アニュス・デイ
戸が開いた瞬間、カメラのピントが合うようにくっきりと歌が聞こえるようになった。
今俺たちが通った引き戸がある部屋の角の、対角の周辺に年代物らしきグランドピアノが置かれており、そのピアノを弾きながら、一人の女子生徒が目を閉じて歌っている。
――バッハの平均律クラヴィーア。
その抑揚を抑えた、簡素で繊細な旋律の上に、リリック・ソプラノの美しく優しい声が重なっている。
俺はクラシック音楽については詳しくない。智慧のように楽器ができるわけじゃないし、楽譜に向き合い、その中だけにある、より純粋で観念的な音楽に触れられるわけでもない。〈調〉の概念もぼんやりとしかイメージできないし、ハ長調の曲とニ長調の曲では持っている意味がまるで違うとか、純正律だとか持ち出されてもよくわからない。ラテン語はもちろん、イタリア語やドイツ語ができるわけでもないし、ヨーロッパの歴史や思想に通じていろいろ薀蓄を持っているわけでもない。ソナタ形式だの、複合三部形式だの、変奏曲だの、ロンドだの、リトルネッロ形式だのについてもよく知らないし、ガヴォットやら、ジーグやら、サラバンドやら言われてもちんぷんかんぷんだ。
だが、彼女の歌とピアノには、物理的に肉体的に、聴く者を動かす力が具わっていた。その音楽に身を任せていると、自分がどこか別の場所に運ばれていく紛れもない感触があった。
——両の瞼は知らない間に合わさり、頭は自然と前に傾く。五人全員が部屋に入り終えたようで、誰かが戸を閉める音がしたが、その音をうとましく感じるほど、俺はすでに彼女の音楽に心を奪われていた。
彼女の発する全ての音が、俺の全身にくまなく染み込み、身体の内側の汚れが洗い落とされていく。脳内で不思議な感覚がスーッとどこまでも広がっていく。
音楽は色とリズムを持った時間だというドビュッシーの言葉を智慧から聞いたことがある。この音楽室の中は、彼女の歌が発する光に包まれ、通常の時間や空間が希薄になっていた。歌は数分続いていたのか、十分以上だったのか、それとも数十秒だったのかはわからないが、ゆるやかにフェードアウトするように終わった後も、皆その場に突っ立って動こうとしなかった。否――動けなかったというべきか。
しばしの静寂の後、
「わー、すごいすごいー!」
小さくジャンプしながら、ぱちぱちと拍手をする智慧の声で、俺はやっと現実へ帰ってきた。
「聖母マリアの処女懐胎を祝福するガブリエルが顕現したかのようでした」
宝生さんが言いながら、ピアノのほうへ歩み寄っていく。喩えがいやにピンポイントなので、実際に受胎告知が先ほどの曲のテーマなのだろう。
そう言われてみると、天上から降臨した天使に祝福されているかのような、清浄であたたかな余韻が胸にある。頭もなんだか妙にすっきりしていて、ピンポイントな喩えで言うと、六曜社の地下でブレンドのコーヒーを飲んだ後よりも爽快だった。
ピアノの前に座っている彼女が、閉じていた目をゆっくりと開き、こちらに微笑んだ。宝生さんの言葉に引きずられているのもあるのだろうが、彼女はまるで宗教画に出てくる天使のように見えた。
宝生さんに続いて、俺もピアノのほうへ歩いていく。
俺は先ほどの曲が表している主題や歌詞の意味について知っていたわけではない。高低や長短をつけただけの音の連なりが、何故あんなにも強く心を打ったのだろう。そこには、空気の振動や、脳内で起こる化学変化・電気的反応の集積を超えた、何かがあるような気がした。
「あらあら〜、今日はお客様が多いですね」
両手を顔の前で合わせ、ピアノの前の彼女は俺たち五人を見回す。
「部活動中に突然失礼いたします。声楽部部長の西連寺鳴さんですね?」
「は〜い、そうですよ〜」
宝生さんの問いに彼女はうなずいた。
ふわふわとした、ゆっくりでどこか間延びしたような喋り方である。不思議な雰囲気の人だ。
簡単な自己紹介を済ませると、宝生さんは俺たちがここに来た経緯を説明した。もはや入る前から予感していたが、またもや法水さんとは行き違いになったらしい。
