鬼哭転生
「縊鬼っていうのはね、中国宋代の類書〈太平御覧〉や、清代の怪異小説集〈聊斎志異〉に記述がある幽霊のことだよ」
鳥羽さんが語った中国の伝承はこうである。
冥界の人口というものは、常に一定に保たれている。死者が別の人間として現世に転生するためには、自分の代わりに新しい死者が冥界に入らなければならない。このとき、死者は生者の死をただ待っているだけではなく、積極的に、現世の人間を死に至らしめようと干渉してくる。
この概念を〈鬼求代〉というのだが、死者が生まれ変わるには、生者に自分と同じ死に方をさせるという条件もあるらしい。つまり、縊鬼とは縊死した人間の霊であり、生者に取り憑くことによって、かつての自分と同じように縊死させようとしているわけである。
「縊鬼は自分が死んだ場所の周辺にいて、近くに人間がやってくると、その人間に乗り移って、首を吊らせようとするんだ」
「たしかに、木にぶら下がってるロープの輪を見ると、ひとりでに首を吊ってしまうっていう、首吊り彼岸桜の話に似てますね」
「ちなみに、この縊鬼は日本でも〈いつき〉や〈くびれおに〉と呼ばれて、江戸後期の儒者の鈴木桃野が書いた随筆〈反古のうらがき〉に妖怪として登場するんだ。こっちでも、どこか特定の場所にいて、そこを通りかかった人に取り憑き首を吊らせようとするのは同じだよ」
「つまり、旧校舎の彼岸桜の下には縊鬼のようなものがいて、それに蔵間さんは取り殺された……と?」
俺は言った。
「蔵間さんは幼少期からずっと、自分には霊能力があるってことを周囲に言ってたらしいからね。生まれつき、誰にも見えないものが見えたり、誰にも聞こえない声が聞こえたり、誰にも感じることができない力を感じることができたとか。
――観月さんは、このことについてどう考える?」
鳥羽さんが宝生さんへ問いかけた。
人の心の奥底に、人知の及ばぬ神秘や怪異に対する畏れと不安が途絶えることはない。だから、皆がスマートフォンで常にネットに繋がっているようなこんな時代でも、新たな怪異談が生まれてくる。
――こういった怪異談を生み出す源泉となっている恐怖は、誰の心にも潜んでいる。
俺は夜歯を磨いているときに、映ってはならない不気味なものが鏡に映るのではないかとか、床に就くときに、部屋に得体の知れない存在がいるのではないかという恐怖を感じることが時々ある。うちには母さんがおらず、親父も仕事で何日も家を空けることが多く、家では大概一人だという事情もあるのだが、たぶん、誰しも多かれ少なかれ経験があることだとは思う。
現実的にこの身に危機が迫っていて、それに恐怖しているという感覚ではないのだ。想像力で恐怖のための恐怖を生み出しているという感じがする。――かつての平安京の人々が、千尋の闇の中から百鬼夜行を見出したように、この深みはとどまることを知らない。
といっても別に、俺は幽霊や妖怪の実在を本気で信じているわけではない。ではなぜ恐怖を感じるのか。論理的に考えれば矛盾しているではないか。
このような恐怖は、未知なるもの(既存の知識が適用できないもの)への不安と、動物の生存本能からくる孤立や暗闇への拒否反応だと結論づけたことがある。だが、これだけですっきり説明し尽くせるとも思えない。いくら分析したところで、光のある場所に必ず影ができるように、心のふとした隙間に恐怖は浸蝕してくるのだ。
宝生さんが江戸川乱歩から引用していた〝夜の夢〟は、こういった恐怖や、神秘や怪異をめぐる人間の様々な心理を含んだ概念である。宝生さんの著作を読み、その人となりを知る鳥羽さんが、彼女に霊能力のことを問うたのもうなずけた。
「そうですね……」
観月鈴児はしばし思案すると、
「大きく分ければ、二つの場合が考えられるでしょう」
真っ直ぐに鳥羽さんのほうを見据えた。
そして、彼がその言葉を飲み込むまで間を取ると、いつものように人差し指をぴっと立て、口を開いた。
