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序章~第1章 接触

 月光の戦士                                             



   序章



   一


 手のひらに光りがあった。

 輝きは強さを増し、やがて世界が暗転し感覚が消えた……


 声が響いている。鈍い音がした。煙と焦げた匂いが周囲に立ち込めている。

 光りの強さが薄れるに従い、視野が開けて行く……

 女性が床に折り重なっていた。下の女性を庇って覆いかぶさっている女の子。

 透き通る様な白い肌に緑のショートカットヘアが美しく、目を閉じている。

 「ルイ……いや、いやよルイ!」ヨシコが叫んだ。

 ルイの下で波が目を開いた。

 「どうして……ルイちゃん。こんなこと……」

 「なんでこうなるんだよ! いったい何の為の力だ! こんな時に使う為に……こんな時にこそ、俺は……ううっ」

 拳を握りしたまま、身体が震えていた。三日月の表情は怒りに変わっていた。

 「お前達、許さない……」

 手のひらから凄まじい光の帯が天井に這い上がり、コンクリートを焦がし始めた……


   二


 船長のフランク・ミッチェルは驚愕の表情で眼下に広がる光景に見入っていた。

 クリスマス前の二十一日、午前七時五十一分、宇宙船はケネディ宇宙センターから打ち上げられた。

 ミッチェルの他、指令船パイロットのジェームス・スチュアート、月着陸船パイロットのウイリアム・アーウィンは地球軌道を二周した後、月に向け、飛び出した。

 このミッションに月面着陸はなかった。だが、人類で初めて月上空に入り、まだ誰も目にした事のない、月の裏側を調査する。

 アポロ八号はクリスマス・イブの早朝に月軌道に入り、月上空を飛行していた。

 太陽の光が途切れた……一瞬のうちに暗黒の世界へと変わった。

 「あれはいったい……」

 ミッチェルは、震える声を落とした。クレーター上空がばんやりと光っている。ジェームスも隣で声を出すことが出来なかった。ウイリアムは窓越しにカメラを構え、シャッターを切った。クレーター上空に差し掛かり、宇宙船の機影が光に飲み込まれた。通信が途絶えたまま時が過ぎ、再び姿を表した船には人類至上最も貴重であった記録は消え去っていた。ウイリアムのカメラ内のセルロースフィルム意外は……

 ヒューストン管制センターのリチャード・アレンは、月の表側に現れた船から「サンタクロースに止められた」というフランク船長の謎の第一声を受け、それは何かと問いかけたが、これはジョークとして世界中に中継された。


 アポロ計画は十七号で終了している。当初の計画は二十号までだった。予算削減というのが米国の正式見解である。だが真相は不明である。極秘に十八号が月面に着陸したという話もある。米国と旧ソ連の冷戦時代に軍事計画として、米国は月面に防衛システムを設置し、ソ連の動きを掌握するという計画があったと言われている。十八号は月面に着陸し機器を設置後、帰還しなかった。しなかったというよりはさせてもらえなかったのだ。

月には何かが居た……

 旧ソ連もルナ計画で月面の有人着陸には成功していたが、あるミッションの宇宙船は帰還しなかった。米国は旧ソ連と共同で調査に乗り出した。アポロ十八号はその調査が目的であった。しかし、帰還できなかった。何かに妨害をされた。十八号に乗ったとされるパイロットは三人だったが、それぞれ別々の航空機事故で死亡したと正式には報告されている。偶然にも三人全員が航空機事故で亡くなっている。

 



   第一章 接触



     一

    

 鹿児島県種子島宇宙センターは世界一美しいと言われている。

 岬の周囲をサンゴ礁で囲まれたロケット発射施設。新型のロケットが打ち上げられた。だが、打ち上げたのは宇宙航空研究開発機構(JAXA)ではなく大阪の老舗食品会社だった。NASAより技術者の引き抜きに成功した日本企業の宇宙開発事業は、世界中から脚光を浴びた。

 二○○八年十月二十三日。民間会社のロケットは、サンゴ礁に白煙を上げ、清涼感溢れる秋空に白い巨体を押し上げて見せた。それからわずか二年後には大気圏旅行ツアーも成功させていた。

 フランスの作家、『ジューヌ・ヴェルヌ』が十九世紀後半に発表した『月世界旅行』は砲弾に入った人間が月へ行く物語だが、それから一世紀をかけて人類は月に足跡を残した。それから更に半世紀かけ「日本」が夢の実現に近づいていた。政府が打出した起死回生の政策は宇宙開発に乗り出し月面直陸を目指すというものであった。世界中が驚いた。やるからには日本は絶対に成功するだろうと全国民の思いは一致していた。だがしかし、その裏で成功させなくてはならない別の理由もあった。


 この年の夏、JAXAが三年前に打ち上げた月探査機『かぐや』の子衛星『おきな』が月の裏側で突然消息を絶った。

 かぐや計画はアポロ以降の月探査機『クレメンタイン』や『ルナ・プロスペクター』を遥かに凌ぐ規模のミッションである。リモート操作による月探査としては世界的にも高水準であった。『かぐや』には二機の子衛星が寄り添っている。『おきな』と『おうな』である。打ち上げ時に約二千九百キログラムの探査機は高度百キロメートルの円軌道に投入された後、『おきな』は遠月点高度二千四百キロメートルの楕円軌道に、『おうな』は遠月点高度八百キロメートルの楕円軌道に投入された。リレー衛星『おきな』は地上局と主衛星『かぐや』の通信の中継を行い、『おうな』は月の重力場を測定する役割を担った。

 主衛星『かぐや』(外形二・一メートル×二・一メートル×四・二メートル)

 子衛星『おきな』『おうな』(外形一メートル×一メートル×〇・六五メートル)

 リレー衛星は搭載された中継器を使い主観測機が月の裏側にあっても地球へ観測データーを送ることが出来る。『かぐや』は月を極軌道で周回し、地形カメラ(TC)が月面をステレオカメラによって立体撮像した。レーザ高度計(LALT) は月面にレーザ光を発射し、その反射波の到達する時間を測定することで地形の起伏や高度を精密に測定した。また、月レーダサウンダー(LRS)は、軌道衛星から月面に電波を発射して、その反射により月の表層構造を地下数キロメートルまで調べた。一九九七年にアメリカの衛星『クレメンタイン』をはるかに凌ぐ高精度なデーターを取得して月面全体の高精度地形図を提供した。さらに子衛星から得られた重力場データと合わせて、月の地殻の厚さなど月内部構造についての情報も取得した。LALTによる月全面の計測は『かぐや』が初めてであった。

