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メフィストフェレスの肖像.2

 吉山さんを先頭に美術室を縦断し、デッサン中の部の主へ近づいていく。

 薬師さんや宝生さんを(うな)らせた模写の作者は、どんな風にデッサンを描くのだろう。俺は気になって、彼の手元を眺めてみた。

 彼はアタリを取ることなく、紙の白い部分に軽快に木炭を走らせていた。その手の動きは一切の迷いも躊躇(ちゅうちょ)もなく、無造作にさえ見える。しかし、(またた)く間に石膏像の眉や鼻が、恐ろしいほどの生気を帯びて、ありありと木炭紙に現れてきた。

 その木炭さばきは、〈夢十夜〉での漱石の言葉を借りて言うなら『大自在(だいじざい)の妙境に達している』とでもいった風情(ふぜい)だった。まるであの通りの眉や鼻が、木炭紙の凹凸(おうとつ)の中に最初から隠れていて、それをこすりだし(フロッタージュ)で浮かび上がらせているかのようだ。

「部長。部の見学にみえた、新入生の方々をお連れいたしました」

「うん。ありがとう」

 硝子(ガラス)の鈴を転がすような透明な声。彼は手を止めて、ゆっくりとこちらを振り返る。その秀麗さに、思わずはっと息を飲んでしまった。

 色白でほっそりとした中性的な面立ちで、まるで飛花(ひか)のように、あえかで(はかな)げな香気を身に(まと)う人だった。吉山さんとは対照的に、色も輪郭も(おぼろ)(かす)んで見える。

 カッターシャツを腕まくりしているので、柔らかな線の女性のような腕が(あら)わになっており、木炭で汚れた指やてのひらすらも、彼自身の清らかな美しさを引き立てていた。

「男子二人に女子が三人……もしかして君たち、松田くんの中学の後輩かい?」

「ええ。その通りです」

 宝生さんが応じる。

「そうか……そろそろここに来ると思ってたよ。伊勢くんから話は聞いてたから」

 彼は神妙な顔つきで、手にしていた木炭をイーゼルの出っ張った部分に置いた。どうやら彼も妖狐と同じく、俺たちが何者で、何が目的なのかを知っているらしい。

「吉山くん、ご苦労様。ここからは僕がバトンを引き継ぐから、活動に戻っていいよ」

「はっ、失礼いたします」

 副部長は部長の意図を察したらしく、あっさりと引き下がった。

 一呼吸間を置いたあと、彼は居住まいを正し、

「さて、一応挨拶しとこうかな。美術部の部長をさせてもらってる鳥羽です。知ってると思うけど、松田くんが亡くなった当時のクラスメイトだよ」

 こちらに柔らかく微笑みかけてきた。俺たちもそれぞれに名前を告げる。

「なるほど。ということは、あなたが観月先生ですね」

 五人が名前を言い終わったところで、鳥羽さんは宝生さんのほうに向き直った。彼女がアマチュア作家の観月鈴児(みづきれいじ)であることも、伊勢さんから聞いて知っていたらしい。いや、もしかすると、松田先輩から聞いていたのかもしれないが。

「先生は()してください。それに敬語も」

 やんわりと返す観月鈴児。だが、その声音の奥のほうには、金属製の(しん)のようなものが突き通っている。代々(まつりごと)(つかさど)ってきた宝生家のお嬢様だけに、〝先生〟という言葉に何か複雑なものを抱いているのかもしれない。

