002話 「タコ女“化”」
社会人としての新たな生活を満喫していた。とは言ったものの、職すらついていな言わばフリーター状態だ。自分でも悩んでいる。アルバイト先は近くの古本屋で決まったものの、それで生活の全てを賄えと言われれば、けれどまだ無理な話ではない。小さな店内で、はたきを持って店内の古本の整理やレジ仕事の数々。案外そこらと比べても時給は安くはない。けれどもアルバイトという肩書きが気に入らずにいる。いらないプライドなど捨てろと言われそうだが、如何せんそうにもいかない。
一週間の内に、週五日でその仕事が疎らにはいっている。九時から十七時までの勤務。大体の仕事は初日で覚えた。ただ、古びたレジだけが鬼門だが。
そういったことをしつつ、休みの日はネットで求人票を漁っていた。しかし、どの案件も自分に合ったものはない。高校大学中退と、その後に地元印刷会社に勤務したがあえなくその会社が倒産。失業給付で今新たな人生を踏み出そうとしている。けれど、学生時代に全くとして勉強していなかった自分が、今ここで足枷となった。今更資格取得に掛ける時間も取りたくなければ、専門分野の知識を身に着けようとする気力もない。いっそのことその古本屋に話を付けて正規に雇用してもらおうかと考えている所存だ。それが、今のところの安っぽい考えだった。
今日も今日とて古本屋のあの独特の匂いと相対してきて帰ってきた。周りが閑静な住宅街一面の道をスクーターで帰っていると、妙にむなしい気分になった。そんな時には、と寄って行ったコンビニで買ったものが缶ビールだった。明日から土曜日曜と続けて休みなため、今日は部屋に戻ってアルコールでどっぷりと体に酔いを与えたかった。自分を忘れるぐらいに。そして、普通過ぎる日常を忘れるぐらいに。
自宅のマンションに帰ってきて、コンビニ袋を片手に急いで自室へと向かって行った。
しかし、二階へ行くための階段を駆け上がろうとする寸前に、何かの異変に私は気づきつつあった。それは、妙な感覚で、薄底の靴が水を通して靴下を濡らしているものだった。生暖かい。立ち止って靴底を見るより先に床を見て、それが血であることを知った。
パニックになった。一瞬その事実を事実と捉えられなくなり、目下に広がる血痕の数々が何かの染みに見えた。けれどもそれは、まごうことない人間の血。腰を下ろして指に付けてみても、やはりそれは赤かった。鮮血が指先から滴り落ちる。まだ乾いてはいない。だから、直近の出来事なのだろう。
部屋は四階にあった。そしてそれはまだ続いている。けれど走りながら向かう三階の踊り場で、女が倒れていた。うつ伏せで、胸の辺りを僅かに上下させしながら。
言葉も出ず、一瞬の躊躇いから呆然と立ち尽くした後、すぐさま彼女に近寄った。
血にまみれた彼女を抱きかかえた時、顔が見えて、すぐさまそれが自分の妹であることがはっきりと分かった。
秋、と何度も大声で叫んでみたが妹は起きない。目は瞑られたまま。腕や足には幾つもの痣がある。おまけに切り傷まで。そこから血が出ているようだった。
あまりにも自分の無力さを嘆く前に、大声で名前を呼ぶ声につられて住居者が何人か出てきた。中には顔を知らない人間もいる。事の大きさが広がるにつれ、その輪は段々と大きくなっていった。一人が二人を呼び、二人が三人を呼ぶ。ヒステリックに叫ぶ連中もいれば、けらけらと笑う輩もいる。心外だった。
やがて誰かが読んだのであろう救急車のサイレン音が辺りに響き、マンション前の道で停車した。マスクとヘルメットを着用した救急隊員が駆け足でここまで登ってくる。そして、無気力な自分から秋を取り上げて担架へ乗せ、下に降りていった。翌檜町が、赤で染まっている。
腰を抜かして呆然と座り込んでいた。誰かが「家族の方ですか!?」と訊いてくる。何も答えられなかった。夜空を目にして、それまでとは違った夜空だなと感じて、そのまま意識を失った。
無力な自分が、無力さえも失った瞬間だった。