 『おきな』は月の裏側重力場を測定する為、周回を重ねていたが突如、通信機能が途絶えたまま忽然と消えた。


     二


 広いベランダに秋晴れの空を見上げ、二人の男が立っていた。

 小太りで浅黒い顔の男は宇宙航空研究開発機構所長の国富くにとみである。背の高い男は防衛大臣の斎藤利正さいとうとしまさであった。国富に顔を落とすと、斎藤に向き直った。

 「大臣、NASAから今だ連絡はありません。いくら『おきな』が小さいとはいえ、消えるなどということは正直、考えにくいのですが……」重たい声だった。

 「月に墜落したということは考えられないのかね」

 「はい、それも考えましたが、墜落したのであれば必ずセンサーが捕らえますが、その様な記録はありません」 

 国富は額に当てたハンカチを首の後ろに回した。秋風が吹いていたが汗を掻いていた。

 「そうか……しかし奇怪だ。いったいどこに居るんだ。タイムマシンでもあるまいし突然、消えるなどと、まったくおかしな話だ……」

 「…………」

 「この件は先程、総理には報告をした。総理は大変驚かれていたよ。早急にアメリカの各関係機関に協力を要請し、一刻も早く探し出すことに尽力して欲しいとのことだ」

 

総理官邸に黒塗りの高級車が続けて入って来る。

 今朝、宇宙開発機構から連絡を受け、総理大臣の林田幹夫はやしだみきおは緊急閣僚会議を召集した。

 席に着いた閣僚を見渡すと林田は細く透き通った声を発した。

 「緊急にお集まり頂き申し訳ありません。早速ですが、重大な報告を致します。我が国が三年前に打ち上げた月探査衛星『かぐや』の子衛星である『おきな』が忽然と姿を消しました……関係各署に早急に事実関係の確認を急ぎましたが、残念ながら間違いないことが確認されました。墜落の事実も確認されておらず、消え去ったものであります」

 官房長官の顔色が変わった。部屋は一気に緊張に満ちた空間へと変化した。林田は各大臣を見渡しその中に斎藤を見つけた。こっちをじっと見据えているが林田を見てはいなかった。視線は遠く空のかなたに焦点を結んでいた。

 斎藤は元海上自衛隊の幹部であった。しかし直属の部下の情報漏えいにより職を辞した。国防に人生をかける希望を失った先には自らの手で命を絶つという選択しか残されてはいなかった……だがそんな斎藤を救ったのが林田であった。幾度となく声を掛け、国防を論じた。政治家という視点で国防を考える希望が斎藤の人生を変えた。昨年の参院選で当選。大阪比例代表区で政治家の道は開けた。 


 「そこで、我々は『おきな』探査に向かうことにする」

 林田の言葉に部屋にどよめきが起こった。各官僚共にいったい何を言っているのかといった表情をしていた。

 「総理、いったいどうのようにして探すのですか!」

 厚生労働大臣が太い声を荒げた。

 斎藤が手を上げ、立ち上がった。背が高い斎藤が立つと見下ろす感がある。

 「我が国にはただいま、月へ探索に行く方法は存在しないと思われました。宇宙開発機構には次の計画はありますが、今直ぐに飛ばせるロケットがないのです。ですが、存在したのです」

 閣僚会議室はもの音ひとつせず、斎藤の話に聞き入っている。斎藤が続けた。

 「皆さんもご存知かも知れませんが、昨年、大阪の民間企業が月旅行を成功させました。この企業はアメリカのスペース・シャトルの技術をもとに宇宙を往復可能なシャトルを保有しております。このシャトルを借り受けます。すでにこの会社のトップには国家の一大事ということを伝え快諾を頂いてあります」

 「それは妙案ですな」

 金融大臣が勝ち誇ったかの様にソファに踏ん反り帰った。

 林田が話を加えた。

 「一刻も早く探すためには一刻もはやくロケットを打ち上げる準備に入る必要があります。そのためには各大臣にそれぞれの立場でこの探査ミッションに協力をお願いしたいのです。例えば燃料が必要なら、通産省が燃料を早急に確保する。国土交通省は発射日に向けての航空管制等の協力。防衛庁は米国への協力要請、警察丁は警備面と、やることは山ほどあります。どうか皆さん、協力をお願いします」林田は深々と頭を下げた。

 

 各担当大臣達が引き上げた官邸には林田の秘書と斎藤が残っていた。三人は林田の執務室に場所を移した。

 秘書がコーヒーを応接テーブルに置いた。

 「さて、ここからが問題だな。早急にとは行ったが私自信、何から手をつけて良いやら検討がつかない……」

 林田はコーヒーを手にした。

 「先生。私が全面に立ちます。航空自衛隊での経験が少しは役に立つかも知れません」 

 真剣な表情で斎藤は答えた。

 「そうか……頼む。しかし、このことは絶対に秘密だ。マスコミにもだが、特にCIAや他国の諜報機関に知られては厄介なことになる。アメリカなどはお得意の協力体制を口実に、主導権をいつの間にか手に入れる策を念頭に近寄って来るだろう。そうなる前に…… そうなる前に、何としても解決する必要がある」

 世界中に知られる前に国内で穏便に処理し、成功した後にマスコミを通じ発表する。それにより、日本の技術力の宣伝効果は絶大なものになる。ましてや来年の選挙を見据えた上では成功させることが不可欠であった。

  

 調布航空宇宙センターで理事長の池部忠明いけべただあきは電話に出た。

 「お久しぶりです。ご無沙汰をしております」

 斎藤からであった。池部と斎藤は大学が同じだった。同じ研究室で一年先輩が斎藤であった。工学部宇宙工学科が専攻だった。。ロケットエンジンの図面作成が卒論には欠かせないものであったが、元来製図が苦手だった池部は斎藤が一年前に経験した図面作成の手解きを六畳の狭いアパートで幾度となく受けたことがある。当時はコンピューターで作図するシステム(CAD)は一部の大学の研究室にある程度で、学生は製図の基礎を学ぶということもあり、手書きで製図を行った。

 斎藤の作図は見事だった。実線を描く二Bの鉛筆はその色の濃さ、太さの均一性が見事であり、それは中心線や破線、寸法線を描く二Hの細線に対しても同様であった。斎藤の緻密さと性格さは五十歳半ばの今でも同様だった。