「あっ、ごめんなさい。僕、観月鈴児の小説のファンなものだから」

 彼は少し決まりが悪そうにはにかみ、こめかみを()いた。

先程(さきほど)、貴方の絵を拝見させていただきました。こちらこそ、貴方を先生と呼ばなければなりません」

「あはは……そんな大層なものじゃないよ」

 美術部の部長はゆるりと首をふる。

「僕の取り()物真似(ものまね)だけだからね。吉山くんは僕を(した)ってくれてるみたいだけど、僕は彼みたいに、オリジナルなものを創造することはできないし」

 静かな微笑を保っているが、その表情には憂いを帯びた寂しげな色が下塗りされていた。

 宝生さんも同じように感じたらしい。そちらへは深入りすることなく、話を本題に移した。

「我々はあなたと法水大我氏両人にお会いするため、ここに足を運びました。ですが、法水氏はあなたとお話しされた後、この部屋を出ていかれたようですね」

「うん。法水くんなら、音楽室へ行ったはずだよ」

「法水氏とは、どう云ったことをお話しされたのでしょうか」

「少し、個人的(プライヴェート)なことをね……」

 どうやら、こちらも触れてほしくない話題だったらしい。彼はすっと目を伏せた。秘め事の気配漂うその仕草は、ほのかに色っぽささえ感じさせる。

「ごめんね。いきなり曖昧な回答で」

「いえ」

 宝生さんは無理に追及しようとせず、松田先輩の事件について何か知っていることはあるかと尋ねた。

「うーん……そうだね」

「松田主と同じクラスだったと云うことは、彼の上履きが切り刻まれ、小説のメモやプロットが書かれたノートが盗まれたとき、それを現場で体験しておられたのですね」

「うん。あれは確か……そう、冬休み明けのことだった。五時間目が始まる前、教室に帰ってきた松田くんは、机の中からノートが消えてることに気づいたんだよ」

「法水さんが真っ先に犯人だと疑われたんですよね」

 俺の問いかけに彼はうなずき、

「松田くんが〈多田村舞ただむらまい〉、法水くんが〈天田茉莉あまだまつり〉っていうペンネームで、ネットで小説を書いてたんだけどね。ファン層が被ってて競合関係にあったみたいだし、仲も悪かったみたいなんだ。松田くんはクラスの人気者だったし、彼に悪感情を抱いてるのは法水くんぐらいだろうってことになったんだよ」

「へえ、ファン層が被ってたんですか。なんだか、パッと見た感じだと、全然雰囲気が違いましたけど」

 智慧が言う。

 確かにそうだった。天田茉莉が、犯人が探偵に対してトリックを用い、探偵が推理に用いる論理も現実の世界観に即した、クラシカルな推理小説にこだわっていたのに対し、多田村舞――つまり松田先輩は、作者が読者に対して用いるトリックを主題にしたり、ハードボイルド小説やスパイ小説、冒険小説、歴史ミステリー、SF小説、ホラー小説、ゴシック小説などの要素を取り入れた作品も多く書いていた。

「松田くんと法水くんの両方が、エラリー・クイーンっていう同じ作家に影響を受けているのは間違いないよ。なにせ、本人たちからそう聞いたからね。だから、表面上は違って見えても、根底には抜き差しならない共通項があるのかもしれないね」

 鳥羽さんが述べた。宝生さんはうなずきを返すと、

「競合関係で不仲だったとのことですが、実際、松田主と法水氏の関係を見ていて、鳥羽さんはどう感じましたか?」

 話を先に進めた。

「そうだね、やっぱり近くで見てると気まずい感じは伝わってきたかな。……でもね、なんだかんだいっても同じミステリー部の部員なわけだし、通じ合うものは多かったと思うんだ。天田茉莉の活動にもそれは現れてるしね」

「と云いますと?」

「松田くんが亡くなって以来、多田村舞の小説の更新は当然ストップしてるんだけど、意外なことに、天田茉莉のほうも更新のスピードがガクッと落ちてるんだ。やっぱり、宿敵(ライヴァル)がいなくなってしまうとショックを受けるものなんだなって感じたよ」

「張り合いがなくなってしまった、と云うことでしょうか」

「かもしれないね」

 鳥羽さんが相槌を打ち、ここで言葉のラリーが途切れる。その間を埋めるように、

「上履きが切り刻まれてたのは、法水さんのしわざだと思いますか?」

 智慧が上履きの話題を持ち出した。

「うーん……これは僕の個人的な意見でしかないんだけどね」

 彼は訥々(とつとつ)と言う。

「法水くんがそこまでするとは思えないんだよ。そんな露骨で、下卑(げび)たことをする理由がないっていうか」

「ですよね。須弥山高校って荒れてるイメージないですし、生徒が信用されてて校則だってゆるいですし、誰がつかっちゃんに嫌がらせするにしても、もっと巧妙というか、遠回しな方法でやりそうなものですけど」

