持されていないのなら、毛ほどの価値もないという。

 曲の客観的な価値が、支持する受け手の数ではなく質で決まるというのは、歴史が証明している事実だと武佐先生は述べる。

 サリエリは生前、モーツァルトよりも世間で評価されていた音楽家だった。しかし、サリエリの曲はすぐに飽きられて今では忘れ去られ、モーツァルトの曲が現代まで生き残っている。これは、美のイデアを感じ取れる高級な受け手が、モーツァルトの曲を連綿と聴き続けてきたからである。モーツァルトやヘンデルなどの作品には、低級な受け手に支持されている曲もあるが、その曲は低級な受け手と高級な受け手のそれぞれに支持される要素をあわせ持っているだけのことだ。決して、多数派の低級な受け手によって評価されたから現代まで残ったわけではない、という。

「バッハが有名になったのはゴッホと同じように死後ですが、この事実も、作品が後世に残るには高級な受け手にさえ支持されればよく、そのレヴェルの高級な受け手は少数派であることを示していると、武佐先生はおっしゃいます。

 バッハは音楽の父と呼ばれ、今でこそ、古典音楽を代表する作曲家のように扱われていますが、彼の生きていた時代からすると、その音楽は非常に斬新で、前衛的なものでした。そのためか、バッハは存命中ほぼ無名といってもよく、ヘンデルやハッセ、テレマンのほうが高く評価されていたんです。メンデルスゾーンが、バッハの死後長らく経ってから、今では人類の宝とされているマタイ受難曲を掘り起こしました」

「そんなにすごい音楽なのに、誰からもずっと忘れ去られていたんですか?」

「はい。ヘンデルがヨーロッパの主要国を渡り歩いていたのに対して、バッハは生涯の殆どを中部ドイツの小さな田舎町で過ごしました。それに、ヘンデルは民衆向けに流行のオペラを書いたりもしていましたが、バッハは教会音楽家として、礼拝のための神に捧げる音楽を多く書いていました。当時はインターネットなどもありませんでしたから、単純に知名度がないという理由もあったのでしょう」

「あと、バッハの時代の音楽家って、貴族とか教会の注文通りに音楽を作ったり演奏したりする、職人みたいな感じだったからね。ベートーヴェン以降みたいに、一人の芸術家として脚光を浴びることがあんまりない時代だったんだよ」

 と智慧。

「ええ、その通りです。でも、そういった事情を差し引いても、メンデルスゾーンのマタイ受難曲の上演が、当初不評だったことは事実なんです。武佐先生は、これは紛れもなく、低級な受け手のほうが、高級な受け手より多いことを示す事例だとしています」

「さっきから何度も高級な受け手と連呼されてますけど、武佐先生のいう高級な受け手とは具体的にどんな人間なんですか? イデアがどうのこうのと曖昧なことをおっしゃってますけど、曲の客観的価値について述べたいんだったら、はっきりとした定義を教えてください」

 いかん。なんだか感情的になっている。こんなにこの話に俺が口出しするつもりはなかったのだが。

 西連寺さんは静かにうなずき、

「武佐先生は、一般的な意味での聴力ではなく、〝音楽的な意味で耳のいい人間〟だとおっしゃっています。具体的に言うと、〝耳がよくなる〟という概念には、二つの段階が存在するそうです」

 一段階目は、曲を構成する各パートの音が、その細部に至るまで聴き取れるようになることだという。

 これは誰にでも理解できるように、強引に読書にたとえると、ページに書かれている文字が読めることに相当する。英語で言えば、アルファベット二十六文字が判別できることだ、とのことらしい。

 二段階目は、音を聴き取れるだけではなく、そこに音楽を感じる能力である。

 こちらは文章の読解力や、詩心に相当する。しばしば、センスと一言で表現される。センスは音楽の文法(音楽理論)や思想・文化への知識、経験、そして生まれ持った資質タレンテッドなどの要素で決定される。ここまで辿り着いた人間のみが、高級な受け手であるという。