 大学を卒業した斎藤は、旧財閥系の大手重工業会社に入社し、航空機、潜水艦等の設計に携わった。一年後、池部も同じ企業の門をくぐった。いずれ斎藤と同じ部署で仕事をすることを切望していた池部は、斉藤の突然の退職に言葉を失った。

 阪神・淡路大震災。

 一九九五年一月十七日火曜日が斎藤の運命を変えた。

 斎藤は神戸市長田区出身であった。商店街でクリーニング屋を営んでいた斎藤の実家は、跡形もなく焼失した。両親は無事であった。緊急車両を阻んだ細い路地の構造が、大火災を引き起こした。行政への怒りの矛先は、自らがその中に飛び込むことに向けられた。

  

     三 


 甲高い声が車両に響き、途切れることなく続いている。

 ただでさえ、月曜日の朝は重い顔で埋め尽くされている。満員電車に暑さ。静かであれば幾分か落ち着くであろう、この我慢の空間に、女子高生の声が放置されていた。三日月隼斗みかづきはやとは両方の手首をつり革に引っ掛け、目を閉じて電車の慣性に体を預けていた。ちらっと女子校生を不機嫌そうな表情で見ると、再び目を閉じた。前の席には重そうなバッグを足元に置いた中年男性。左に携帯画面に指を忙しく動かしている若い女性。右には目を閉じて動かない同年齢に見える会社員が座っていた。

 東三国を出た。次の新大阪でかなりの人が降りるだろう。新大阪のアナウンスが聞こえた。扉が開き雪崩のように降りて行く……

 しかし、前の三人は降りなかった。

 盆明けの出勤日。

 昨日のこの時間は、四国でまだ夢の中だった。

 今年の夏は台風が多い。全国的に帰省の足に大きな影響を与えていた。三日月の出身は香川県高松市だ。昨年、転勤で大阪に来た。月一回の帰省。高松も夏は暑いが、ここ毎日の最高気温は大阪の方が圧倒的であった。だが水不足は大阪にはない。琵琶湖がある。高知の早明浦ダムが水源である高松は毎年、水の量を気にする。地元出身の空海がまだ、都で官僚をしていた時、ため池を作った。今でも、国内一の数を誇っている。だがそれは主に水田用であり、飲料水は結局、ダムに頼らざるを得ない状況である。毎年、夏の台風の進路に一喜一憂する。こんなことが空海の時代より千年も続いている。まったくおかしな話だとこの時期になると思っていた。

 地下鉄淀屋橋駅から地上に出て、土佐堀川に沿って歩く。木の連なる影の下を選んで歩く。周囲に蝉の音が途切れることなく鳴っている。通勤の人波に従っている。三日月は商社の社員だ。好きで入った会社だった。工学部機械科はやっと卒業したが、一年間休学をした為、同期生同様に大手メーカーの入社は叶わなかった。実家に戻り、地元の企業に就職する予定であった為、結果的としては同じだった。

 東京から戻り、地元の中堅の食品機械メーカーに就職した。八年働き退職した。他にもっと自分に合う仕事があると思った。職種を変えた。大手商社の支店の現地採用となった。三十三歳での転職だった。


 広いフロアの中央に向かう。毎朝、数人は出社しているが、今日はほとんど居ない。盆明けに夏休みを取った者が多いのか、閑散としていた。席に座り、反射的にマウスを動かし、画面を見た。突然、検索サイトの文字に右手のマウスが止まった。

 ……月探査機おきな 月の裏側で探査中に消息を絶つ……

 

 「おはようございます」

 後輩の堀池が座った。

 「おはようございます」挨拶を返す。

 堀池はペットボトルのコーラを一口飲むと顔を向けた。

 「休み、どこかに行きました?」

 「ああ高松に帰っていたけど。こっちのほうが暑いな」

 「そうですね、まだまだ暑いですね。大阪は特に暑いですから……ああそれ、月の探査機のことですね」

 堀池は三日月のPC画面に顔を近づけた。

 「携帯でさっき見ましたよ。でも消息不明って、おかしいですよね。月に墜落したら普通、すぐ分かるはずですよね。多くの衛星も地球を廻っているわけだし」

 堀池はコーラを飲んだ。

 「月の裏側だから、電波が届かないんじゃないかな。まあ、そのうち何か分かるさ」

 三日月は画面を見たまま答えた。

 一日が始まった。

 午前中にメーカーの担当者が来社。社内で打ち合わせした後、午後からの京都の客先に同行した。五時過ぎに帰社した。客先からの注文書に目を通しメールを確認した。社員通用口から出た時は七時を廻っていた。


 土佐堀川の遊歩道を歩く。水面には周囲のビルの窓の光りや街路灯の光が浮かんでいる。白と橙色の光がゆらゆらと揺れていた。

 ビルの上に月が出ていた。満月だった。

 「あの月の裏側で……」

 三日月は小さく呟いた。

 瞬間、三日月が光った。月の光を浴びた。

 後頭部に強い衝撃を受けた。

 三日月は苦痛の表情を浮かべた。が、すぐに痛みは消えた。

 

 その夜、三日月は寝付けなかった。眠れない。

 衝撃と音が耳に残っていた。月面の発光現象が超常現象系の雑誌に書いてあったのを思い出した。部屋の電気を付けた。二時を廻っていた。三日月は壁の備え付け本棚から本を取り出した。

LTP(Lunar Transient Phenomena)(月面の発光現象)は過去五百年の間に約千五百件もの観測例が報告されている。この現象を引き起こす場所はホット・スポットと呼ばれている。近年では『ペルセウス座流星群』の月面衝突による発光が観測されている。

 まさしくこの現象だと三日月は確信した。

 そして……翌日の夜、事件は起こった……


 江坂駅の階段を、家路へ急ぐ人の波に付いて降りていった。

 交差点の信号は青から赤に変わった。横断歩道の信号待ちの人の前方に、小学生の女の子が歩道から降り、車道の端で隣の子と話をしている。大きな手提げカバンがひざで蹴られるたびに車道前方に飛び出している。

 周囲の大人は気にしていない。信号が変ればすぐにでも飛び出しそうな気配を出していた。

 左後ろから甲高いバイクの排気音が近づいて来た。爆音は周囲の音をかき消した。

 信号が青に変わった。

 女の子たちが走り出した。

 二人組みの少年の乗るバイクがそこにあった。

 三日月は最悪の状況を頭に描き、顔を伏せた。力がみなぎった。拳を自然に丸めていた。

 白い閃光が走った!