 一理ある意見だ。それを受け、

「うむ。だが、ノートを盗み上履きを切り刻んだのが松田主殺害の犯人だと仮定すれば、その疑問を説明することは可能だ」

 宝生さんがきっぱりとした口調で言った。

「前もってノートを盗み上履きを切り刻んでおくことで、松田主の自殺が不自然に見えにくい状況を演出できる。普段からいじめがあったかのように、学校外部の人間に分かりやすく示したかったと云うことだな」

「上履きはともかく、法水さんに真っ先に嫌疑がかかるノートをわざわざ盗んだってことは、彼に罪を被せようとした誰かの犯行っていうこと?」

「或いは、そう思わせようとした法水大我自身の犯行か」

 俺のほうを見て彼女が返答する。さらに、

「法水さんに真っ先に嫌疑がかかったっていうのは、さっき僕が話した通りなんだけどね」

 鳥羽さんが言葉を継いだ。

「実を言うと、松田くんにとってあの創作ノートが大事なものだっていうのは、クラスのみんなはもちろん、クラス外にも結構知ってる人がいたんだ。松田くんは確かに人気者だったけど、それだけ目立った存在っていうことでもあるから、本人の思いもよらないところで恨みを買ってる可能性は否定しきれない。だから、終始法水くんだけが疑われたってわけでもないんだよ」

「それじゃ結局、どっちともいえないってことかぁ……」

 隣でがっくりとうなだれる智慧。

「鳥羽さん。他には何か、ノートや上履きの件で思い当たることはありませんか?」

「そういえば、上履きで一つ思い出したよ」

「なんですか?」

 智慧が顔を上げ、期待に満ちた目を鳥羽さんに向ける。

「といっても小さなことだから、たぶん事件には関係ないと思うけど」

 彼は前置きし、

「ノートが盗まれた日は、六時間目に体育の授業で柔道があってね。その授業が終わって着替えるとき、『靴下がなくなった』って松田くんが言ってたんだよ」

「靴下、ですか」

「うん。そのあと僕たちは下駄箱で、上履きがズタズタにされてるのを目にしたんだ。もしかしたら、靴下も誰かに盗まれたのかもしれないと思った、っていうだけの話なんだけどね」

「うーん……そうですか」

 確かに事件には関係なさそうだし、仮に靴下を盗んだのが犯人だったとしても、事件の謎解きに役立つ手がかりになるとは思えない。

「鳥羽さんは蔵間氏とも親交をお持ちになっていたそうですね」

 会話が袋小路ふくろこうじに入りつつあったので、女帝が新たな方向へ話題を展開した。

「うん。蔵間さんは特定の部活に所属してたわけじゃないんだけど、七不思議に興味があるとかで、放課後の旧校舎によく出入りしてたから、それがきっかけで親しくなったんだ。画家で魔術師でもあるオースティン・スペアとか、ロザリーン・ノートンの作品について教えてもらったときはすごく衝撃を受けたよ」

「文芸部副部長の大江さんによると、蔵間さんは昔から自分は霊感が強いと公言していて、オカルト関連のものに造詣が深かったらしいですね」

 鳥羽さんは俺の投げかけにうなずいた。

「彼と松田くんの死の背後に七不思議の呪いが関わってるって噂は、二、三年生の間じゃもう隅々まで広まってるんだけどね。それは、蔵間さんが七不思議通りに人が亡くなることを予言してたのが大きな要因なんだ」