 ほとんどの人間は、まず第一段階目がクリアできていないらしい。クラシックではなく、普通のポップスを聴いているときでも、伴奏はほぼ聞き取れていないし、ヴォーカルも細部のニュアンスは全く聞き取れていない。これは何か曲を聴かせ、その曲について意見を言わせればすぐにわかるという。第二段階目に関しても、自分が第二段階目を高度に満たしていれば、音楽について少し会話しただけで相手のレヴェルはすぐにわかるし、レヴェルの高い受け手の間だけに通ずる共通了解は確実にあるらしい。

 なお、客観的価値の低い音楽は、どれだけ聴き込んでも第一段階目までしか耳がよくならない。第二段階目に関してはむしろ後退するという。

「第二段階目を極めた最上級に耳のいい人間は、もはや音を聴く必要すらなくなるそうです。

 音を出すと、楽譜の中にある無限の広がりが限定されたものになります。小澤おざわ征爾せいじさんや内田うちだ光子みつこさんのような一流の受け手は、音を聴くことなく、クラシック音楽の楽譜を見ただけで、人生観が変わるほどの衝撃と感動を得られるといいます。このレヴェルの受け手と、対位法と和声法の区別もつかないような低級な受け手の意見を、同列の価値で扱うのは愚かだとは思わないのか、と武佐先生は述べていらっしゃるそうです」

「…………」

 これはどうしたものだろうか。たしかに、主張に筋は通っている。

 客観的で絶対的な美のイデアがあるといくら主張しても、結局それを作り出しているのは人間の主観である。だが、全ての音楽作品の価値には上下がなく、人それぞれであるという主張に反論するなら、音楽作品に客観的価値が存在することを提示しなければならない。数百年・数千年後も残り続けるかどうか以外に、音楽作品の客観的価値を定義づけようとすれば、作品を支持している受け手の質の良し悪しに言及せざるを得なくなる。論理的に考えればわかる話ではあるが、俺の感情はどうしてもそれを納得しなかった。

「たしかに、すごい受け手がいるのはわかりますけど、すごい受け手じゃなくても、好きな音楽を聴いて感動することはできるじゃないですか。その感動を否定する権利は誰にもありませんよ」

「ええ。それは軽音楽部の顧問の先生も普段からおっしゃっていることです。『音楽は音を楽しめれば音楽である。それになんであれ、新規参入者やライト層に寛容でないものは必ず衰退する』と。ですが、武佐先生は逆に、そのような姿勢が音楽を衰退させるとおっしゃっています」

「どういうことですか?」

 武佐先生が語ったという大まかな内容はこうだ。世の中にはくだらない音楽があまりにも多すぎる。これは受け手のレヴェルの平均値が低いことが原因だという。高級な受け手からすれば聞くにえない、大衆から小銭を巻き上げるためだけの、俗悪で程度の低い音楽が社会に蔓延している。そんな音楽があふれているせいで、ますます受け手の耳は悪くなり、ますます質の悪い音楽が量産されている。この流れを断ち切り、受け手のレヴェルの平均値を上げるには、受け手の一人一人が芸術に対する探究心と向上心を持たなければならない。その動機づけとなるのが、高級な受け手をも感動させるような、上質な音楽による、本物の音楽的感動を味わうことであるが、質の悪い音楽が蔓延する環境ではそれが難しい。

 よって、高級な受け手が声を上げなければならない。日本人は同調圧力や遠慮という文化のせいで誰も本音を言わない。無価値なものは無価値だと高級な受け手が声を大にして言わなければ、本当に価値あるものを見抜く力が社会から無くなり、受け手のレヴェルの平均値はどんどん下がっていく、ということらしい。

 ――さらに、幸福には上下があるとも武佐先生は語る。

 イギリスの哲学者のジョン・スチュアート・ミルは、幸福と快楽には質的な差異が存在すると言っており、著書の『功利主義論』の中には、『満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい』という言葉が書かれている。これは肉体的な快楽を求めるだけなら豚と変わらず、精神的な快楽にも質の良し悪しがある、ということらしい。

 アリストテレスは永遠不変の真理や事物の本質を眺める観想テオリアを人間の最高の活動とし、夏目漱石の草枕の序文にも、美のイデアを芸術によって垣間見ることが最も幸福だと書かれている。ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟に登場するスメルジャコフは、隣家の娘のマリヤ・コンドラーチエヴナとの会話で『教養のない人間が教養のある人間に匹敵するような感情を持てるはずがない』という趣旨の台詞を言っている。俗なものや即物的なものを好む人間は、程度の低い生き方しかできない。いやしく浅ましく下品で無教養だ、という。

