003話 「タコ女」
居間にいて、今までとは違った妹を見ているのが辛いのか、辛くないのか分からなかった。
今までの妹は、所謂社会で言うところのヤンキーや親不孝者、軽犯罪者の部類に入る人間だった。私がまだ両親と同居していたころは、母にも父にも取り敢えず「キモイ。黙れ。死ね」の連呼状態。中学のころには大学生や高校生の彼氏を持ち、夜遊びは当然のように行われ、無断での外泊、飲酒もしていた。薬物に関しては、あまり分かってはいない。
「おにぃちゃん。わたしこれきらい」と言って秋は野菜炒めのピーマンだけを取り除く。
「ちゃんと食べなきゃ。練習だ」
避けられたピーマンを箸で掴み、秋の口へ運んでいく。秋は何度か咀嚼したものの、結局は吐いてしまった。
「ごめんなさい…」と秋は言う。床に転がったそれを見て、悲しそうな目で。高校一年である筈の彼女が、妹が、未だにスプーンとフォークを使って食事している風景との兼ね合いで見ていると、なんともいたたまれない気分になった。
「大丈夫さ」と私は言った。それでも彼女は悲しい目でこちらを見ていた。口は堅く結ばれている。この状況で発していい言葉が、幼さゆえに分からないのだろう。
朝食はそうやって済ませた。
昼頃になると秋はソファーで眠っていた。台所で慣れない洗い物を済ますと、エプロンを脱いで丸めてテーブルの上にぽいっと投げ捨てておく。洗剤の匂いが手に付く。別の匂いが手に染み付くのは、あまりよいこととは思えなかった。
それから自室に籠って母に電話を掛けた。
「もしもし、母さん? 俺だけど」と話す。
「彰浩? …、そっちは大丈夫?」
「なあに、角が立っていた奴が丸くなっただけさ…」
履いていたジーンズの太もも部分が濡れる。
「あの娘は馬鹿よ…。あんな目に、合う前に、けれど私が…」
母さんが嗚咽しながら話す。
「医者からは定期的に寄越すようにって。無理なら電話だけでもくださいって、そう言われた」
母はもう、喋らなくなっていた。実の息子の前で泣いているようなところを悟られたくないのか、健気に黙秘を続けていた。
「そっちにも定期的に連絡するから。それと、秋と喋りたいときはいつでも言って。俺は、別に、何とも思わないから」と言っても、母は喋らなかった。「じゃあ、切るね。バイバイ」
電話を切った後、携帯はベッドに投げた。しばらく俯いていた。
秋は医師から「幼児退行」を起こしているとの診断を受けた。彼女自身が事件当日の辛い経験と記憶の内から日常生活においてトラウマを呼び戻さないため、自己防衛機能の一種に現実逃避があり、結果それを幼児になって回避するようになったのではないか、と難しい文言を並べて言われた。要は、トラウマを思い起こさないため、幼児期に戻って現実逃避をしているのではないかという話らしい。体の所々に見られる裂傷、痣等は治すこと、及び自然治癒はするが、その「幼児退行」を完全に治すには、今の医学では難しいかも知れない、ということを言われた。大雑把な原因は、当日の記憶しかり、薬物の乱用、及び暴行の精神的ショック。どれもが、彼女自身で引き起こした災難ばかり。絶望しかなかった。妹はもう、普通には生きられないのかと。成長しておよそ常人ではない状態(彼女が望んだことだが)で青春を過ごし、それの代償としてまたもや幼児に戻され生活していかなければならないのだ。
頭を抱えた状態で、暗い寝室の中、ベッドの端で座りながらずっと思いを馳せていた。私はこれから、一体何をすればいいのか、もはや分からない。
開けっ放しの寝室のドアから、秋がソファーのクッションを片手にやってきた。眠そうに眼を擦りながら。朝方から着替えていないため、動物柄のパジャマのままでいる。
「おにいちゃん…。だれとでんわぁ…?」と大きな口を開けて欠伸をしながら彼女は言う。心底可愛く、そしていとおしく思った私の感情は、やはりどこか昔の秋を思い出せずにいるのだろうか。
「仕事先の人さ」と私は嘘を吐く。秋は母親の事をどう思っているのか、分かってはいない。けれどそれは知ってはいけない未知の部分であることと私は恐れていた。だから、母さんとの電話の事は、ただただひた隠し、嘘をついて逃れていた。
スマートフォンの画面を指でなぞっていく。なにもしないのに、なぞっていく。そして、黙り続けていた。私も、秋も。
長い沈黙に耐えられなくなった私は、頭の内に出てきた言葉を適当に発して、その場を打開することを考えた。
「さあ、晩御飯はカレーでも作ろうか!」と私は大声で自分を活気づかせる意味で言った。「今から買出しに行くぞー!」
無防備な秋を抱きかかえ、玄関へ向かう。秋は満面の笑みを浮かべていた。そして、少なくとも、私の頬の涙の痕には、彼女は気づいていないようだった。
寝室の床に投げ出されたクッションだけが、私が泣いていることに勘付いているような、そんな気がした。