「大江さんは文芸部の実務を担当してるしっかりした人みたいですけど、ああいう人まで呪いの噂を信じてるのはちょっと意外でした」

「ああ、それはね、成道くん……。蔵間さんの〝そういう分野〟への詳しさが、ちょっと洒落にならないくらいのものだったからだよ」

 美術部部長はゆっくりと上体を前に倒し、太ももに両の(ひじ)をついた。

「ちょっと洒落にならないくらい……といいますと?」

 恐るおそる問うてみる。

「とにかく、世の中でオカルトと呼ばれてたり、それに類するものは片っ端からだよ。例えば……錬金術、西洋占星術、魔術っていったような狭義のオカルティズムだとか、ヘルメス思想、エジプト神話、カバラ、魔女術(ウイッチクラフト)、魔女の起源とされる、古代の地中海世界における巫女みこのシビュラ、〈Magic〉の語源になったメディア王国起源の祭司階級マギ、古代ギリシャのエレウシスの秘儀、古代ケルトのドルイド教、秘密結社とされるフリーメイソンリーやイルミナティ、薔薇ばら十字団や黄金の夜明け団、日本の魔術結社O∴H∴やI∴O∴S∴、それから……インド占星術だとか、中国の五術、陰陽道おんみょうどう宿曜すくよう占星術、ゼロ学占星術、数秘術すうひじゅつ、タロット、タロットの起源とされるジプシー占い、土占い(ジオマンシー)、水晶玉を使ったものが有名なスクライング、テーブル・ターニングや狐狗狸コックリさん、古代の日本で行なわれた太占(ふとまに)亀卜(きぼく)、万葉集に登場する辻占つじうらなんてものにも詳しかったし、蠱毒(こどく)犬神いぬがみ呪詛じゅそ法、(うし)(こく)参りが有名な厭魅(えんみ)、密教や修験道の怨敵おんてきを呪い殺す調伏ちょうぶく法なんかを始めとした呪術……あと、神道の神降ろし、恐山(おそれざん)のイタコや沖縄のユタの霊媒(れいばい)、アイヌのトゥスクル、邪馬台国(やまたいこく)卑弥呼(ひみこ)が使ったとされる鬼道(きどう)、インディアンの大いなる神秘(グレート・スピリット)信仰、ハイチで発達したヴードゥー教、キューバのサンテリーア、ジャマイカのオビア、ブラジルのカンドンブレとマクンバ、アフリカのアザンデ人の妖術と邪術、ビルマ(ミャンマー)のウェイザー信仰、中国の童乩(タンキー)、北極圏のアンガコック、オーストラリア先住民アボリジナルのガラパ、インドネシアのバリ島のバリアン、ジャワ島のドゥクン、ハワイのカフナっていったような世界各国の民間信仰やシャーマニズムだとか、幽霊や妖怪、超常現象や超能力を研究する超心理学、超古代文明、UFOや未確認生物、都市伝説や陰謀論……その知識の範囲は膨大すぎて、蔵間さんからよく話を聞いてた僕も、とても全部は覚えてない」

「そ、それはまた、なんとも……」

 どう言えばいいのか。

「しかも、その一つひとつに対する深さがまた尋常じゃなかったからね。多分、まともに説明しようとしたら日が暮れると思うよ」

「ぅぅぅ……た、たしかにそこまでいくと、蔵間さんが亡くなった背後に、何かの力が働いているような気がしてきますね」

 そう言う薬師さんの声は震えている。

「蔵間氏と松田主は、両名ともに七不思議の由来を調べていました。呪いの噂については誰しも思うところがあるでしょう。ですが、その如何いかんを別にしても、彼らの死に何らかの繋がりがあるのではと云う疑問は浮上してきます。二人の死は時と場所が近接していますからね。

 ――貴方は二人の死の関連性について、どうお考えですか?」

 女帝がいつも通り、クールに問うた。

「そうだね……」

 ゆるやかに、考えに沈むように、鳥羽さんは視線を落とす。

「蔵間さんは松田くんとも親交があったから、二人に繋がりがあるのは確かなんだけどね」

 ここで俺に思い当たることがあった。

「そういえば、松田先輩が高校に入ってから書いた小説は全体的にオカルト色が強いですし、ネットに公開予定が告知されたまま、それを果たすことなく先輩が亡くなってしまった小説も、告知によるとオカルティズムや宗教が重要なテーマになっていました。これは蔵間さんの影響があったということでしょうか」

