004話 「するか否か」
夜はしばしば眠れないことがあった。秋は私の事を人形か何かと思って、腕を背に回して抱き付きながらいつも寝ている。私のことを抱き枕か何かと思っているらしい。そして毎回「きこえるよぉ…」と、心音の事を口にしながら先に眠りに就くのだ。決まって先に。私としては迷惑この上ない。けれどどこか心許している部分があるのか、秋がタコ女(私がそう勝手に名づけた)化してから七日が立とうとしているのに、未だ本人には症状のことを一言として言っていない。
静かな寝室に、秋の寝息だけが音を立てて木霊している。ある一定のリズムで、その小さな胸は上下している。風呂にだけは毎日きちんと入らせていた。衛生管理だけはしっかりとするようにと医者からも念押しされている。食事も安っぽい食材でどうにか間に合わせてはいるが、いつあの秋に元通りして文句を言われるのか、心配でならない。
そして、いつも、毎晩、夜に飲み込まれると、秋の顔を見ながら、いつこいつは前の大馬鹿な秋に戻るのだろうかという気持ちになる。深い眠りに入っているだろう秋の頬を擦りながら、毎晩毎晩涙を流す。泣いてはいけないと分かっている筈なのに、やはり体は自分に正直だった。
感傷的な気分に浸っていると、腹部に違和感を感じた。
そして、若干なアンモニア臭。
怪訝な顔をしている秋の下半身を、毛布を開いて恐る恐る覗く。悪い予感は的中していた。
取り敢えず秋は風呂へ入れて、布団はその後、浴槽で洗うことにした。濡れたパジャマは古びた洗濯機に入れ、稼働させておく。
秋が風呂に入っているときは、私は風呂のある部屋の一歩手前の洗面台のある化粧室に居なければならなかった。でないと、執拗に秋からくる「そこにいるー」という言葉に反応できなくなるからだ。秋は退行を起こして、風呂こそ一人で入れるものの、近くに人が居なければ不安で泣き出してしまうようにもなっていた。それを知らずに一人で入らせた初日は、大変なことになった。裸の秋が泡を付けたままリビングのソファーで横になっていた私に泣きじゃくりながら抱き付いてきたのだ。今思えば馬鹿なことをした。
洗濯機の回る機械音を聞きながら、ひたすら時間をつぶす。
「おにいちゃーん、いるー?」
「いるよー」
シャワーの音をさせながら、秋はそれを大声で発していた。だからいつもよく聞こえている。
数十分後に、秋は出てきた。実の兄に裸体を晒すのが然程難儀には見えなさそうで、その分いくらかはバスタオルで体を拭いてやりやすかった。抵抗しないのが、唯一の救いだ。
足から頭に掛けて、一通り拭いてやると、今度は自分でバスタオルを持って体に巻き付け、ちょこんとそこで待っている。どうした、と言ってやりたかったが、どうやらいつもは用意されている筈の下着とパジャマがなく、困惑しているようだった。普段なら何事か喋って事を伝えるのだが、この時ばかりはやはり眠気に押されているらしかった。瞼がゆっくりと閉じつつある。
「持ってくるから待ってな」と私は言い残して寝室へ向かった。化粧室はヒーターが置いてある。だから体が冷えないようにと、そこで待っているよう言った。
替えのパジャマをタンスから見つけて、数がない下着も適当に持っていった。女子高生が付ける衣類は全く分からない。だから、実家の秋の部屋から少しだけ拝借したのだ。ほんの少しではあるが。
ヒーターの前で座って暖を取っていた秋にそれを渡す。秋は何も言わず受け取った。けれども、やはり、着方がぎこちない。覚えてたての子供の様に、何度か転ぶようなよろけざまを見ていると、危なっかしく感じる。仕方なく今日も私は手を貸すことにした。パンティーはよろけながらも一人で履けるのだが、どうにもTシャツの両腕を通すのが難しいらしく、一人では苦戦している状態で、ぎこちないさまであるにも関わらず私が誘導してやっとのことで着終えることが出来るのだ。パジャマもズボンは大丈夫だが、上着の方がさっきと同じ状態に陥って結局は手を貸す状態になるのだ。
それらを一通り終えて、緊急で作った仮ベッドへと抱いて向かう。というのも、ソファーに枕と掛布団を何枚か重ねたものを置いただけの状態のものではあるが。
眠るまでは傍にいる。夜も更けてくる。薄暗いリビングの中で、時計の針は三時頃を差している。つらく、そして眠い。幸い、事の説明とそれに応じた一ヶ月間の臨時の休みは、仕事場に連絡して承諾を得た。加えて、正規での雇用の方も。致し方なかった。その状況で言うのもためらわれたが、一応考えておいてくださいと。店主の新田さんも状況が状況だから考えておくとだけ言ってくれた。
ソファーの下で座っているだけの時間。遠くの方で新聞配達のバイク音が聞こえる。部屋の中に轟音が響く。戦車の真下にいるような、そんなうねりの轟音が。耳の内に余韻を残して去り行くと、やがて知らぬ間に目を閉じてしまっていた。体はもはや、疲弊しきっていたのだ。
翌日と思われる朝方。カーテンを引く音に、ベランダの引き戸をかたかたとゆっくり引いていく音。うっすらと瞼を開けると、秋の後ろ姿が見えた。そして、陽は昇っている。
はっとなって時計を見た。八時を少し回ったところ。長針からずれて短針は一人、その場に身を置いている。
秋にかけたとばかり思っていた掛布団は、いつの間にか私に掛かっている。新聞も、ガラス板の机の上に置いてあった。私が下の階から取りに行っていないのだから、秋がしたこととなる。殆ど、事実しか考えられないことなのに、それがまったくの嘘であるように感じた。
身を起こそうとする私に気づいてか、秋は上半身をこちらに向けて、眼を擦りながら、「めいわくかけちゃったから…」と申し訳なさそうに言った。
今にも泣きべそをかいてしまいそうな秋を見て、私が本来しなければならないことをせずに寝てしまったことのどうにもならない後悔の念を抱いてしまい、それを彼女に悟られないようにするため、私は懸命だった。そしてやはり秋は、そういった事には全くとして気づいていない様子だった。