「少し前までは、ここにいたんですけどね〜」
「彼の行き先をお聞きになっていませんか?」
「う〜ん、普段は物理準備室にいることが多いですから、もしかしたらそこに戻ったのかもしれませんね〜。家に帰ったわけではないと思います」
「そうですか」
顎に手をやり、少し宝生さんが考え込む。すると、
「皆さんを見たとき、私はてっきり入部希望の新入生の方かと思ったのですが、それどころではありませんね……」
西連寺さんが言った。
仮入部期間はまだ始まっていないものの、この時期に一年生が部室に訪問して来れば、そう思うのも当然だろう。現部員がたった一人で、しかも三年生であることを考慮すると、それなりに重みのある言葉である。
「彼女はクラシック音楽に造詣が深いようですよ」
「え」
突然女帝が西連寺さんに智慧を示した。不意を突かれた智慧は、目をぱちくりさせて女帝と西連寺さんの顔を交互に見ている。
「まあ! そうなんですか?」
ぱぁっ、と辺りの照度が高くなりそうな笑顔を向けられ、智慧は思わずうなずきを返してしまう。
宝生さんも人が悪い。恐らく、声楽部に智慧が入部する可能性をちらつかせることで、西連寺さんの俺たちへの協力を保証しようとしているのだ。智慧がすでに軽音部への入部を決めていると知っているのに、である。
「オペラは普段お聴きになりますか?」
「え、ええ。たまに」
「私はプッチーニの〈トゥーランドット〉が一番好きなんですよ」
「ああ、第三幕のアリアの〈誰も寝てはならぬ〉が有名なやつですね」
「そうですそうです――」
こうしてピアノのそばに立っていると、ピアノの独特な木とフェルトの匂いがする。俺にはピアノは弾けないが、好きな匂いの一つだ。
この旧校舎の音楽室は、俺が通っていた小学校の音楽室となんとなく雰囲気が似ていて、とても落ち着く空間だった。智慧と西連寺さんがクラシック音楽の話を始め、手持ち無沙汰になってしまったので、俺は音楽室をじっくりと眺めてみることにした。
「個人的に好きなのはカラヤン指揮ウィーンフィルのものですね〜。それから、ジェームズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場のライヴ映像です。トゥーランドット役のエヴァ・マルトンも、カラフ役のドミンゴも、リュウ役のレオーナ・ミッチェルも、みんな素晴らしいです」
「エヴァ・マルトンは単純に歌が上手いですし、レオーナ・ミッチェルの演技は繊細で引き込まれますし、あの頃のドミンゴってまさに絶頂期って感じで、歌声も演技もルックスも色気というか、オーラがとんでもないですよね」
――広さは普通の教室と同じくらいである。白い板壁にびっしりと吸音のための小さい穴が並んでおり、五線譜が黄色い塗料で最初から引かれている黒板がある。小学校の音楽室には、部屋全体に何段か段差があったが、ここは黒板の周辺が少し高くなっているだけだった。
「私がよく観るのは〈ラ・ボエーム〉ですね。ミレッラ・フレーニのミミが好きなんです」
「あ〜、わかります。彼女のミミって、すっごいはまり役ですよね〜。素でやってるんじゃないかと思うくらいに自然ですし」
「ラ・ボエームは、ミミが観客の感涙をそそらないとほとんど成り立たないオペラじゃないですか。フレーニにはそれが、一切の作為を感じさせずにできるんですよね」
――入り口の戸から正面に見える位置の部屋の角には、CDや楽譜、楽典の入った縦長の棚があり、棚の上には紫のヒヤシンスと黒いCDラジカセが置かれている。その棚に立てかけるようにして、クラシックギターが床に置かれていた。
黒板と向かい合っている教室の後方の壁には、使われていないのか、オルガンが鍵盤のほうを壁にくっつけて置かれており、壁の上方にはバッハやモーツァルトやベートーヴェンなどの肖像が貼られている。
「そうですね〜、プッチーニだと他は〈蝶々夫人〉が好きですね。日本が舞台ってだけで、やっぱり愛着が湧いちゃいますからね〜」
「〈さくらさくら〉とか〈お江戸日本橋〉とか〈宮さん宮さん〉とか、いろいろ日本の旋律も使われてますしね」