「そういうことだね」

「なるへそ。つかっちゃんはSFにすごく詳しくて、科学をテーマに推理小説を書くことも多かったのに、なんで高校に入ってから真逆の方向に行き始めたのか気になってたんですよ」

 得心がいったという様子の智慧。

 だが、鳥羽さんは述べる。

「高校に入ってから書かれた小説が蔵間さんの影響を受けているのは間違いないよ。けど、生前の松田くんが言うには、あれも一応、大きな意味でいえば科学がテーマになってるらしいけどね」

「えっ、どういうことですか?」

 智慧が意外そうに聞き返す。

 俺たちの目的は、死者――松田先輩の声に可能な限り耳を傾けることである。転落死の謎を解明するのに直接役立つ情報ではなさそうだが、俺も鳥羽さんの話に興味を持った。

「西洋近代科学の芽は、ルネサンス期の占星術や錬金術によってはぐくまれたんだ。当時の科学はまだ、オカルティズムと明確には区別できない側面があったんだね。公開予定の小説で、松田くんはそのあたりのことにも触れるつもりだったみたいだよ。

 多田村舞として活動を始める前に書かれた小説に、科学と神学についての議論が出てきたりしてたし、科学の成り立ちへの興味は前々からあったんだろうね」

「あ〜、確かにありましたね。つかっちゃんがまだ中学生のときの小説にそんな場面」

 ぽんと手を打つ智慧。

 ヨーロッパの伝統では、神学的真実と科学的真実は密接に関わり合っていた。

 人間が今いるこの世界の姿や、全ての物理現象の背後には、神の意志やメッセージが隠されており、それを解明することが科学の目的とされていたのである。

 地動説を唱えたコペルニクスはカトリック司祭であり、地動説を支持して異端審問にかけられたとされるガリレオ・ガリレイは、無神論者どころか誰よりも敬虔けいけんなクリスチャンだった。また、引力が地球外を含めた全ての物体間に作用すると気づき、惑星の運行法則を力学的に解明したアイザック・ニュートンは、その物理学者的な側面や数学者的な側面ばかりが強調されて現代に伝わっているが、実は聖書の解釈や錬金術に関する著作も多く残している。経済学者のケインズは彼を、『理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だ』と評していたようだ。

 と、たしかそんな風に松田先輩は書いていた。

「少々(よろ)しいでしょうか」

 女帝が口を開く。

 回想にふけっていた俺は、その声で現世うつしよに引き戻された。

「なにかな? 観月さん」

 鳥羽さんが彼女のほうへ視線を向ける。

「蔵間氏と松田主に繋がりがあると云うことは理解できました。ですが我々は、松田主の転落は他殺だと云う前提でこの事件を調べています。その場合重要となってくるのは、蔵間氏と松田主の繋がりではなく、むしろ、この二人と繋がりがある()()()()()ではないでしょうか」