 誰かが叫んだ。

 重く擦れた音と共に、バイクは転倒した。そしてそのまま前方の横断歩道の電柱に激突し、その場で止まった。少年たちは投げ出されたが、すぐに立ち上がった。周囲から凍りついた静寂を破り、どよめきが起こった。頭を上げた三日月から周囲の人が一歩引き下がった。三日月はそのまま横断歩道を渡ると、倒れているバイクに寄りかかり、引き起こそうとしている少年たちを通り過ごした。早足で歩き、交差点から立ち去った。

 

 三日月は会議室の机に座り、険しい表情でうつむき、紙面をみていた。

 「三日月さん、どうぞ」

 副支店長の野本が、うながした。

 「三日月さん」

 三日月は顔を上げた。皆が見ていた。咄嗟に声が出た。

 「ああ、すいません。報告します」

 

 「おいどうした。今日はおかしいぞ」

 同僚の坂本が席を立ちかけた三日月に声を掛けてきた。人が去った会議室には二人しかいない。

 「寝ていないのか。そんな顔してるぞ」

 「ああ、ほとんど寝てない」

 三日月が重い声を落とした。

 「まあそれなりに今月のトピックスを説明していたし、あれでいいんじゃない」

 「…………」

 三日月は顔を上げた。

 「坂本、今日仕事終わってから少し付き合えよ」

 「ああ、いいよ。夕方は外出しているけど、本町だし大丈夫だ」

 「じゃあ淀屋橋のいつもの地下の店」

 「ああわかった。じゃあまた夕方電話する」


 「ハイボール、二つ」

 坂本はタバコをくわえた。

 「それで最近どう、仕事面白い?」

 「……昨日の帰りだけど、江坂駅を降りた横断歩道で……」

 「おまたせしました!ハイボール二つ!」

 三日月の弱い声は店の女の子の声に遮られた。

 「まあ乾杯しよう」

 坂本は背筋を伸ばし、グラスを取った。座高が高く口のまわりに生え始めているひげが丁度三日月の目の前にあった。ジョッキを合わせた後、ひと息に飲んだ。

 「昨日の帰り、江坂の駅前の交差点で俺は立っていた。信号が変わって、小学生の女の子が二人駆け出した。丁度、その時、左からバイクが突っ込んできたんだ。俺には一瞬、女の子がひかれた光景がよぎった…………でもそうはならなかった。俺が助けたんだ。俺の体から光が出た。それがバイクにあたってバイクは転倒した!」

 「…………えっ、何、光りが出た。何言っているか意味が分からない」

 坂本はタバコをくわえた。

 「本当の事なんだ」三日月は強い口調で言った。

 「まあ、結果としては女の子たちは無事だったし、まあ良かったんじゃない」

 視線をそらし携帯画面を触っていた。まったく信用していない。


 淀屋橋駅に向かう土佐堀川の遊歩道。

 坂本は振り返った。

 「まあ俺は信じるよ。おまえがうそをつく理由がないしな。じゃあまた明日」

 坂本はそのまま駅の階段から消えた。


 数日後、福島にある仕入先メーカーの応接室に三日月は座っていた。

 ポリエチレンフィルムを製造しているこの大手メーカーから三日月は原反と呼ばれるフィルムの巻かれたロールを仕入れ、それを大手化学繊維メーカーへ販売している。特殊な用途に使用される化学繊維はその製造工程で何層にも積層される。三日月の販売するフィルムはこの積層される繊維を互いに層毎に仕切る役目を果たすものであった。最終需要家からの認定を受けている為、安定した商売を維持していた。

 応接室に入って来た中肉中背で赤ら顔の男はまるい目を向けた。短く刈った髪の毛に白いものが少し混じっている。

 大本辰男は三日月が信頼している一人だった。二つ年下だが、話が合った。商談の際にも政治、経済、歴史、人生の相談まで何でも話が出来る相手だった。

 「十八ミクロンは厳しいと思いますね。シワが入る可能性が高いです。でもまあ工場と打ち合わせをしてやってみます。他でもない三日ちゃんの頼みだからね」

 三日月は先日の経験を話した。

 「三日ちゃんのそのパワー、試してみようよ。今日仕事が終わったらそっちに行くから見せてよ」

 「分かった。場所はどこにします」

 「淀屋橋駅の出口を出て、橋の中央付近で」

 「了解」

 

     四


 風間勇太かざまゆうたは電話の受話器を取った。

 事業部長の長谷部良太はせべりょうただった。部屋へ呼ばれた。

 大阪空港の近隣に独立して存在する航空機事業部は老舗食品会社の『真田丸食品』が創出したロケット事業を行う部署であった。大阪市天王寺区空堀町が本社。大阪冬の陣で真田幸村が大阪城の平野口に築城した出城の史跡がある。大正元年に空堀町で創業した食品会社は創業者の木下喜一郎きのしたきいちろうの名前を取り、『木下喜商店』としていたが、平成に年号が変わった際、勇猛な社号に変更した。資本金四十億円。従業員数四百人。前期の売上高五百億円。

 創業者の喜一郎は既に他界しており、現在は孫にあたる喜人よしとが社長であった。喜人は持ち前の商才を生かし、待ち帰り弁当事業をはじめ、全国に展開した『おむすび亭』を成功させた。その後、多種な業態の新事業を構築していった。世界を驚かせたロケット事業は、喜人の社長としての夢であり、社運をかけた事業だった。


