009話 「あの人たち/寒空の下」
人が一斉に騒ぐ声が聞こえて、秋は目を覚ました。先ほどと変わらない部屋にいる。強いて違うのは、キリエと白髪の老人がいないことぐらいだ。それ以外、特に変わっていることは無い。
身を起こし、眼を擦りながら人々の声が聞こえる方の襖を見た。好奇心から、這うようにしてそちらへ向かい、少しだけ襖を開けてしまう。片目で見られる視界にしても、ほんの少しだけだ。気づかれては多分まずいことになるのだろうと、秋は本能的に思っていた。そういうところに彼女は融通が利く。
狭い視界に入ってきたのは、円状になった見物客が取り巻く中、二人の男だけが座って何かを飲んでいる光景だった。秋にとってはそれが不思議で仕方が無い。何をしているのかはまったく分からなかった。そして、予測さえ付かない。飲んでいる物は、膳に置かれたとっくりとおちょこからして酒の類だろう。奥側で顔を朱色に染めて飲んでいる人間がキリエだということははっきりと分かった。前にいる背中を見せて飲んでいる人間は分からない。異様に背中からでも分かる威圧感があった。
ふと、キリエはこちらを見て笑って見せた。二人の視線は合っている。秋に捧げたものだ。安心しろ、と言っているように彼女は感じた。
互いが交互におちょこに注がれた酒を飲み交わしていく。途中から観戦し始めた秋には、二人がすでにどの程度の量を口にしているのかは分かっていない。けれど、段々と客の勝負事の雰囲気とは関係ない、祭事のムードに誘われて二人は笑っていた。心底楽しそうに見えるけれども、客の隙間にちらと見えるスーツ姿の男たちは体をピクリともさせずにその勝負事をじっと見守っていた。思えば、キリエの勝負相手と思われる背中だけが見える人間も、スーツを着ている。
「やっぱり」
女の声がしたので大層驚いて秋は後ろを振り返った。先ほどのレジ打ちの女だった。黒のレースのドレスに身を包んだ彼女は、驚くほどスレンダーで華奢な体つきをしている。レジ台に隠れて見えなかったが、とても日本人の足の長さに見えるものではない。ベラルーシにいそうな、そんな容姿をしている。
「あなたねえ、中学生ぐらいの歳で、あんまり危ないものを見ない方が良いと思うけど」
若い女は艶のある唇を秋に寄せ、恐れた表情を舐めまわすように見つめた。
襖は彼女の手によって閉じられる。喧騒が、また遠くなった。
「終わるまでは、お姉さんとお喋りしていましょうね」
女はそう言うと、後ろ手で隠し持っていたトランプを目の前に出し、広げた。小悪魔的な笑みを浮かべている。女は、流れに乗れていない秋を無視するようにそれをしていた。
「どれでもいいから、好きなものを一枚取って。それからそのマークと数字を覚えてもう一度この中に入れて」と女は言う。
半泣きだった秋は、適当に真ん中あたりから抜き出し、見た。スペードのJ。そして言われた通りに戻す。女は楽しくてたまらないという表情で、トランプの束を切り出し、ある程度混ざったところで一枚を抜きだし、表を秋に見せた。
「ずばり、これでしょう?」
彼女が手に持っていたのは、スペードのJのカードだった。金髪の髭を蓄えた貴族的容姿の男の絵。それは先ほど秋が引いたカードの絵柄と、すべてが一致していた。唖然とした秋の顔を見て、女は小さく、それでも快く笑っていた。
「子供だましなマジックだけど、私このぐらいしか出来なくて。もう一回やる?」
秋は断った。女は残念そうに俯き、トランプを棚にしまう。
「そういえば、気になってたんだけど、あなた、何の用事があってここに来たの?」
秋は複雑な話を頭の中で端的にまとめることが出来なかったので、言葉にして話せる筈もなく、黙っていた。けれど目は頑なに訴えていた。必死に場の状況を、記憶の縁を、黒い瞳が映し出していく。
それでも女は気づかない。
「まさか売春婦になろうとしてここに来たわけでもあるまいし…。単なる家出少女?」
秋は適当な考えで、頷いた。外出と家出とでは全くとして違うものではあるが、彼女は小さな家出とも認識があったので、手っ取り早く頷いてしまったのだ。
「家出かぁ…。キリエの家に泊まるの?」と女は言う。言いつつ、小さな木製の机をどこかから用意して、畳の上に置く。それから秋をこっちへ来るようにと言った。秋は下を向きながら、正座をして女の対面に座る。
「キリエさんのおうちにはとまらない…」と秋は言った。
「へえー。じゃあ、どこに?」
「おうちに…かえる…」
「帰る家があるのに、なんで家出なんか? というか、それじゃ家出っていうわけでもなさそうね」
秋は黙っていた。
「名前は」と女は訊いた。
「あき」と秋は言う。
「秋…」女は覚えるように何度かそれを単語の様に口にした。