「まず一つは、蔵間氏が嘘をついていたという場合です」
「どうしてそんな嘘を?」
「最初は面白半分で、特に意味もなくついた嘘だったのかもしれません。嘘の発覚を恐れてさらに嘘を重ねた結果、引っ込みがつかなくなったのです。このパターンの実例は多いでしょう。――あのコナン・ドイルが騙されたことで有名なコティングリー妖精事件も、きっかけは少女たちが軽い気持ちで行なった悪戯でした」
「妖精の写った写真の真贋をめぐる騒動ですね。たしか、フェアリーテイルという映画にもなっていました」
ファンタジー好きの薬師さんが述べ、宝生さんが首肯する。
「また、皆が自分に注目し、自分の言葉に耳を傾けるのが心地良いと云ったことも、この手の嘘をつく人間の心理には存在します。酷い場合には、嘘が他の人間との唯一のコミュニケーション手段になってしまっていることもあります。有り体に云えば虚言癖ですね」
「容赦も仮借もないね。……でも、そのぶん鋭い分析かもしれない」
神妙な顔つきで鳥羽さんが言った。
「あくまでも可能性です。大きく分ければ、二つの場合が考えられると述べましたね」
宝生さんはピースサインのように、二本目の指を立てた。
「もう一つは、蔵間氏の目に実際に幽霊や妖怪が見えていたと云う場合です」
「えっ……ど、どういうことですか……?」
急に不安そうな面持ちになる薬師さん。
「蔵間さんは幽霊に取り憑かれたって噂されてたけど、それを観月さんは信じてるってことかな?」
「ある意味では、そうとも云えるかもしれません。現代科学が齎す世界観に矛盾しない形で、幽霊が見えるメカニズムに説明をつけることは可能ですからね。
尤も、正確を期するならば、蔵間氏は幽霊ではなく、妖怪に取り殺されたと表現した方がよろしいですが」
こうやって、わざと気を持たせるようなことを言うのが作家の悪い癖だ。
「妖怪に取り殺される……? ていうかそもそも、幽霊と妖怪ってどう違うの? 中国の縊鬼は〈幽霊〉で、日本の縊鬼は〈妖怪〉って鳥羽さんも言ってたし」
と智慧が問い、
「僕も、観月鈴児が両者についてどんな風に考えてるのか、一度聞いてみたいな」
鳥羽さんが続いた。
「ふむ。最初にその点ははっきりさせておいた方が、幽霊や妖怪が見えるメカニズムの説明もしやすいですね」
宝生さんは一度咳払いすると、鳥羽さんと俺たちのほうへ半々になるよう身体を向けた。どうやら、こういう流れになるように初めから話を誘導していたらしい。
「ではまず、基本的な部分の説明から始めましょう。『幽霊と妖怪を明確に区別できる』としたのは、民俗学の大成者である柳田国男です。柳田は昭和三一年の著書〈妖怪談義〉の中で、幽霊と妖怪の間には明瞭な違いがあると説いています。
その説に基づく幽霊の定義を要約して述べると、『この世に未練があって成仏できない死者が、草木も眠ると云われる深夜の丑三つ時に、因縁のある人物の前へ姿を現すとされるもの』です。つまり、死装束を着た足のない女性に代表されるような、人間の魂が現れたものですね」
「なるほど。『うらめしや〜』のイメージだね」
智慧は力を抜いた手先を下に垂らしながら、両腕を軽く前に出した。
「諸説あるけど、足の無い幽霊のイメージは円山応挙が広めたとされてるよね。〈返魂香之図〉が多くの絵師や民衆に影響を与えて、その幽霊像が一般に浸透していったとか」
鳥羽さんが言った。やはり、美術部の部長だけあって、絵画に関することは何でも幅広く知っているのだろうか。
円山応挙が好きな宝生さんは、﨟長けた微笑でうなずき、
「ちなみに、幽霊は恨みや妬みの他、愛情を始めとした好意的な思念によっても、因縁のある相手の元に生前の姿で現れます。よって、枕元に亡くなった祖母の姿を見たと云う場合も、幽霊に含まれます」
「たしかに。亡くなったおばあちゃんを妖怪とは言わないもんね」
得心がいったというように、大きくうなずく智慧。