 ミルの功利主義にのっとって考え、仮に感動の大きさを一から十に数値化できるとする。では一の大きさの感動を十回経験すれば十の感動になるのか。いや、ならない。十の感動を得るには十の感動を経験するしかなく、十の感動に九以下の感動はいくら寄り集まっても及ばない。これが感覚的に理解できない人間は、感性が貧弱で無教養なので安い感動しか知らない。本物の芸術による本物の感動を知らない。クラシック音楽はその他の有象無象と違い、まさに、十の感動を与える本物の音楽である。

 本物の音楽は、感傷によるものではない、純粋な音楽的感動による涙なくしては聴くことができない。聴くものにとって、曲の音符の一つ一つが宝石のような価値を持つようになる。人生観が変わり、人の命の価値に匹敵する程の精神世界・深い精神体験があることをいやというほど思い知らされる。同じ曲を何百回、何千回聞こうとも、決して飽きることがなく、本物の音楽とその作曲家を神聖視せざる得ない。いわゆるポピュラー音楽等、本物以外の音楽を聴く気が起こらなくなる。真の音楽的感動をもたらす本物の音楽は、最高の客観的価値を持つクラシック音楽のみであり、クラシック音楽で感動できなかったとすれば、それは個人の好みの問題ではなく、受け手の耳が悪いからだ、という。

「そこですよ。そこがわからないんです。感動は主観的なものなのに、真の感動を与える音楽がクラシック音楽だけだとなぜ断言できるんですか?」

「本当に耳がよく、真の感動を知る高級な受け手であれば、必ず皆クラシック音楽に行き着くからだそうです。行き着いていないとすれば、まだ耳が悪いのだ。クラシック音楽はゴールだと言ってもいい。そうでないというのなら、クラシック音楽より価値のある音楽を一つでもいいから挙げてみろ、とのことです」

「うーん……」

 気の利いた反論が思いつかない。

「『私は生まれた時から高級な受け手だったわけではなく、努力を積み重ねて後天的にクラシックの真の価値を感得できるようになった。低級な受け手の感覚と高級な受け手の感覚を両方知っているので、低級な受け手の感動を程度の低いものだと断ずる資格が私にはある。低級な受け手の音楽の楽しみ方と高級な受け手の音楽の楽しみ方に差はないとお前は言うが、それは多様性を言い訳に怠惰たいだを正当化しようとしているだけだ。低級な受け手は高級な受け手の感覚をそもそも知らない。知らないくせに私の意見に反論する資格は無い』と、武佐先生は軽音楽部の顧問の先生におっしゃいました」

「それで、その議論は最終的にどうなったんですか?」

「『知らない人間に批判する資格が無いというなら、クラシック音楽以外の全ての音楽について、お前は全てを知っているのか』と軽音楽部の顧問の先生に問われて、議論は平行線のまま終わったらしいです」

「…………」

 どう言葉を返せばいいのかわからなかった。俺以外の四人も、誰も口を開かない。

 武佐先生の芸術を階層化させようという話の根底には、人間を階層化させようという思想があり、その思想のさらに根底には、自分は上位の人間だという強烈な自尊心が見え隠れしている。俺にはそこばかりが目についてしまい、話の内容が自分の中にスムーズに入ってこなかった。

「武佐先生ってオーボエ奏者だったんですよね。オーボエってギネスブックに載るくらいすごく難しい楽器だし、とっても真面目で努力家なんだとは思います」

 智慧がやっと言葉を返すが、その表情は渋い。

「武佐先生が副顧問になってから、この学校の吹奏楽部の技術レヴェルが上がったのは事実ですからね。それに、武佐先生も議論が白熱して語気が荒くなったところはありますから、普段はもう少し穏やかな方ですよ」

