001話 「電話口で」
静かさに身を任せてずっと眠っていた。新しく買った時計が三時の鐘を鳴らし、それで私は起きた。
視界に入る何もかもが新しかった。そして、目覚めも新鮮だった。絨毯に身を投げるようにしていても誰かが怒るわけでもなし。家族の声もここでは聞こえない。厄介なあの妹の声も。私は、心底幸福に身を委ねていた。そして、これから訪れるだろう自分のハッピーな生活の事を考え、ただただ呆然としていた。
スマートフォンのバイブが机の上で鳴った。ガラス板が振動する音に驚く。すぐさま上半身を起こしてそれを取った。
「もしもし、お母さんだけど」と電話主は言った。母だった。「一人暮らしをするマンションは気に入った?」
「そりゃもう。当然!」と声を大にして言った。そんな声が出たことを、自分自身が一番に驚いた。
「それは良かった」と電話口で母は笑う。「それでね、ちょっとシリアスな話になっちゃうんだけど…。大丈夫?」
私は電話口でああ、と言って頷く。
「仕送りの額をちょっと減らしてほしいの。こっちも結構切迫してて」と母さんは言った。「二万ぐらい減らしてもらえればと思うの」
考える間もなく、大丈夫だと伝えた。二万ぐらいきちんとした職を探しながらアルバイトをしていけば、生活面ぐらいは補えるだろう。それに、自分一人の為に家族の生活を圧迫していっては、それこそ親不孝者だ。そんなものは本望ではない。
「本当? なら、ありがとう。それとね、彰浩―」
電話口の母さんの声が切れる。代わりに、廊下を憮然として歩くような、そんな足音が後ろでする。そして、多分家の玄関ドアを開けたのだろう音がした。「家出する」そんな声と共に。
「ごめんね」と母は謝った。その言葉の意味が、もはや自分には分からない。
「なにも謝ることなんてないさ。あいつはあいつなりに人生を送っているだけなんだから」
「あなたは、優しすぎるのよ…」と母は言った。それから少し間を空けてまた話す。
「強制とは言わないけど、あの子をそっちで生活させてほしいの」
「秋と同居しろって?」
「うん…」
「別段、構いはしないけれど、その分、生活は苦しくなる。なにせあいつは何もしないから…」
深い沈黙が訪れる。
「そう、よね」と母は言った。
「ああ」と私は言った。
電話は、やがて私たち二人が喋らなくなり、誰かが切った。