「蝶々夫人はジャン・ピエール・ポネル監督の映画で観たんですよ。カラヤン指揮の演奏はよどみがなくて綺麗で、歌手もすっごい豪華キャストですよね〜」
「蝶々夫人がフレーニで、ピンカートンがドミンゴでしたね。あれを超える演奏はちょっと私には思いつかないです」
「ポネル監督も天才ですよね。彼がつけた仕草や動きがあると、ないときより音楽がすっと自然になるんです。きっと、相当に音楽がわかる人だったんでしょうね〜」
――ゆらぎのあるレトロな窓ガラスは、外の黐の木が描く、緑の複雑な陰影をぼんやり映している。その緑は、西洋のおとぎ話に出てくる、森の中の小屋にいるような、安らいだ気分を与えてくれる。
プッチーニのことはよく知らないが、たしか〈トゥーランドット〉と〈蝶々夫人〉はフィギュアスケーターの荒川静香が、〈ラ・ボエーム〉はパトリック・チャンがプログラムで使っていた曲だったな。
「プッチーニ以外のオペラだと、モーツァルトの三大オペラですね〜。特に〈魔笛〉をよく聴きます。パパゲーノが好きなんですよ。〈早く行きましょう、勇気を出しましょう〉とか〈パ・パ・パのアリア〉とか」
「あのキャラクターは魅力的ですよね。私は、モーツァルトとシカネーダーがいちばん愛していた登場人物は多分パパゲーノだと思ってます」
――窓からの柔らかな日差しを反射し、ピアノは漆工のように上品な黒い光沢を放っている。傷はなく、じっと見ていると、ぬらりと光る底の知れない水面のようにも見えてくる。ピアノの屋根は閉じられており、その上に古びた南京錠が開いた状態で置かれていた。俺はなぜか、古い鍵や錠前が好きだった。うまく言い表せないが、なんだか暗示的な気がするのだ。
「私は小さい頃にピアノを習ってたのもあって、クラシックだとピアノ独奏曲を一番よく聴くんですよ。特に好きなのはドビュッシーですね」
「あ〜、いいですね〜」
「浮世絵の神奈川沖浪裏をもとにしたって言われてる〈海〉とか、マラルメの詩に影響を受けた〈牧神の午後への前奏曲〉とか、オペラの〈ペレアスとメリザンド〉なんかも魅力的ですけど、ドビュッシーはピアノ曲ばっかり聴いてますね」
――あの南京錠はこの部屋の鍵なのだろうが、錆びて渋くなった金色の表面を見ているうち、小学生の頃世話していたウサギの小屋を思い出してしまった。一旦それが思い浮かんでしまうと、ウサギ小屋で使っていた南京錠と、どんどん形や色合いが似ているような気がしてくる。
「昔からコンスタントに聴いてるのは〈前奏曲集〉ですね。第一巻に〈亜麻色の髪の乙女〉が入ってるやつです」
「前奏曲集は、ドビュッシーの作品中最高傑作だと思います。もしかしたら、ドビュッシー以外のピアノ曲の中でも上位かもしれません。ミケランジェリが弾く前奏曲集は私も毎日聴きまくりましたよ〜」
「ドビュッシーといえばミケランジェリはやっぱり定番ですよね。あと、個人的にはサンソン・フランソワも好きです。最近〈ベルガマスク組曲〉と〈子供の領分〉が両方入ってるCDをよく聴くんですよ」
――五人の中で俺が一番南京錠に近い位置に立っており、ぐっと伸ばせば手が届きそうだったが、わざわざそんなことをするわけにもいかない。ピアノの椅子に座っている西連寺さんの近くに錠が置かれているので、こっそり触ろうとしてもバレて変な目で見られるだろう。
「しょうちゃんって最近なに聴いてる?」
「えっ」
不意に話しかけられ、俺はぎくりとして智慧のほうを見る。
「音楽。なに聴いてる?」
「あ、ああ」
問いの意味を遅れて理解し、しばらく考える。何か適当に、知っているクラシック曲の名前を挙げようとも思ったが、その場しのぎの知ったかぶりをしたところで、西連寺さん相手には何の意味もなさないだろう。ここは正直に答えることにした。
「俺、クラシック音楽は詳しくないんですよね。普段よく聴いているのはストロークスとフランツ・フェルディナンドっていう海外のロックバンドで、最近は智慧に紹介されたクーラ・シェイカーっていうバンドにもはまってます」
