I Sing the Body Electric.2
一階への階段を下り終わり、智慧の先導でさらに廊下を行く。
しばらく会話しているうち、話題は須弥山高校の部活動に関するものへと移った。
「多彩な部活っていえばさ、この学校って声楽部以外に、音楽系の部活が七つもあるでしょ。えーとたしか……」
智慧は指折り数えながら、
「吹奏楽部と、合唱部と、軽音楽部と、ジャズ研究部と、雅楽部と、箏曲部と、和太鼓部か。声楽部の部員が西連寺さん一人だけなのは、他の部に新入部員を吸収されてるっていう事情があるんだよね」
「そう言う智慧ももう軽音楽部への入部を決めてるしな」
「ま、外バンのメンバーを通じた知り合いがいるからね」
外バンとは学内の部活動以外で組むバンドのことである。智慧は中学時代から、学校の外でもスリーピースのガールズロックバンドを組んでおり、ギターとヴォーカル及び作曲を担当している。
このバンドのメンバーが非常に濃い。智慧以外の二人は、チョーカーとジャラジャラしたシルバーアクセサリーと皮のライダースジャケットがトレードマークの、漫画のNANAにでも出てきそうなパンキッシュなファッションをしたベーシストと、サイケデリックでボヘミアンなヒッピーみたいな格好の、LOVE&PEACE感溢れるドラマーという面子である。ステージの外でも同じ格好というわけではないのだろうが、いい意味でも悪い意味でも近寄りがたいオーラがあった。
「この学校の軽音部って、いろんな種類のロックとか、フォークとか、ブルースとか、ファンクとか、広いジャンルの凄い人たちが集まってくるから面白いんだよ。文化祭で実際に演奏聴いたでしょ?」
「聴いたな」
俺はうなずく。
須弥山高校は歴史が長かったり、総文祭(全国高校総合文化祭)での実績がある文化部が多い。そのため、公立高校には珍しく、文化祭のクオリティが高いことで有名である。学外からも、毎年かなりの人数が訪れている。
去年、俺がまだ中学三年生だったときに、智慧と一緒に軽音楽部の出し物を観に来たことがあるのだが、狂っているんじゃないかと思うぐらいに演奏が上手かった。九月末だったので、まだ蔵間さんも亡くなっていない時期である。
「ジミ・ヘンドリックス、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ビーチボーイズ、CCR、ピンク・フロイド、トーキング・ヘッズ、ボブ・ディラン、アルバート・キング、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのコピーバンドに……あと、井上陽水とか、忌野清志郎、シュガーベイブ、はっぴいえんど、YMOやカシオペアのコピーバンドなんかもいたな」
「うんうん。カシオペアのコピーやってたトリのバンド凄かったよね」
「ドラムが上手すぎて何をやってるのかもはや意味不明だった」
智慧からはアクセント移動がどうのこうのとか、ポリリズムがどうのこうのとか、なんたらパラディドルやパラディドルディドルがどうのこうのとか、シックスストロークロールがどうのこうのとか、コンパウンドスティッキングがどうのこうのとか、バケラッタがどうのこうのとか、フラムとドラッグとロールがどうのこうのとか、ツインペダルを使った手足のコンビネーションがどうのこうのとか、左足クラーベとフットスプラッシュがどうのこうのとかいろいろ説明されたが、説明を聞いてもいまいちよく理解できなかった。この化け物みたいなドラマーが、軽音楽部の現在の部長である。
「吹奏楽部は全国大会でゴールド金賞取ってるし、雅楽部は実際に色んな神社とかお寺で演奏して新聞に載ったりしてるし、この学校の音楽系の部活っていい部活ばっかりなんだよね。声楽部の歌はまだ聴いたことないから、すっごく楽しみだな〜」
智慧は目をきらきらさせている。
「さっき、この学校には合唱部があるって言ってたよな。声楽部と合唱部の違いって何なんだ? どっちも歌う部活なんだろ?」
「おっ、いい質問だね。合唱部はみんなで歌う曲が中心だけど、声楽部は一人で歌う曲を中心にやる部活なんだよ。だいたいは歌曲とかオペラとかの西洋クラシック音楽だね」
「へえ、クラシックか」
「あたしゃこう見えても、ちっちゃな頃にお父さんに連れられて、ウィーンの国立歌劇場とか、プラハのエステート劇場に行ったりしてたからね。ピアノやヴァイオリンも習ってたし、クラシックにはちょっと詳しいよ」
智慧は「へへーん」と平らな胸を張る。
「愛染さん、ピアノお上手ですもんね」
にこやかに薬師さんが言った。
智慧はどうしようもない変態で、致命的なほどのパッパラパーだが、幼児の部とはいえ、コンクールで受賞歴もあるほどピアノの腕は確かなのである。
小学生のとき、体育館で学年全員で合唱することが何回かあったり、中学のときも、市のホールを借り切って学内合唱コンクールがあったりしたが、そのときはいつも彼女がピアノを弾いていた。しかもピアノを弾くだけではなく、同時に歌ってもいた。昔の俺はそれを見てすごいと思っていたし、ちょっと憧れの感情もあった。
「ピアノの話をしてたら、ほら、ちょうど聞こえてきたよ」
智慧が言って、手のひらを耳の後ろに当てる。
俺も耳をすましてみると、
「ほんとだ」
たしかに廊下を進むにつれ、ピアノの音がだんだんと聞こえてきた。柔らかでおぼろげな春の空気に染み入るように、遠くから優しく届いてくるそれは、古い木造の廊下の雰囲気にとても似合っているように感じられる。
「この今歩いてる廊下の突き当たりが音楽室だよ」
目の前を指差す智慧。
ただ真っ直ぐに伸びる廊下には、途中に曲がり角も分かれ道もなく、一番奥は行き止まりになっていた。外に面した廊下の窓からは、小さい裏山の裾が、音楽室の真向かい辺りにすぐ近くまで迫っているのが見え、辛夷の白い花や、馬酔木の薄紅色の花が長閑に咲いている。じっと眺めていると、枝が微かに震え、黒い影が動いた気がした。小鳥か何かだろうか?
「すごく綺麗な歌声です……」
「グノーのアヴェ・マリアだね」
薬師さんがつぶやき、智慧が返す。
ピアノの音にはいつの間にか歌声が加わっており、たしかに、部屋の外からでもはっきりわかるほど美しかった。これが凄いと噂の、あの西連寺さんの声なのだろう。
――やがて、先頭を歩いていた智慧が、
「ありゃ、こっちは開かないね」
二か所ある音楽室の入り口のうち、近いほうの戸に手をかけたが、どうやら鍵が掛かっていたらしい。
手前の入り口を通り過ぎ、表札の出ている奥の入り口へと向かう。廊下に面したすりガラス越しに、中で誰かがピアノを弾きながら歌っているのがぼんやりと見えた。
「じゃ、気を取り直して行くよ」
智慧は再び引き戸に手をかけると、ガタガタと勢いよく開いていった。