「鳥羽さんは、中国の縊鬼は幽霊だって言ってましたよね。じゃあ、それも人間の霊なんですか?」
「だね。縊鬼の〈鬼〉の字が、こっちと向こうじゃ違う意味らしいよ」
「日本の〈鬼〉とは異なり、〈鬼〉は中国では人間の霊を表します。彼の国では〈妖精〉や〈精霊〉、そして〈精怪〉等が、日本で云う妖怪に近い言葉として用いられていますね」
語学に堪能な宝生さんが述べた。
「そういえば、ヨーロッパの〈妖精〉も、日本語でいうと妖怪に近い言葉でしたね」
「ほへ〜、そうなんだ」
薬師さんの言葉に、智慧が驚きのこもった声を漏らす。
少し間があり、薬師さんが再び口を開く様子がなさそうなので、
「なるほどね。幽霊についてはよくわかったよ。じゃあ、妖怪のほうはなんなの?」
俺は話の流れを元に戻し、宝生さんに続きを促した。
「うむ。妖怪は〈化け物〉や〈変化〉とも呼ばれ、人知の及ばぬ恐怖感をそそるような現象、または正体不明の異様な物体のことを指す。
鬼、天狗、九尾の狐、鵺、雪女、山姥、河童、小豆洗い、海坊主、一つ目小僧、ろくろ首――と云ったもの等が該当するな。
幽霊が特定の人間に憑くのに対して、妖怪は特定の場所に憑き、不特定多数の人間を脅かすのが特徴とされる。昼夜の境目、いわゆる誰そ彼時・逢魔が時と呼ばれる薄暮の時刻に出現し、たまたまそこを通りかかった人間を驚かしたり、攫ったり、時には喰ったりする」
「へえ、でもなんで、妖怪はだれかれ構わず襲うの?」
「妖怪は、災害や疫病、戦乱等で大勢亡くなると云ったような不条理な出来事や、日常生活で見聞きした不可解な出来事への恐れが、自然や物事に対する普遍的な畏怖の念と結びついて具体化されたものなんだ。幽霊と異なり、対象を限定せず、無差別に危害を加えるとされているのはそのためだ。このような存在の中で、肯定的に捉えられたものを我々は〈神〉と呼んでいる」
「そうだったの? なんか意外……。神さまって、なんていうのかな……そういう妖怪みたいな、人間に悪さする存在から一番遠いものだと思ってたよ」
と智慧。
「祟の古義は神意の現れだ。民俗学者の折口信夫は、神の顕現を表す〈立ち有り〉が転じたものが〈たたり〉の語だと述べており、これが広く受け入れられている。また、天災、飢饉、疫病その他の災厄を神の顕現と捉え、それを鎮めるために始まったのが神社祭祀であるとも云われているな」
女帝は智慧に視線を合わせたまま、続ける。
「神、社、祝、祈、福、礼と云った〈礻〉の文字は、全て神に関係した事柄を意味しているが、この〈礻〉は〈示〉が偏として左側に配置された後、楷書で書き表す際に変形を起こしたものだ。旧字体では神、社、祝、祈、福、禮と表記する。常用漢字ではない禊、祓、祠、祀(る)と云った文字も、〈礻〉と形が違うが部首は同じ〈しめすへん〉であり、やはり神に関連した事柄を意味しているだろう?」
「あー、たしかに」
「それでは君は、〈示〉がどんな状況を表した象形文字か知っているか?」
「うーん……わかんない」
「これは台の上に生贄を乗せ、その生贄の血が両側から滴り落ちる様子を表したものだ」
「えっ!」
「本居宣長は古事記伝で『可畏き物を迦微とは云うなり』と述べている。神は単に願いを叶えてくれる都合のいい存在ではない。畏怖の対象であると云う意味に於いては妖怪と同じなんだ」
「なるほど。妖怪と神はコインの表と裏みたいなものなんだね。柳田國男も、信仰を失った神が零落したものが妖怪だって言ってたし」
鳥羽さんが述べる。そういえば、河童は水神が落ちぶれたものだって、〈地獄先生ぬ〜べ〜〉でもやってたな。
「妖怪のイメージはなんとなくわかったよ。とりあえず、幽霊と妖怪の話に戻るけど、この二つの一番大きな違いって、幽霊が死後の人間が現れたもので、妖怪が人間以外の化け物ってところだよね」
言い終わったところで、俺はすぐ矛盾に気がついた。
「あれ? でも雪女とか山姥とかろくろ首って、妖怪だけど人間が化けたものだったような……」