「あなたみたいに家出…みたいなことをできる人間っていうのは結構成功するタイプの人間なのよ」と女は言った。煙草を取り出し、マッチを擦り、火を点けてふかす。「ほかの人間にはない根性や勇気、行動力がある。私が保証する」
「けれどね、あなた。成功する人間に失敗は付き物。今回ばかりはあなたは失敗したの。こんな場所に来るべきではない。私みたいな人間が説教臭く言う義理もないけれど、あなたにはどこか人とは違った様相があるの。そういうやつは騙されやすい。なにも私みたいな人間がこの世に二人として存在なんてしなくていいの。不幸者は私だけで十分」
秋は女の顔が段々と優しげな母親の顔になっていくのを見ていた。
「家には誰かいるの?」
「おにいちゃん」と秋は弱弱しく言った。
「兄さん…か。それじゃあやっぱり、さぞかし心配してるんだろうね」と女は言う。「こんな可愛げな妹がいきなりいなくなっているんだから。私ならすぐに警察に駆け込む」
女の口から煙草の煙がもうもうと出ていく。隙間風があるのか、秋の方にそれは来ない。
「かえりたい…」と秋は言った。正面にいる女に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で。女は俯いた秋の顔を覗き込んで、私が帰らせてあげようか、と言った。秋は本心から頷いた。
女はそれから支度を始めた。彼女だけが別室に移動して、秋が気付いたときには厚手のコートとマフラーを羽織っている状態になり、堂々と立ち尽くしていた。唖然としながらその場で立っていると、女は秋の手を握り、手引きする。ぐっと握られた手が、ほんのりと温かかったことに、秋は感慨を覚えた。
「キリエにおわかれしたい」と秋は言った。
女の歩が止まる。「私が代わりに言っておくのでは、駄目?」
秋は少しの間、黙っていた。考えているようにも見える。「ぜったいに、いっておいてね…」
女はにこやかに笑って、「いい子」と言った。強く秋の頭を撫でる。
二人は押し寄せる波のような客を掻き分けて、店の裏口から外へ出た。大通りから外れた裏道を歩いていく。人の喧騒が段々と離れていって、やがては虫の声しか聞こえない場所に出ていた。それからも歩く、そして、また歩く。歩を止めることは、無い。
秋が段々と疲労してきたことに気づいた女は、キリエと同じように、秋を途中で負んぶした。キリエの様に頑丈な体つきはしていない。逆に、少しでも秋が力めば壊れてしまいそうな体躯をしている。けれど疲労困憊の状況下で、彼女が人に気づかいをできる余力が残っている筈もなく、温かみを感じながらその背中で眠りに堕ちていった。女は夜風に長髪を誘われながら、月を眺めていた。耳元では秋の寝息が聞こえる。月が綺麗だから見せてやりたいと思う反面、ぐっすりと寝ている秋の事を起こしてはならないと思う。胸は半々の気持ちで一杯だった。
一台の車が通る。
やがて熟睡中の秋の見慣れた街に出た。女は秋の名を何度か呼ぶ。「おにぃちゃんはどこにいるの?」と訊いた。秋は眠気眼で一つのマンションを指差す。それから再び眠りに入った。
女は秋が指したマンションを目指した。歩を進めると、着実にそれは大きくなっていく。やがて、駐車場の目の前にまで来ていた。
再び秋を呼び起こす。本人が起きたのを確認して背中から降ろした。少しばかりのろけながら、秋が地面に立つ。
「あなたの家よ。ここからは一人で行くこと」と女は力強く言って、秋の背中を押す。
秋は何度も自分の目を擦っていた。毎度の癖だ。女はそれが泣いているものだと勘違いして、部屋の番号を本人から聞き出し、またもや手を握って先導した。互いが、互いの真相に気づいていない状況にあった。成す行動は偶然の一致だ。
番号と合致する扉の前で止まる。
「ここから、私は登場できない」と女は膝を付いて、秋の肩をがっちりと掴み小声で言った。「でもね、一つだけ約束があるんだ。ここまで連れてきた代わりと言っちゃなんだけど、今日の出来事については誰にも口外をしないこと。あんたが見てきたことは、夢物語だって思うんだ。素敵な素敵な夢だった。でも、忘れてはいけない。それは私が許さない。忘れず、誰にも言わず。人形みたく可愛いあなたの心の中で、静かにしまっとくんだ」
そう言い終えると、秋のことをぎゅっと抱きしめる。女の手が、何度か秋の背をぽんぽんと叩く。「あんたは昔の私みたいだ」と涙声で秋の耳元で囁く。
抱擁の途中で部屋の中から声が聞こえた。彰浩の声だった。ついで鍵を開ける音がする。
女は顔も見せず、さよならとも一言も言わず、その場を走り去る。階段の陰にその後ろ姿が消えると同時に彰浩がドアを開けた。それから秋の事を見て、抱擁する。心配していたんだぞ、と涙声で告げる。秋は二度目。感じは、女の抱擁の方が力強く思えた。
ひっそりと階段の陰で女は告げる「さよならね」と。