「確かに。まったくその通りだね」

 大きくうなずく鳥羽さん。

 なるほど。〝第三の人間〟か……。

「その様子だと、鳥羽さんはこの条件に当てはまる人に心当たりがあるんですか?」

 智慧が尋ねた。

「あるよ」

「本当ですか?」

「うん。まず僕だよね」

「あっ、すみません……そういうつもりじゃ」

「ふふ、わかってるよ」

 彼は春風のようにほがらかに微笑む。

「ぱっと思いつくのはミステリー部副部長の東方さんかな。げ口するみたいでちょっと気がひけるけどね」

「東方さんですか。たしか、ミステリー部を超常現象マニアが集まる部だと思って入部したっていう……」

「そうそう」

「彼女、蔵間さんと話が合いそうですもんね」

 俺は言った。

「そうだね。法水さんに誘われてミステリー部に入部してから、東方さんは蔵間さんとも会うようになったみたいだけど、実際話は合ったみたいだよ」

 蔵間さんと松田先輩が交流するきっかけを作ったのは彼女らしい。

 なんでも、ルネサンス期ドイツの〈アグリッパ〉という高名な魔術師や、近代魔術復興の象徴とされている〈エリファス・レヴィ〉、グリモワールという、実在する魔術書の翻訳で知られる〈マグレガー・メイザース〉、漫画にもよく名前が出てくる有名な二十世紀の魔術師〈アレイスター・クロウリー〉、魔術に心理学の概念を持ち込み、アレイスター・クロウリーとも交流があった〈ダイアン・フォーチュン〉、アレイスター・クロウリーの弟子だった〈ケネス・グラント〉、門外不出だった、黄金の夜明け団という魔術結社の秘儀を暴露した〈イスラエル・リガルディー〉、ノーベル文学賞を受賞した詩人であり、神秘主義にも傾倒していた〈ウィリアム・バトラー・イェイツ〉、全ての宗教はその本質的な部分で繋がっているとする神智学の創始者〈ヘレナ・P・ブラヴァツキー〉、ルーマニアの宗教学者で作家としても活動し、多方面に影響を与えた〈ミルチャ・エリアーデ〉、三島由紀夫と親交があり、フランス文学の翻訳やオカルトへの造詣ぞうけいの深さでも知られる作家〈澁澤しぶさわ龍彥たつひこ〉などの人物が書いた本に、蔵間さんは詳しかった。東方さんがそのことを松田先輩に話したところ、先輩は蔵間さんに興味を持ち、親交が始まったという。

 これが真実なら、松田先輩の未完の作品に、東方さんは間接的に関わっていたことになる。

「東方氏以外で、亡くなった二人と関係が深かった人物に心当たりはおありですか?」

 と宝生さん。

「うーん……みんなも知ってる通り、松田くんのほうはかなり顔が広いんだよ。けど、蔵間さんのほうは正直、人との関わりを可能な限り避けるタイプだったからね。蔵間さんのクラスメイトにあたる人たちについては、僕もよく知らないし、今はもう卒業しちゃってて調べようもないし」

「松田主と特に関わりが深く、尚且なおかつ旧校舎に頻繁に出入りしている人物――法水大我、神月夜子、伊勢大輔、西連寺鳴の四名についてはいかがですか?」

「えーっと……そうだね」

 彼は木炭の粉がついた指を擦り合わせながら、しばしうつむきがちに考え込んだ。

 やがて、「そういえば」と顔を上げ、

「蔵間さんは〝哲学〟の話を神月先生とよくしてたよ」

「哲学を、神月先生と……ですか」

 意外なワードに、意外な人物が飛び出してきた。

「なんか、蔵間さんと哲学ってあんまり結びつきそうにないイメージですけど、彼は哲学に詳しかったんですか?」

「分野はかなり特殊だったみたいだけどね」

 鳥羽さんは智慧に視線を合わせた。

「さっき、蔵間さんがアグリッパっていう魔術師の本に詳しかった話が出てきたよね。その人の本に〈オカルト哲学〉っていうタイトルのものがあったり、錬金術のとされるヘルメスの思想がヘルメス哲学って呼ばれたりもするように、自然哲学には自然魔術も含まれるんだよ。それに、中世ヨーロッパの文化はキリスト教の世界観が土台にあるから、神学もオカルティズムと同じように、自然の構造や人間の本性の分析をしてるっていう意味で哲学なんだね」

「そういえば、つかっちゃんも哲学に詳しかったですよね。バウムクーヘンみたいなやつがどうのこうのって」

「バウムクーヘン……?」

 穏やかな彼の表情に、少し戸惑いの色が混じる。

「君はもしかして、アウフヘーベンのことを云っているのか?」

「そう、それそれ」

 宝生さんの言葉にうなずく智慧。……あんなのでよく正解がわかったな。

「なるほど、弁証法か……。確かに、松田くんの小説によく出てくるよね」

「弁証法以外にも、カントの〈物自体ものじたい〉や、ヴェーダ哲学の〈輪廻転生りんねてんせい〉〈梵我一如ぼんがいちにょ〉等、松田主の小説には、ドイツ観念論や東洋哲学の概念が多く登場しますね」

