アクロス・ザ・ユニヴァース.2
「量子力学の標準理論は、事物が〈どのようであるか〉じゃなく、事物が〈どのように起こり、どのように影響を与え合うか〉を描写するの。一例を挙げれば、粒子が〈どこにあるか〉じゃなく、粒子が〈どこに現れるか〉を描写するわけ。量子力学の世界は、対象が形づくる世界じゃなく、極小のスケールでの基礎的な事象の世界なのよ。この基礎的な〈事象〉を土台にして、事物が構築されてるの。一九五〇年代に、哲学者のネルソン・グッドマンはこう表現してるわ。『対象とは、単調な過程である』。しばらくのあいだ同じものであり続ける――つまり単調な――過程が、対象を成り立たせているってね。量子力学は対象を描くわけじゃない。この理論が描くのは、過程と事象よ。そして事象とは、ある過程と別の過程の間に生じる相互作用――〈関係〉に他ならないの。事物が関係を選び取るんじゃなく、関係が事物という概念に根拠を与えてるのね。
また、量子力学によって記述される世界では、不確定性があるために、事物の運動は絶えず偶然に左右されるわ。あらゆる変数は常に振動しているの。あたかも、極小のスケールにあっては、全てが常に震えているかのようにね。これは超ひも理論のひもの振動とはまた別のものよ。世界に偏在するこうした〈ゆらぎ〉は、私たちの目には見えないわ。けど、それは単に、私たちの目がそれを捉えられないっていうだけ。例えば、山道に苔むした大きな岩があるとするでしょう? 岩はその場に静止しているわね。でも、もし私たちの目が、岩を構成する原子を観察できるなら、今はここ、次はそこへと、原子が絶え間なく振動している様子が見られるわ。子細に見つめれば見つめるほど、この世界は安定性を失っていくの。世界とは絶え間ないゆらぎであり、ミクロな事象の絶え間ない湧出なのよ。不動の岩ではなく、振動と湧出こそが、世界を形作っているの。この世の全ては、しばらくのあいだ自身の構造を維持している、量子のゆらぎの総体ってこと。それはあたかも、海の中に戻る前に、ほんのしばらく自らの同一性を保っている波のようなものよ。私たちの肉体を構成する原子もまた、私たちを通して流れ去っていくの。波や、そのほかのあらゆる事物と同じようにね。私たちは事象の流出であり、わずかのあいだ単調であり続ける過程である――。
これって、何かに似てると思わない? ネルソン・グッドマンよりも遥か前、紀元前五世紀頃にこの世界観を確立して、現代にまで広く浸透させた人物がいたのよ」
読めてきた。さっきの膜宇宙の話で、佐藤氏があんな喩えをしていたのはこれが理由か。
「察しがついたみたいね。成道くん」
「ええ」と応じ、俺はその尊称を口にした。
「仏陀ですね」
妖狐が笑みを浮かべる。皮肉や嘲りの笑いではなさそうなので、やはり当たりらしい。
「『因果関係によって作り出されたすべてのものは無常である』と、原始仏典の一つ〈法句経〉にあります。また、同じく原始仏典である〈ウダーナヴァルガ〉には『一切の形成されたものは空である、と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる』とありますし〈スッタニパータ〉にも『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ』と書かれています」
「そうそう。方丈記で鴨長明も言ってるでしょ?『ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』ってね」
「はぇ~すっごい。そういえば、しょうちゃんが空手を教わった師匠って、お寺の人だったっけ」
「ああ。正確に言うと、師匠の親父さんが寺の住職で、師匠自身が僧侶ってわけじゃないけど」
「あー、たしかそうだったね。……にしてもしょうちゃん、今言ってた〈空〉ってなーに?」
「あらゆる事物には永遠不変の固定的な実体、自性がない。あらゆる事物は、それ自身単体で存在する本質的なものを持っていない。つまり、全てのものは、形はあるがその中に実体はなく、常に移り変わっていく。これが仏陀の語った空だ」