 風間は黒茶色の重厚なドアの前に立つとネクタイを締め直し、背広を整えた。軽く、しかし響く程度の力で二回ノックした。     

 長谷部の低い声がした。金メッキのドアノブを回し、部屋に入ると、社長の喜人が居た。

 風間をじっと細面の顔が微笑んでいた。しかし眼鏡の奥にある眼光は鋭かった。横長の大きな机の前で黒革のソファに姿勢良く座っていた。

 「お疲れさまです」

 風間は落ち着いた声で軽く頭を下げ挨拶をした。

 「こんにちは」

 細高い声だが落ち着いた貫禄である。

 長谷部は喜人の反対側のソファからゆっくりと立ち上がると、

 「風間くんは先日の月探査機の消不明のニュースは知っているね」

 声は重い。

 「はい。ここ毎日テレビニュースで見ています」

 「そうだな。では早速だが、先程、開発機構の国富さんから連絡があった。うちに探索に協力して欲しいという依頼だ」

 「…………」

 社長の喜人は前を向いたまま口を閉じている。 

 風間は今、何を長谷部が言ったのかを整理していた。話が理解出来ていない表情をしている。 

 「今このタイミングで調査に行けるのはうちだけだ」

 木下は立ち上がり、誇らしげに、だが偉ぶらない口調でつづけた。

 「風間くん、アポロ十一号が月に行き人類が足跡を残してからすでに半世紀近くが経っている。日本はやっと完全国産ロケットの『H2』を開発させ、『はやぶさ』の成功で誇ったが、それは最近のことだ。アメリカはアポロ計画、いや人類の宇宙開発史上最悪と呼ばれたアポロ十三号の事故でも奇跡の生還を成し遂げている。逆に言えばその技術力があってこそ、アポロ十一号の成功もあった。アポロ十三号の危機を切り抜けた現場の最高責任者は当時三十四歳だった。宇宙開発技術が若かったということだ。それに引き換え我が日本はどうだろう。アポロ十一号を打ち上げたサターンロケットはH2ロケットの十倍だ」

 長谷部も風間も社長の木下に目を向けたまま、真剣な表情で聞いている。

 「有人宇宙技術は日本はゼロだった。このままでは中国に先を越されるのは時間の問題だった……だが、我々が成し遂げた。正確にはすべて我々日本人だけで行った訳ではない。NASAから来てもらった仲間がいる。だが、日本の国土から日本の会社が飛ばしたのは紛れもない事実だ」


     五


 九月二十三日、午前三時。

国産スペースシャトルの『ムーンダンサー』は機首を空に向けて立っていた。アメリカが運用していたスペースシャトルより一回り小さい。だがそれでも外部燃料タンクを含めて全長四十メートルの巨体だ。

 打ち上げ三時間前。

 シャトルを照らしているライトが、白い巨体を漆黒の空間に浮かび上がらせている。発射台横の巨大なデジタル時計はすでに秒読みに入っており、赤い数字を表示している。発射台に続く巨大な道路を一台の小型バスが向かって行った。発射台付近では数十人のスタッフが動き回っていた。車のドアが開き、風間は降りた。電光時計を見た。午前四時十分。

 後方座席からもうひとりのパイロット、ジェシー・ライドが降りてきた。ジェシーは車から降りると、目前の物体を見上げ大きく息を吸った。周りには運転手を含め三人だけしかいなかった。取り残されたかの様な感覚に陥るほどの静寂が存在していた。

 オレンジの燃料タンクと機体両側にある白いロケットブースターを搭載した『ムーンダンサー』はまるで蝉の様に見える。この蝉は発射すると右に向きを変え、カーブを描き上昇する。ダンサーのように空に舞う。

 風間もジェシーも互いに口を開こうとはしない。エレベーターに乗り、一気に上昇した。ドアが開くとシャトルの機首部分があった。地上六十メートル。シャトルへ続くアクセスアームを渡って行く。下の景色をなるべく見ないように渡り、行き止まりにあるホワイトルームと呼ばれる小さな部屋へ入った。中に五人のスタッフが待機していた。そこには長谷部が居た。

 「いよいよだな風間。幸運を祈る。ジェシー、しっかり頼んだぞ」

 「了解。ボス」

 ジェシーの声には安堵感があった。自信に満ちた声である。

 ホワイトルームで装備装着を済ませると部屋を出た。シャトルのハッチに向かう。装備を付けた彼らに自由はあまりない。スタッフが乗り込むのを手伝ってくれる。座席に座りベルトを固定する。機首に向かって仰向けになる。コクピットは狭い。風間は右に身体をひねった。窓から外が見えた。発射台の岬に広がる青い海がヘルメットのバイザー一面に映った。

 打ち上げ一時間前。

 最終チェックに入る。

 オレンジ色の外部燃料タンク。米国の技術者が設計したこの巨大なタンクから一分間に三十万リットルの液体水素と液体酸素を取り出し、燃焼させ高温のガスをつくる。そしてこのタンクよりシャトル後部にある三基のメインブースターへと燃料が供給される。本体にある固体燃料はシャトルが宇宙空間で使用する為のものだ。両側には二基のロケットブースターがある。アルミ粉末などの固体燃料が入ったロケットは二分間で一千四百トンの物体を持ち上げることが可能であった。

 ハッチが閉じられ、ホワイトルームの付いたアクセスアームはゆっくりシャトルから離れて行く。

 遥か下方から動力が振動と共に唸り始めた。

 シャトル全体が身震いしている。

 ヘルメットのサンバイザーをおろす。黒いバイザーにより、パイロットの表情は外からはもはや確認することは出来ない。二人はすでに地球の空気は吸っていなかった。ヘルメット内に供給される酸素で呼吸をしていた。

 打ち上げ十秒前。

 発射台付近に管制官の声が響く。

 九……八……七……

 三基のシャトル後部の打ち上げ用エンジンが点火された。シャトルが揺れる。エンジンの点検が始まった……問題なし。

 コンピューターが判断した。もう発射を止めることは出来ない。 

 三……二……一……ロケット点火。

 二つの白いロケットブースターが強烈な光と煙を上げ、蒸気が立ち込める中、炎の尾をひいて発射台から巨体をゆっくりと押し上げてゆく。揺れるコクピットの中で二人のヘルメットは大きく揺れている。

 ロケットとエンジンの轟音でヘッドホンを通して聞こえてくる管制官の声を聴き取るのがやっとである。数秒で雲を突き抜ける。

 二分後、ブースターロケットは燃料を使い果たし、白いオレンジのフラッシュが光ると、シャトルから離れ、落ちていった。

 急になめらかな飛行に変わった。燃料タンクに背負われたまま、大気圏の外まで押し上げられる。窓の外は真っ暗だった。天窓に時折、光が映る。座席に押し付けられた二人は動けない。地上の三倍の重力が彼らを押さえつけていた。打ち上げから八分後、エンジンは突然止まった。反動で座席に前のめりになった。重力はなくなった。

 燃料タンクが切り離され、地球へと落ちていった……


     六

 

