鬼哭転生.4
「ええっ⁉ 幽霊や妖怪がいないってことを、今までずっと言ってたんじゃないの?」
驚きの表情を浮かべる智慧。女帝は眉一つ動かさず答える。
「私は幽霊や妖怪が居ないとは一言も云っていない。幽霊や妖怪と云うものは、現代科学の齎らす世界観に矛盾しない形で、論理的に説明することができると云ったんだ」
「えっ、どう違うの?」
「これまでに述べたのは、あくまでも、この時代での常識に辻褄が合った、幽霊や妖怪に対する幾つかの〝解釈〟だ。厳密に論理を突き詰めれば、幽霊や妖怪の非存在を立証した訳ではない。そもそも、幽霊や妖怪に限らず、何かが存在しないと云うことを完全に証明するのは現実的には困難だ。勿論これは、私個人が幽霊や妖怪の実在を信じているか否かとは、全く別の問題だよ」
龍樹は以前、非存在の完全な証明ができるのは数学の世界ぐらいだと言っていた。本当は違う意味らしいが、これが一般的に言われている〝悪魔の証明〟なのだろう。論理的に考えた結果、非論理的な存在の否定ができなくなってしまうというのは、なんとも皮肉な話である。
「ということは、幽霊や妖怪の既存のイメージそのままとは言わないまでも、それらに類似したような存在が、今後いっさい見つからないとは言い切れませんよね」
薬師さんが言った。
「今のところ、そのような存在を仮定しなくても、我々の周囲を取り巻く物理現象を合理的に説明することはできている。オッカムの剃刀と云うやつだな。だが、科学の発展は、往々にして既存の世界観を根底から覆す。完全に否定できるだけの証拠が無い以上、薬師君の述べた可能性がゼロではないと認めることは、寧ろ科学的であると云える」
「もう科学的っていうのがどういうことなのかわからなくなってきたよ」
智慧が額に手の甲を当ててつぶやく。
「イギリスの哲学者であるカール・ポパーが、〈反証可能性の有無〉を科学と非科学とを分ける基準に挙げているように、科学の最大の特徴は、方法ではなく態度にある。つまり、証拠を重視して、新たな証拠が見つかれば自説を自主的に修正する態度だ。徹底した検証に耐えられれば、何時でも新しい仮説を受け入れてきたことが、これまで科学が上手く機能してきた大きな理由なんだ」
「つまり、今後も大転換が起きるかもしれないってことだね」
鳥羽さんが宝生さんの言葉に応じる。
「僕らは天動説を信じてた時代の人を、真実を知らない人達だって思っちゃうわけだけど、数百年後の未来人からすれば、僕らだって同じように思われるんだろうしね。天動説も、支持されてた当時は地動説より観測事実との整合性が取れてたみたいだし」
「えっ、そうなんですか?」
「松田くんがそう言ってたよ」
ここで龍樹が口を開いた。
「……一六世紀以前に天動説が支持された理由と、一七世紀以降に地動説が支持された理由は、科学の観点で見れば両方とも同じだ。科学の目的は、観測される現象を客観的・合理的かつシンプルに説明することだからな」
曰く、一六世紀当時の天体の観測技術では、地動説が事実だった場合に観測されるはずの年周視差が確認できなかった。加えて、星の運動や天文現象の予測を行う際、地動説より天動説に基づくもののほうが精度が高かったらしい。
「天動説と地動説の対立って、宗教と科学の対立みたいな感じかと思ってたよ」
「……ガリレオの異端審問に対する一般的なイメージ通り、天動説が宗教的要素も含んでいたことは事実だ。地球の周囲を他の天体が回っているという考え方は、人間が神の似姿であり、その人間が存在する地球こそが宇宙の中心だというキリスト教の世界観――まあ、実際は宇宙には中心も上下左右の概念もないわけだが――と強固に結びついていたからな。それでも、天動説が当時信じられていたことに、科学的な裏打ちがあったことは変わらない。
……天体に限らず、全ての物理現象に対する観測技術は、進歩すればするほど、それが不完全であることを露呈させる。つまり、体系化された科学の知識は、いつの時代であろうとも、今のところ辻褄が合ってるっていうだけでしかない、そういうことだ」