 女帝が鳥羽さんに応じた。

「哲学を取り入れてるといえば……僕は初期の多田村舞の〈ミネルヴァのふくろう黄昏たそがれに飛び立つ〉が好きなんだ」

「あれは私も好きな作品です」

「観月さんにそう言われると、僕が書いたわけでもないのにちょっと嬉しいな。この小説って、タイトルからしてもう、ヘーゲルの〈法の哲学〉序文が由来だし、〈複雑系〉や〈真理の整合説〉についての説明が中盤で出てきたりするよね。クライマックスで犯人が言った、『自分自身の死を引き受けることによってのみ、現存在は本来的な実存を手に入れる』っていう象徴的な台詞セリフも、たぶんハイデガーが元ネタだし」

「ええ、仰る通りです」

 二人の哲学談義で思い出したが、ネットに公開予定のまま先輩が亡くなった小説の世界観にも、ニーチェの〈永劫回帰えいごうかいき〉や、仏教の〈唯識ゆいしき〉の構造が取り入れられていたという。未完の作品の内容について先輩はあまり人に語りたがらないので、それ以外のことについて詳しくはわからないが。

「つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と」

「そういうことだね」

 となると、神月先生も、先ほど宝生さんが言っていた〝第三の人間〟に該当することになる。

「あの、哲学と神月先生で思い出したのですけど……」

 鳥羽さんや俺たちをうかがいながら、薬師さんがおずおずと発言した。

 鳥羽さんが「どうぞ」と優しく続きを促したので、彼女は再び口を開く。

「ここに来る前、物理準備室で神月先生から松田先輩の事件についてお話を聞いていたんです。でも科学のお話が始まったと思ったら、いつのまにか哲学のお話になっていたりして、それが松田先輩の事件とどう関わっているのかがわからなかったんです」

 ありのままに先ほど起こったことを話す薬師さん。

「どうやら、君たちもあの先生の餌食えじきになったみたいだね」

 鳥羽さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 この口ぶりからすると、あの妖狐は誰に対しても似たような態度を取っているらしい。

「量子がどこをどう動いているかは観測されるまで決まっていない。観測されるまで量子はどこにも存在しない。この世に完全な客観性は存在しない――といったことをうかがいました。先生はこれが事件の謎を解くヒントだとおっしゃったんですけど、よく意味がわからないんです。このお話の内容について、鳥羽さんに何か思い当たることはございませんか?」

「う〜ん……。僕もちょっとよくわからないね」

 彼の雪花石膏アラバスターのような眉間にしわが寄る。そこに落ちかかる柔らかな髪を見やりながら、俺は言葉をつむいだ。

「神月先生は松田先輩の事件について、終始何かを知っているような態度を取っていました。本当に何かを知っているんでしょうか? 先輩と蔵間さんの両方に繋がりがある人物が怪しいということで、彼女の名前がこうして出てきたわけですし、彼女が事件に直接関わっているという線で考えることもできるわけですが」

「申し訳ないけど、それを判断する根拠を僕は持たないよ。でも心情的には、あの人なら、事件について何を知ってたとしても、裏でどんな暗躍をしてたとしてもおかしくない気はするけどね」

「と言いますと?」

 彼は落ちかかる前髪を手の甲で横に流し、

「うまくは言えないけど、僕たちの考える常識的な枠組みとか、全てのしがらみを超越した存在っていうか……。そう、何かの弾みでまぎれ込んできた、この世にいてはならない異分子みたいな雰囲気があの人にはあるんだよね。あくまでも、僕個人が抱いた単なる印象の話だけど」