 風間はコクピットの計器を見つめていた。ジェシーとは二度目のフライトだった。

 月は窓一面近く広がり白く冷たい光を注ぎ込んでいる。シャトルは月の裏側の回りこもうとしていた。光はどんどん弱くなって行く。

 やがて太陽も月も見えなくなった。 

 暗黒の空間。月に生命は存在しない。


 風間は大阪の高校を卒業後、航空専門学校に入り民間航空会社で働いた。仕事は主に運行業務管理だった。パイロットになるのが夢だったが自ら、その進路に向き合うことはしなかった。結局、民間航空会社に就職した。だが、入社後間もなく、そのことを後悔した。航空自衛隊への入隊を考えてみるべきだったと思った。民間ではなく自衛隊だった。国防を語るなどそんなことには興味はなかった。。幼稚と思われるが単純に軍用関係の装備が好きであった。軍用機、車両、船舶。その中で航空機に携わる仕事に携わりたかった。ある情報誌が風間の目を止めた。食品会社の宇宙事業参入による採用広告。風間の運命は変わった。


 目の前に月が広がっている……

 風間は黙として月面を眺めていた。

 彼らはこの全てのオペレーションをフライトと呼んでいた。あくまで一事業であり、観光ツアーの一環であるとの考えであった。

 一度目で彼らは月面に一面広がる荒涼とした灰色の地面をその眼に焼き付けた。

 世界では二度目であった。すでにアメリカのシリコンバレーにある企業が世界初の月旅行を成功させていた。

  

 月に近づくにつれて、シャトルは速度を増して行き、時速九千六百キロに達していた。地球はどんどん月の地平線に向かって沈んで行く。そして完全に没した。表側に出るまで二十五分間、地球との交信は途絶える……月面まで二百キロの上空。

 裏側に入ったが、太陽がまた顔を出し、山々は長い影を落としまだ月面は暗かった。しかし進むにつれ、月はどんどん明るさを増していった。 船内も同時に明るくなった。

 暫く時が流れた。

 二人は神を感じさせるほど美しい月面に見入っていた。


 突然、風間が口を開いた。

 「ジェシー、ジューヌ・ベルヌは知っているかい?」

 「何? ジュール?」

 「ジューヌ・ベルヌ、フランスの作家だ。『アウター・デ・ラ・ルナ』……」

 「ああそれ知っているよ。砲弾を改造したロケットで月に行く話しだ」

 ジェシーは忙しそうに計器と手元のマニュアルを見比べている。


ジューヌ・ベルヌの『月世界へ行く』では砲弾に乗り込んだ三人の男が、月を前にして議論する。

 陽気なフランス人のミッシェルは「月には人類より高度な文明を持つ人がいるのに、なぜ我々に連絡をとろうとしないのだ、なぜ地球の領域にまで月の砲弾を発射しないんだ?」という質問をする。すると「彼らがしなかったと、だれがきみにいったんだい。何千年も前に、地上に人類が出現する以前に」とアメリカ人のバービケンが答える。

 「それでその砲弾は? 砲弾はどこにあるんだい? ぼくはその砲弾を見たいもんだね!」向きになってミッシェルは質問する。

 「海は地表の六分の五を占めているのだよ。だから、もし月の砲弾が発射されたとして、六つのうち五つまでは、それが大西洋か太平洋の底に沈んでいると想像してもよいわけだ。もしまだ地殻が充分に固まっていないうちで、砲弾がどこかの裂け目に埋まりきっているのかもしれない」バービケンは答える。

 「きみはどんなことにも返事が用意できているので、ぼくもきみの知恵には頭が下がるよ。けれどもぼくには、ずっといいと思える仮設が一つあるんだ、それはわれわれよりも古い月世界の人たちは、われわれよりも賢くて、火薬を発明しなかったということだ」

 火薬を発明しなかったとは人類が火薬の発明から次第に爆弾、最後には核爆弾を発明し、その手で自分たちを苦しめて行った人類の歴史をまるで見透かしているようである。飛行機もまだない時代に月世界旅行を空想した名作である。


 風間は月面に見入っていた。

 月の裏側は表側と違い、不気味に見えた。しかし、異様な美しさがある。

 表側に比べると高地が連なり、圧倒的にクレーターが多く見える。クレーターの中は永遠に太陽の光があたらない極寒の世界が存在している。突起した山やクレーターの周囲の部分だけが金色に輝いて見え、丘陵地の付近には黒い「海」が点在しており、恐怖さえ感じる光景である。

 前方に漆黒の世界が広がっていた。音も風も光もない世界。

 『ムーンダンサー』は暗黒の世界へ進んでゆく。月の南極。

 直径二千五百キロメートルにもおよぶ太陽系最大のクレーター、超巨大衝突盆地であるエイトケン盆地が広がっている。

 風間の、目はその前方に釘付けになった。

 クレーターから光の筋が漆黒の世界に伸びている!

 「トムソンクレーター……」

 ジェシーの乾いた声が響いた。

 ジェシーの頭脳にはクレーターの位置、形、大きさが名前と共に刻まれている。


 クレーターの前に到達した。

 クレーターの中は空洞だが中は明るく、途方もなく大きな空間が存在することがわかった。

 シャトルは急に動きを止めることはできない。そのまま通り過ぎた。

 計器盤を見つめているジェシーの表情はこわばっていた。

 「ジェシー、アーユーオーケー、大丈夫?」

 「風間……これを、これをみろ」

 目前に突き出されたジェシーの左手の指先が二人の真ん中にあるコンソールの計器を指している。

 時計だ。

 「ジェシー、時間が……この時計見ろよ!」

 ジェシーは細長い顔にある青く丸い目をこっちに向けている。

 「さっき確か……ということは……そんなばかな。どうして三時間も進んでいるんだ」

 「風間……」

 「何か居る……クレーターの内部に基地がある……アメリカ、それとも旧ソ連が作ったのか……」呟いた。

 「とにかく通信が回復したら知らせよう。ジェシー、回復するのにどのくらいかかる?」

 「十三分だ」

 「わかった」

 暫く二人は黙っていたがやがて風間が口を開いた。

 「ジェシー、アポロが持ち帰った月の石は地球の石よりも二倍も密度があった。月と地球の体積を比較した場合、月は地球の半分強でないと説明は付かないらしい。ということは、月は外側が密度が高く、内部に行くほど密度が低くなっているという事だ。アポロ十二号は不要になった月着陸船を故意に落下衝突させた。アポロ十一号が設置した地震計でデータ採取を行った。しかし、その振動はNASAの科学者たちを困惑させた。一時間も振動は続いたからだ。これが何を意味するか……」