「うむ。雪女の正体は雪の精の他、雪中で行き倒れになった女の霊だと云う伝承もあるし、山姥とろくろ首も同様に、元は人間だと云う伝承がある。雪女との類似が指摘されることがある姑獲鳥と云う妖怪も、死んだ妊婦が化けたものであるから元は人間だ」
「じゃあ、雪女とか姑獲鳥はどうして幽霊じゃなくて妖怪なの?」
宝生さんはしばし考えると、
「いくら人間そっくりの姿であっても、玉藻前のように、元が妖怪であればそれは妖怪だ。だが、その逆――人間が妖怪の性質を得た場合は、完全な妖怪と化す」
「元は人間であっても、人間とかけ離れた姿になっていたり、特定の場所に憑いて、人間に無差別に危害を加えるようであれば、それは妖怪ってことだね」
鳥羽さんが言った。
宝生さんはうなずき、
「ええ。有名な例で云うと、百人一首の歌人として広く知られる、崇徳天皇がそうです。彼は後白河天皇への強烈な怨念から、生前に天狗となり、日本を祟ると誓うことによって、日本三大怨霊に挙げられ、雨月物語にも登場するほどの大妖怪となりました。
崇徳天皇の場合、自らの意志で妖怪になったと云う点が稀有ですが、雪女や姑獲鳥のように、死後の人間が自然に妖怪化することは屡々あるのです」
「そういえば、江戸の有名な怪談に〈皿屋敷〉っていうのがあったよね」
美術部部長は「あれは確か……」と天井のほうに視線を漂わせ、
「主人が大切にしてた皿を割って、井戸に投げ込まれたお菊っていう女中が、亡霊になって夜な夜な井戸に現れて、皿の枚数を悲しげに数えるって話だったと思うけど」
「ええ。文献によって、皿はお菊を陥れる為に主人が隠した、お菊は自殺した等の差異はありますが、何れにしても、お菊の霊によって主人の屋敷が呪われ、お家断絶になると云う結末は同じです」
「この話に出てくるお菊も、幽霊から妖怪になってるよね」
宝生さんは首肯する。
曰く、主人のお家断絶で終われば、一般的な幽霊の復讐譚と変わりないが、この皿屋敷の伝説には続きがある。空き家となった屋敷を別の人間が手に入れた後も、井戸からお菊の声が聞こえ、住人に凶事が続きお家断絶になるのだ。さらに、その次に屋敷を手に入れた住人も、同様にお家断絶になる。やがて、あの屋敷は化け物屋敷だと風評が広まり、誰も住まなくなってしまう。このお菊は明らかに、人ではなく場所に憑いており、彼女個人の因縁とは遊離したことを行なっている。つまり、四谷怪談のお岩のような、生前の個人のアイデンティティに基づいた存在から、崇徳天皇のような、普遍的な恐怖の具現――妖怪へと変化した、ということらしい。
「なるほど。でもそれを聞くと、中国の縊鬼も妖怪のような気がしてくるけど」
俺が疑問を投げかけると、
「中国じゃ、死者が生まれ変わるために誰かを代わりに死なせる必要があるっていう、〈鬼求代〉の概念が浸透してるからね。これはまあ、いわば物理法則みたいなものだから、それに従う縊鬼自体は普通の幽霊なんだよ」
鳥羽さんが答えた。
「そういうことですか。幽霊と妖怪との違いはよくわかりました。――つまり、この旧校舎という場所には、幽霊ではなく、無差別に人を襲う妖怪がいて、その妖怪に蔵間さんも松田先輩も取り憑かれてしまった、と言えるわけですね」
「蔵間さんの目には、本当に妖怪が見えていたかもしれない……。宝生さんはそうおっしゃっていましたよね」
薬師さんが胸に手を当て、囁くように言った。
「そうそう、もともとそんな話だったね」
鳥羽さんが宝生さんのほうへ視線を向ける。
「松田主の場合はどうか分かりませんが、蔵間氏の目に実際に妖怪が見えていたと云うことは、生前の行動から考えると充分あり得るでしょう」
「そのメカニズムを説明するのに、幽霊や妖怪の成り立ちが関わってくるってことだよね」
「ええ。幽霊や妖怪が人間の目に見えるケースは、四つに大別できるのです」
宝生さんはまたしても事象をパターン分けし、それを流暢に述べ始めた。