「は、はあ……」

 皆の目もあるので、つい一歩引いたような反応をしてしまった。が、その実俺も、同じようなことは身にしみて感じていた。

「常に妖異で、常に謎めいてて、常に何かがおかしいというか……。あの人のプライヴェートについて知ってる先生や生徒も誰もいないし。蔵間さんが前に、神月先生は凄い陰陽師の子孫だって言ってたことがあったけど、本当かどうかわからないしね」

「一つ、蔵間氏について質問しても宜しいでしょうか」

 涼しく刺すような宝生さんの声。

 鳥羽さんは「なにかな?」と彼女に視線を合わせた。

「蔵間氏は、『赤い部屋に殺される』と云う言葉を残して亡くなっています。この言葉の意味について、何か思い当たることはありますか?」

 彼はなぜか一瞬だけ目を逸らし、

「えっと、ごめんね……。僕には、蔵間さんの真意まではわからないよ」

まっとうに考えれば、〝赤い部屋()殺される〟ではない点に、読み解く手掛かりがありそうですが」

「それは私も気になってたんだよねー。〈赤い部屋〉ってそもそもなんなんだろうね」

 智慧が「うーむ」とうなる。

「えっと……これは蔵間さんに昔聞いて知ったんだけどね。そのものずばり〈赤い部屋〉っていう名前の都市伝説があるんだよ」

 鳥羽さんはそう前置きすると、まるで百物語でも開始するかのように、ぽつぽつと語った。

 曰く、古びたアパートに、ある大学生が引っ越しをした。その大学生は入居後、部屋の壁に中指が入りきる程度の大きさの穴が開いていることに気づいた。位置から考えて、穴は隣の部屋に繋がっているはずである。彼は興味本位で中を(のぞ)いてみた。しかし、穴の向こうは真っ赤で部屋の様子など見えない。日を改めて見ても相変わらず赤一色で、生活音も聞こえない。彼は不思議に思い、大家さんに聞いてみた。

「大家さん、僕の隣の部屋って誰も住んでいないんですか?」

 大家さんは答えた。「いいえ、女性が一人住んでいますよ。ただその女性は病気でしてね、目が真っ赤なんですよ」

 彼は理解した。その女性がずっと、穴からこちらの部屋を見ていたのだということを。

「この話にはタクシーの運転手が主人公のものもあるんだけど、覗くのがドアスコープなだけで、内容はまあ大体同じだよ。それから、世の中にYou Tubeが浸透する前に流行ってた、赤い部屋っていう名前のホラー系フラッシュもあったね」

 なんだ? この違和感は……。何かがしっくりとこない。彼の話の内容もそうだが、彼自身の発する空気……具体的に言えば、細かな仕草、声音、間の取り方や呼吸――そういったものの積み重ねが、俺の勘に何かをうったえかけている。

 まさか、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……?

「それはそうと、蔵間さんは死の間際、幽霊に取りかれていたって噂されてるのは知ってるかな?」

 彼への疑念は、彼自身の言葉と、

「それってもしかして、授業中、急に何かから逃げるように走って教室を出ていったり、休み時間に誰もいないところにぶつぶつと話しかけたりしていたっていう……」

 それに応じる智慧の声によって中断された。

「そう。あと、オカルト全般に詳しい蔵間さんは、この学校の七不思議についても興味を持って調べていたよね。生前の彼が、それに関連して周囲に語っていた言葉にも、幽霊に取り憑かれた――言い換えれば、七不思議の呪いの噂が生まれるきっかけがあったんだよ」

「七不思議の呪いですか……。これも、事件を構成する謎の一つではありますよね。それで、生前に蔵間さんは、七不思議について周囲にどんなことを語っていたんですか?」

「『首吊り彼岸桜は〈縊鬼いき〉に類似している』……そんな風に蔵間さんは言っていたみたい」

「〈いき〉? それは何ですか?」

「うん。縊鬼っていうのはね……」

 彼はゆっくりとうなずくと、また百物語の続きでも語るかのように、低く落とした声で話し始めた。

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