「これが量子論と似ててね。量子は観測されるまでどこにも存在しない。量子は波でもなく粒子でもなく、新しい概念だって言ってたでしょ? 量子力学は、この世から完全な粒子を駆逐したのよ。この部屋や、校舎にある全てのものも、私たちの身体も、波動関数の存在確率は限りなく一〇〇パーセントに近いんだけど、本当に一〇〇パーセント、確かに存在するわけじゃないってこと」
「なんだか、めまいがしてきてしまいそうです……」
不安げにつぶやく薬師さん。
「大乗仏教じゃ『縁起の故に無自性、空』ってことを言うわけ。この〈縁起〉っていうのは、言い換えれば〈関係〉ね。上座部仏教では、まず先にものがあって、それらが縁起の関係に入るとしたの。それはおかしいと指摘したのがナーガールジュナよ。ものが固有の性質を持ったものとして自己完結的に存在しているのなら、 それが他のものと関係するのは不可能ではないか、ってね。大乗仏教はここから起ったわけ。まず有るのは縁起(関係)であり、この世界は縁起によって生じる。だから、全てのものは単体で固有の本質を持たず、無自性であり、空である。これが『縁起の故に無自性、空』よ」
この空の思想は虚無主義ではない。怖がっている薬師さんのためにも、そこをはっきりさせておかねば。
「宗教学者の立川武蔵氏は、空についてこう語っています。『あらゆるものは存在しているように見えるが、実は神も世界も肉体も言語すらも、何かが存在するという概念すらも存在していない。それが空の思想である。そのまったき無の世界は、空の思想を確立した思想家もその後継者たちも、そこに何があるのかを明確に言い残しておらず、今でも謎の場所である。しかし、その謎であることよりも重要なのは、その何もない地点に行くためにすべてを否定していく作業と、その地点に到達してから聖化され、新しく世界をとらえ直して甦ってくる、その円環的な自己のプロセスそのものが〈空〉だということである』。
円相という書画があるように、禅では空を象徴的に円で表現します」
「ふむ。円相ならば、茶道の掛軸で使用されているのを観たことがある。ただ一つの円で、悟りの境地や仏性、世界の究極的な姿や宇宙の真理を表したものだ」
と、宝生家のお嬢様。
「やるじゃない、成道くん。空は、そうした動的な行為の中に世界を捉え直すのよ。つまり、世界とはあらゆる行為の連続の中――過程――にあるってことね」
妖狐が続けて語る。
「〈全ての結果には必ず原因がある〉っていう因果の道理を軸にしてる仏教は、科学と同じように構造が論理的なの。ただ、科学は自然を対象化――言い換えれば、自己を世界から引き離して、距離を置いて世界を見るのね。世界と人間の関係は切れてるし、自己は世界の外にいるわけ。これが仏教的には無明(迷い)の境なのよ。仏教的な悟りの境地っていうのは、世界と自己が一つになることだから。自己は世界を見てるんじゃなくて、世界の内にいるの。自己は世界を場として生きていて、自己は世界と一体化してるの。もともと一つのものを二つとしてみるのが迷いであって、二つのものを一つとして見るのが悟りなのよ。
コペンハーゲン学派を創始して、量子力学の形成に指導的役割を果たしたボーアは、粒子と波動の二重性や、位置と速度の不確定性関係を始めとした、排他的な性質が相互に補い合う世界像を〈相補性〉と名付けて、後半生には東洋哲学を研究してたの。彼はこんな言葉を残してるわ。『我々は仏陀や老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない』。
ちなみに、デンマーク最高の勲章のエレファント勲章を受けたとき、ボーアが紋章に選んだのが〈太極図〉だったのよ。この太極図は、日本では〈陰陽師〉のマークとして知られてるわね。
あと『宗教のない科学は欠陥品、科学のない宗教は盲目』っていうのはアインシュタインの有名な言葉だけど、彼は『現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教だ』とも言ってるのよ。日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹も『素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた』って言ってるしね」