「あっ、クーラ・シェイカーいいですよね〜。Grateful When You're Deadとか、Hushのカヴァーとかすごく好きですよ」
「! は、はい」
驚いた。正直、クーラ・シェイカーの名前を出して彼女に伝わるとは微塵も思っていなかったのだが。
その後、俺の音楽の趣味についてひとしきり会話が交わされ、俺の次に宝生さん、宝生さんの次に薬師さんの音楽の趣味について話が移った。宝生さんは雅楽、箏楽、三味線楽、琵琶楽、尺八楽などの純邦楽をよく聴き、薬師さんはカーペンターズをよく聴くとのことらしい。よし、俺も今日からカーペンターズを聴くぞ。
「不動くんはどんな音楽が好きなんですか?」
西連寺さんが龍樹のほうへ身体を向ける。
龍樹は数秒ほど考えると、
「……小学生の頃にプレイしたRPGのBGMですかね」
「龍樹、真面目に答えるんだ」
「……いや、結構真面目に答えたんだが」
宝生さんの言葉に不服そうな表情を見せる龍樹。美術室での話が長かったと指摘したことといい、龍樹が彼女に面と向かって反抗するのはめずらしい。
ちなみに、RPGのBGM以外だと、イギリスのジョイ・ディヴィジョンというバンドを前身とする〈ニュー・オーダー〉と、日本のバンドの〈スーパーカー〉をよく聴くらしい。
西連寺さん曰く、両方ともスマートでスタイリッシュだが、どこか空虚さが漂っている――といっても、毒があるわけではなく、適度な脱力感がある音楽性が特徴らしい。
他にも、西連寺さんが龍樹との会話で引き出したところによると、安部公房が愛聴していたという〈ピンク・フロイド〉、ピンク・フロイドの流れを汲む〈レディオヘッド〉、テクノ の〈クラフト・ワーク〉や〈YMO〉、〈ブライアン・イーノ〉などのアンビエント、〈テリー・ライリー〉などのミニマルミュージックも聴くらしい。これら全ての音楽についても、西連寺さんは異様によく知っていた。
「西連寺さんってクラシック音楽以外の音楽にもかなり詳しいんですね」
「うふふ〜、最近はメタルなんかも聴いてますよ〜」
「どのバンドですか?」
興味津々といった様子の智慧。
「う〜ん……人間椅子とか」
「しぶー!」
智慧は身体を勢いよく仰け反らせた。まるで〈ラブ・ストーリーは突然に〉のジャケット写真のようだ。
「その人間椅子と云うのが、アーティストの名前なのですか?」
宝生さんが口を開いた。
「は〜い。スリーピースのロックバンドの名前ですよ〜」
「江戸川乱歩の短編に同じ名前のものがありますが、関係はあるのでしょうか」
「たえちゃん、そりゃもう関係大アリだよ!」
智慧は勢いよく女帝のほうを振り向き、
「人間椅子には和嶋慎治っていう、昔の日本文学とか、仏教とか、怪談とか、落語とかに詳しいギターの人がいるんだけど、その人は江戸川乱歩を崇拝してるんだ。幼馴染みでベースの鈴木研一って人と一緒に、陰獣っていう曲を作ってるし、怪人二十面相って曲も作ってるしね。鈴木さんが作詞作曲の曲にも、芋虫とか踊る一寸法師っていうのがあるし」
と、興奮気味にまくし立てた。
「江戸川乱歩以外の幅広い作家も曲にされてますね〜」
曰く、タイトルや歌詞に取り上げられたことのある作家は、谷崎潤一郎、芥川龍之介、太宰治、坂口安吾、横溝正史、小栗虫太郎、海外ではクトゥルフ神話で有名なラヴクラフトや、哲学者のニーチェなど、多岐に渡るという。
「成る程、では西連寺さん。人間椅子の楽曲に〈赤い部屋〉と云う題のものはありますか?」
「赤い部屋……ですか?」
宝生さんが問いかけた瞬間、部屋の空気の色が少し変わった。
――もちろん、『赤い部屋に殺される』という、蔵間さんの言葉を皆思い出しているのだ。
「い、いえ……多分なかったと思いますけど」
西連寺さんが戸惑いながら答える。
女帝が智慧のほうを向くが、彼女も首を振る。
「江戸川乱歩の短編に〈赤い部屋〉と云う名前の作品があるのです。この作品はアイザック・アジモフの〈黒後家蜘蛛の会〉と、谷崎潤一郎の〈途上〉が元になっているのですが……」
宝生さんは説明を始めた。