 風間は続けた。

 「内部は空洞という考えに達しないと振動が1時間も続くことの説明が付かないんだ。実際こんな話もある。NASAの研究員が月探査データをもとにモデルを作成したところ、出来上がったのはチタニウム製の中空の球体だった」

 ジェシーは風間の顔を見たまま動かない。

 通信が回復した後、風間は先程見たことを全て報告しマイクのスイッチを切った。

 (地球ではきっと大騒ぎだろう)

 

     七


 月面から遠ざかりつつある『ムーンダンサー』をクレーターの中から見る目があった……

 窓からの光りの中で影が揺れた。

 影はゆっくり立ち上がると手を上げた。目前の景色が消え、白い部屋の壁に変わった。部屋の光源に戻った。その者は後方に立っている者に身体を向けると声を発した。もし、この場に居合わせた人間がいてもこの会話は音にしか聞こえなかったであろう。丁度、固定電話の受話器から発せられるトーン音が小刻みに不規則に聞こえる様に。お互いの意思の交換を終えた二人は部屋を出て行った。同じくしてクレーターから発せられていた光りも消え、周囲は漆黒の空間へと変わった。

回廊を歩く先には巨大なドームが広がっていた。

 ドームの中央部には古びた宇宙船が置かれていた。くすんだ銀色で角ばったデザインの上部と対照的に下部には黄金色のスカートが巻かれている。そこから細い足が三本下に伸び、それぞれ先に大きな円盤が付いていた。横にはそれよりもかなり小型の機体があった。その機体は巨大な渦巻き上の襟巻きが付いていた。この二つの機体にはそれぞれ、赤と白の横縞がベースの上に青い四角形があり中に白い星が整列している図形が描かれてあった。この意味を理解する者はここには存在しなかった。

 

     八


 『大食』は大阪を本社とする創業大正元年の老舗食品会社である。

 この年に起業した会社は多い。創業から百周年を迎えた会社の多くは殆どが大正元年創業である。昨年の売上高九百億円。資本金一億円。従業員数四千人。関西圏に七十店舗を持つ、スーパーマーケットを運営する会社である。

 聖天波せいてんなみは電車の中で文庫本を開いていた。隣で弟のひろしが、漫画雑誌を読んでいる。洋は空調機の風で時折、顔に触れる波の黒く長い髪を迷惑そうに払いのけている。

 新大阪に着いた。波は立ち上がると細い赤茶色のフレームの奥から洋に目を向けた。洋はまったく気に止めていない。一心に読みふけっている。仕方なく洋のシャツの袖を引っ張った。洋は手のひらを波に向け一度軽く振ると、微笑んだ。


 新大阪で快速に乗り換え、四十分。石山駅で降りた。

 波は営業部勤務だった。海外の仕事が出来る会社で働くという夢は実現していた。入社して二年目でこのプロジェクトのリストに名前が載った。東南アジアで弁当チェーンなどうまく行くのかという意見もあったが、経営人が何年も掛け調査仕切った上で踏み切ったものだった。関西の日本でもビッグスリーに入る老舗スーパーが起死回生を狙った事業だった。すでにアジアマーケットに進出している関東のスーパーに対し、弁当事業でその名前をブランド化し、その後で店舗進出を狙う戦略である。

 午後から地元大手スーパーとの打ち合わせが入っていた。JR豊中駅で降りた。昼前なので駅近くで食事をすることにした。

 前を歩く矢萩清高やはぎきよたかが、振り向いた。

 「何にする?」

 「何でもいいです。お任せします」

 「何でもいいか……」

 周囲を見ていた矢萩の後頭部が突然、目前に迫った。ぶつかりそうになった。

 年の割りに白いものは少ない。軽く日焼けした顔は若く見え、三十代後半と言われることも多い。波は一見頼りない矢萩だが、取引先からは信頼されていることを知っている。新入社員は入社後一年間、マンツーマンリーダー、略してMMリーダーと呼ばれる先輩に付いて取引先へ同行する。会食の席にも当然同席をして、マナーなどを学ぶのである。そのMMリーダーが矢萩だった。

 客先、特にメーカー担当者からは懇意にされていた。矢萩がとぼけ、波がその場を纏めるという漫才でいえば(ボケとツッコミ)である。このアンバランスな関係が周囲からは愉快と思われていた。

 「ここに決めた」

 「はい」

 と答えた波は周囲を探している。

 (どこだろう)

 急に早足になった矢萩は、ファーストフード店を通り過ぎた。波は安堵の笑みを浮かべながら相変わらず周囲に気をとられていた。

 後方から来た自転車と接触しそうになったが、間一髪でかわした。

 矢萩は小さなサッシ戸を横に開けると食堂に入った。中は想像よりも広かった。

「チェーン店はどこで食べても味は同じだろ。でも食堂はその店毎に味がある……それに安心そうだろ。手作りだし」

 矢萩はガラスコップに水を注ぎ、波の前に置いた。そのままタバコをくわえた。

 矢萩が一押しというオムライスを食べた。波は一気に皿は綺麗にした。

 「完食だね。気に入った?」

 矢萩は得意そうに見ている。

 「おいしかったです。久しぶりにオムライス食べました」

食堂を出ると、打ち合わせ場所のビルは目前にあった。

 本社ビルの一階は店舗になっていた。

 エレベーターの扉が開くと、三階の受付前の待合室には、午後から仕入担当者への面談希望者が所狭しと居た。

 待合用の席は数も少なく、埋め尽くされていた。

 仕入担当者のことを業界ではバイヤーと呼ぶ。買う側だ。受付にはそれぞれのバイヤーの名前のある記入用紙があり、面談希望者はこの用紙に名前を書き込み、後はひたすら呼ばれるまで待つ。病院の待合室と同じだが、異なるのは確実に会える保障はされていない点だ。バイヤーに急用が入れば、即、面談予定終了となる。午後からの予定を失った者は翌日、訪問予定に加えることになる。 


 午後二時を廻り、会社名が呼ばれた。

 バイヤーとの商談スペースはバイヤーの部署の席の横である。ブースといっても仕切りもなく、壁側に机とパイプ椅子が四脚あるだけだ。壁にみかんやバナナの段ボール箱が一面、積み上げられていた。