「〝存在とは何か〟を問うた、二〇世紀最大の哲学者とされるハイデガーは、晩年の日記で仏陀についてこう言及しています。『もし一〇年前に、こんな素晴しい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語やラテン語の勉強もしなかった。しかし、遅かった』と」
宝生さんが付け加える。
だが、妖狐は彼女には一瞥も与えず俺のほうを向き、
「ウィグナーの意識解釈は下火になったけど、量子力学はまだ、ボーアが言うような認識上の問題を私たちに投げかけてるのよ。成道くん、ナーガールジュナの思想の元になった、維摩経の不二法門ってあるでしょう?」
「自己と他者、色と空、智慧と愚痴、善と不善、聖と世俗、死と生、迷いと悟り――そういった、ありとあらゆる二項対立を全て解体するよう説いたものですね」
「そう。だから主観と客観も、二元論的に区別されるべきものじゃないわけ。いわゆる〈無分別智〉ってやつね。アインシュタインは〝誰かと相互作用を与え合ってる誰か〟から独立した、客観的な現実が存在するって思い込んでたから、量子力学を受け入れられなかったのよ。論理的思考による客観的事実の立証を試みる推理小説の探偵なんかも、そういう近代科学精神の権化でしょ? でも結局ね、この世に完全な客観性なんてものはないのよ。その意味においては、認識の主体と客体は不可分だっていうカントの言葉も、同じように正しかったってことね」
妖狐は俺たちをゆっくり見回すと、
「私から与えられるヒントはここまでよ」
話に幕を引いて、椅子の背もたれに身体を倒した。ただのパイプ椅子なのに、その瞬間、それはまるで玉座か何かのように見えた。
しばらく誰も口を開けなかった。結局最後まで、どこがどうヒントだったのかわからなかったが、なんとなく圧倒されてしまっていた。だが、ずっとこの時を待っていた女帝が、ここで果敢に攻めた。
「ヒントと仰ったと云うことは、貴女は松田主の事件について、我々の知らない何かを御存知なのですね」
「私から与えられるヒントはここまでだって言ったはずよ」
にべもなく撥ねつける妖狐。こうなっては女帝も、つけ入る術がない。
「ま、これで終わってもあれだから、次に繋がる情報を教えてあげる。法水なら美術室に行ったわ」
彼女はついでのようにそれだけ告げると、机の上の本を手に取り、再び読み始めた。まるで今までわざと黙っていたかのようだが、そんなことを指摘したところでどうしようもない。
もうここにいても仕方ないだろう。そう判断したらしい。宝生さんはこれまでの〈ヒント〉と、新たな情報提供に感謝の意を表した後、
「では、長居をさせていただきましたが、そろそろ失礼いたします」
俺たちに部屋を出るよう促した。それぞれに簡単な礼を述べ、皆で廊下へ出ようとすると、
「あなた達、ずっと五人で一緒にいて、みんなで仲良く事件の捜査をやってくつもり?」
背中に妖狐の声が投げかけられた。女帝は振り返り、
「これは丁度五人でなくてはならないのですよ。それ以上であっても、それ以下であってもならない。五芒星が、長さの等しい線分で結ばれた五つの点によって成立しているのと同じように」
「和を以って貴しとなすってやつね。ま、それはもちろん結構なんだけどさ」
妖狐は机に肘をつき、
「最近じゃ小学生でも知ってることだけど、Japaneseは単複同形っていって、単数形と複数形が同じ形の名詞なの。他の単複同形の名詞にfishとかsheepとか群居性の動物が多いのって、なんだか暗示的じゃない? ニーチェの〈群居動物〉って言葉、あなた聞いたことあるでしょ?」
「それは単なる偶然でしょう」
無感動に返す宝生さん。
「人間は間柄的存在ですから」
「あら、和辻哲郎?」
まるでゲームでも楽しんでいるかのように、愉悦の表情を見せる妖狐。女帝はそれには取り合わずに廊下へ出たので、俺も廊下へ出た。
「それでは、失礼します」
「ま、精々頑張ってね」
開いた引き戸越しに、ひらひらと手を振る妖狐。俺は目礼だけすると、ゴロゴロゴロと音を立て、逃げるように扉を閉ざした。