無神論者で唯物論者の龍樹にまでそんなことを言われると、自分の足元がひどく不安定になったような気分になる。俺のような科学の素人からしてみると、量子力学のような得体の知れないものが現代物理学の基盤になっている時点で、もはや何でもありなように思えてしまうのだ。
俺は息をつき、軽く頭を振ると、一旦気持ちを落ち着けるために周囲に目をやった。――すると、美術室の後ろの扉近くの壁に、与謝蕪村の俳画が飾られているのが目に止まった。左下に紫陽花が描かれ、右上に郭公が描かれた〈紫陽花郭公図〉だ。
『岩くらの狂女戀せよほととぎす』
右下には与謝蕪村の達筆を再現し、句が書かれている。わざわざ篆刻までしたのか、落款まであった。……滋味掬すべき作品というやつだ。こういうものを見るとほっとする。
蕪村の俳画の横には、ホームズの踊る人形に出てくる暗号のような、変わったポーズをしたデッサン人形が置かれている棚があり、そのさらに横には、これもアクション・ペインティングというのだろうか。様々な靴底からなる、色とりどりの足形で描かれた絵が立てかけられていた。
この絵が結構な大きさなのである。美術室に入ってきたときから、ちらちらと視界の端に映っていて、ずっと気にはなっていたのだが……。
「ふふ、気になるのかい」
じっと絵を見つめている俺に鳥羽さんが問いかけてくる。
「あ、はい。なんだか、明らかにこの部屋の中で目立ってますし」
「部員同士の親睦が深まるかと思ってね、僕が制作を提案したんだ。美術部員だけじゃなく、同じ旧校舎で活動してたミステリー部の松田くんや法水くん、文芸部の伊勢くん、声楽部の西連寺さんにも参加してもらってね。面白かったなぁ。
……そういえば、そのとき、手形を使った絵も一緒に作ったんだけど、手形のほうはなぜかどこかにいってしまったんだよね」
「どこかにいった? 手形のほうも結構な大きさの絵だったんですよね?」
「うん、足形のほうの絵ほどじゃないけどね。たぶん、去年の七月ぐらいだと思う。美術室の壁に立てかけておいたはずの絵が、土日明けに来てみると消えてたんだ。理由に心当たりもないし、今でも謎なんだけど」
「うーん……」
これはいったいどういうことだろう。手形・足形の絵の制作には松田先輩も参加していたらしいが、何か事件と関係でもあるのだろうか。
と、俺が考え込んでいると、鳥羽さんが急に何度か咳き込んだ。思わず驚いてしまったが、
「ごめん。僕、小さい頃からちょっと病弱なんだよね」
そう言って笑う彼の表情には、まるで蜻蛉のような儚さがあった。なんとなく、この辺りでもう話を切り上げたほうがいいような雰囲気が漂い始める。この場を包んでいた魔法――いや、妖術のような何かが解けてしまったような気がした。
宝生さんも同じように感じたらしく、
「部活動中に貴重なお時間を頂き、大変有り難う御座いました」
と、話を締めにかかった。
そして、最後に薬師さんが、美術部に入部を検討していることを伝える。
「新入部員は大歓迎だよ。可愛い女の子は特にね」
薬師さんはどぎまぎとした表情を見せている。むっ! 不安だ。
「吉山くんからは学べることも多いし、頼れる先輩になってくれるよ」
「鳥羽さんがそこまでおっしゃるということは、吉山さんはものすごく絵がお上手なんですか?」
薬師さんが問うた。
「うん。色づかいだとか、タッチだとか、そういう技術的に見るべきものがある人は多いんだ。でも彼の絵は、技術的に高い水準なのはもちろんだけど、そこに〝意識の広がり〟だとか〝感覚の拡張〟っていうようなものがあるんだよ。芸術的な名画とされているものには、一見ただの落書きみたいなものも多いんだけど、じゃあそういう名画と落書きとの違いはなんだって言えば、それもこのあたりのことだと僕は思う」
また、吉山さんは哲学にも詳しいらしい。デリダの脱構築に顕著だが、その時代の哲学と芸術の流れは関係が深いのだという。
「美術室を出たら、次も法水くんに会いに行くの?」
「はい、法水さんは音楽室に行ってるんでしたよね」
彼はうなずき、
「きっと、西連寺さんの歌を聴きに行ったんだと思う。僕も含めて、彼女の歌のファンは多いからね」
俺たちは鳥羽さんに改めてお礼を言い、
「じゃあ、事件の調査頑張ってね」
吉山さんを始めとする他の美術部員にも挨拶をしてから、美術室を後にした。