 西連寺さんがフォローを入れる。

「んー」

 智慧はぽりぽりと人差し指でこめかみのあたりをかくと、

「たえちゃんはさっきのクラシック音楽の話、どう思う?」

 女帝に問うた。俺も彼女の意見を聞いてみたかった。

 女帝は組んでいた腕をゆっくりほどくと、俺たち全員に向かって語り始めた。

「現代は近代の影響を非常に強く受けています。では、近代とはどのような時代でしょうか。端的に云えば、列強による植民地化をまぬかれるために、非ヨーロッパ地域が全て西洋化した時代です。近代化と云う言葉の意味は、イコール西洋化です。

 我々は今洋服を当たり前に着ていますが、それは元々西洋の文化です。世界中で持てはやされている論理的思考は西洋の近代合理主義の影響によるものですし、日本の近代文学史は如何いかにして西洋文学を取り入れたかの歴史です。我が国に憲法があるのは、ドイツの憲法を元にして大日本帝国憲法を作ったからであり、普遍的で標準的とされている民主主義も、西洋と云う一地域の思考が世界に広まったものです。――つまり、クラシック音楽の普遍性も、西洋文化のコンテクストにおける普遍性でしかないのではないか、と云う視点を何処どこかに持っておかなければならないと云うことです」

「それは本当に客観的なのか、ということですか?」

 問いかける西連寺さんに女帝は「ええ」とうなずき、

「ですが、私はクラシック音楽に価値が無いと主張したいわけではありません。西谷修が『世界史の臨界』の中で述べていますが、自明性は往々にしてあり得べき問いを封殺し、思考をあらかじめ方向付けます。ですから、何かを考える際にはまず、当たり前の事として受容され問われる事のない自明なものを点検してみなければなりません。ただ、それはある事実の自明性をくつがえすためではなく、自明なものが自明である所以ゆえんを問いただし、そこに封殺されている別の思考の可能性を探り出すのが目的です。

 本人の居ない場所でこのようなことを云うのもはばかられるのですが、武佐氏は少々言葉に囚われ過ぎている嫌いが有ります。小林秀雄の『美を求める心』にはこのようなことが書かれています。

『言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはすみれの花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入はいって来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです』

 武佐氏はクラシック音楽以外を色眼鏡で見ているのかも知れません。自分から聴こうとしなくとも、生きていれば、クラシック音楽以外の音楽を耳にする機会はあるでしょう。その際に、全て一律に下らぬものと耳をふさいでしまうのは損だと私は思うのですが」

 西連寺さんは女帝の言葉にうなずき、

「そうですね。武佐先生は高級な受け手の代表例として小澤征爾さんの名前を挙げられていましたけど、小澤さんはジャズやブルースも好んで聴いていらっしゃいますしね」

「文芸では時代の空気を上手く切り取った作品が屡々(しばしば)優れた作品とされます。音楽にも同じことが云えるのではないでしょうか」

「ボブ・ディランの『風に吹かれて』が、公民権運動やベトナム戦争の時代の空気を切り取ってるみたいなことだね」

 と智慧。

 女帝は「うむ」と首肯し、

「それぞれの時代には、それぞれの音楽があります。その音楽の中には、クラシック音楽ほどには高尚ではないものもあるかも知れません。ですが、高尚なものだけインプットしていて、本当に高尚なものが深く理解できるのでしょうか」

「それ、わかるなー。私にはモーツァルトが高尚なものだけインプットするような生き方をしてたとは思えないんだよね。『俺の尻をなめろ』なんてタイトルの曲を作ったりしてるし」

 俺のモーツァルト知識は映画の『アマデウス』を観たくらいのものであるが、たしかにそういうイメージはある。

「それに、音楽は芸術的な探究だけじゃなく、もっと身近で生活に密着した側面だってあるんだよ。クラシック音楽をフランス料理のフルコースだとすれば、味噌みそ汁だとか、おでんだとか、ラーメンみたいな音楽だってあるんだ。軽音部の顧問の先生は、『音楽を聴いて良い曲と感じるかどうかは、その曲を聴いたときの年齢・環境・精神状態に左右される』みたいなことを言ってたけど、まさにそうで、ピクニックで食べるおにぎりみたいな音楽だとか、縁日で飲む冷えたラムネみたいな音楽だとか、寒空の下で食べる熱い焼き芋みたいな音楽だってあるんだよ」

「そうですね。私もそう思います」

 智慧の言葉に西連寺さんは安心したように微笑んだ。その笑みは本当にあたたかく、優しかった。

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