 「それで今日は何?」花田はかれた声を発した後、手帳に視線を落とした。

 「あのう、本日はですね、当社が開発しました弁当をご紹介させて頂きたいと思います」

 「弁当……」

 「はい」

 波はカタログを開くと、花田の方へ向け、続けた。

 「当社は外食が中心のアジア市場、特にベトナム、タイ、インドネシアなどをターゲットにして、日本のおいしい弁当をイメージしたレシピを店舗で販売したいと考えております」

 波は少々、声を荒げてきた。矢萩は口を開いた。

 「外食が中心の食文化圏に、内食である弁当を展開します。ある程度認知された段階で、日本から食材を持ち込み、その店舗で販売し、安全で安心な日本の食材を将来的にはビジネスとして成立させたいという目的です」

 「それとうちとはどんな関係になるの?」

 花田はカタログにある弁当の写真にボールペンでまるを描いている。

 「あ、はい。あの御社にも是非、海外に進出頂き、私供と共同で店舗経営をしていただけないかと考えて……」

 「わかりました。社内で相談してみます」

 波の話はまだ終わってない中、花田は大声で割り込んだ。すぐ隣で仕事をしていた女性がこちらを見ていた。

 商談は終了した。


 商談後、ビルの下にある店舗に入った。

 「まったく、顔くらい、まっすぐこっちに向けろと言いたいよな。見ていたのは聖天の顔だけだ」

 矢萩は口を尖らせ、鋭い視線を陳列棚に向け、レモンを手で回している。

 「…………」

 店舗内の商品を一通り見て廻る。スーツの男性が商品棚のパンの包装裏面をじっと眺めている。棚に戻すと次のパンを取った。

 「あれ、たぶん同業者だ」

 矢萩はレモンを持ったまま、波のいる惣菜コーナーまで来て小声で言った。

 一通り店内を散策した後、店を出た。

 あと一軒アポが残っていた。夕方四時半。阪急で梅田に出て、御堂筋線に乗り換え江坂で降りた。駅の南側から出ると、まっすぐ御堂筋線の高架橋の左側を歩く。今度は波が先に歩いている。訪問先は食品メーカーの支店だった。

 ラーメン、冷凍食品を製造する大手食品製造会社であるが、波の会社とは過去から地元大阪で強固な関係であった。

 会社を出たのは六時前であった。直帰申請を出していた。そのまま帰宅する予定だ。

 「聖天、ちょっとコーヒーを飲んでから帰ろう。喉が渇いた」

 矢萩は通りに面した小さな喫茶店の扉を開け、中に入っていった。

 萩原はアイスコーヒーをストローで吸うとタバコに火をつけた。

 「俺は共同経営の話、面白いと思う。稟議書を提出するつもりだ。だがどうせ、上の連中はネガティブな発想しかできないから、あれこれと説明しろと突っ返してくるだろうな。でも、今回の話は将来的に必ず会社にとってはプラスになる。うちがやらなくても必ずどこかがやる」

 矢萩は野心家である。この機会を逃すことはない。

 波はシロップを数滴だけ氷の上に落とすと、ゆっくりと掻き混ぜた。


 散々、会社の悪口を聞かされ、うんざりした顔の波がやっとのことで出ようと促し、ようやく矢萩は腰を上げた。

 十九時を少し廻っていた。

 「ごめん。少し長く話しすぎた。会社の話を始めるとついつい長くなる。悪い癖だ」

 店を出ると薄暗くなっていた。波は長い髪を気持ちよさそうに風になびかせ顔を傾けた。

 「気持ちいいですね。さすがに九月の中旬にもなるとすこし夜は涼しくなりますね」

 「そうだな。もう夜はエアコンは必要ない」

 タバコを取り出し矢萩が言った。

 波は何気なく空を見上げた。

 月があった。満月だ。

 電車の高架が目の前にある。その上に月が光っていた。電車の音が周囲の音をかき消した。

 波の瞳は月の放った光で満ちた。

 波の体が振るえた。光が突き抜けた。

 「…………」

 「聖天……」

 「聖天、おいどうした」

 矢萩の呼びかけに波の体は反応し顔を向けた。

 「なんでもありません。大丈夫です」さっきまでの笑顔はなかった。

 

     九


 土佐堀川に突き出した半円形の中央から川を見おろしている男が二人いた。

 三日月と大本である。

 橋の半円形状のテラスから数本の街頭が白くあたりを照らしていた。

 淀屋橋駅の出口が近く、二人の後ろには帰宅を急ぐ人の流れが途切れることなく続いていた。駅から出てくる流れもある。早足で歩く会社員や厚く化粧をし派手目な服を着た若い女性が北新地方面へ向かっている。その二つの流れの奥で御堂筋に向かって、人垣が出来ていた。

 大阪市役所が左側に見えた。橋を目前にして川沿いの両脇からビルの窓明かりや電飾看板が水面に映っている。頭上には下側がかけた月があった。御堂筋に沿ってに並んでいる人達はそれぞれの携帯電話を月に向けている。

 「皆既月食が始まった……下側から欠け始めた」

 御堂筋を見ていた大本が振り返った。

 「こんなタイミングで、月がなくなってしまう。ほんとに俺は運がないな」

 「三日ちゃん、はやくやろう」

 再び川を覗き込んだ二人の視線の先にはプラスチック製のブイらしき浮遊物が浮かんでいる。

 三日月は浮遊物の方向に顔を向けたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 意識を集中した。しばらく時が経った。黄色のブイが波に揺れている。

 「だめだ」

 目を開いた三日月が声を荒げた。

 「出ない。故意にはやっぱり出来ないんだ。何かが起こらないと」

 「起こらないと?」

 大本が真剣な顔で聞いた。

 「何か自分の意思ではない突発的なこと、危険なことが起こらないと無理なのかも……」

 三日月は体を向け沈んだ声を落とした。

 「でも本当なんです。本当に起こったことなんです。信じてもらえないと思いますが」

 「俺は信じるよ……でも残念だな。見たかったな。本当にそんな光が三日ちゃんから出たらここに居る人、皆が目撃者なんだから凄いことになるよ。だれかがネットに画像をアップするかもな」

 「すいません」

 「また機会があればその光が出るかもしれないしね……じゃあ、月蝕を見て帰ろうか」

 月は見ると思ったより早く欠けており、上部を残すのみであったがまだ光は十分にあった。肉眼でもまだ眩しさがある。

 二人は暫く月を見入っていたがこれ以上変化がないと見限った為、駅に向かった。

 月は完全に光が消えうす赤い色に変わっていた。


大本はJRで帰ると言いそのまま橋で別れた。

 三日月は元気のない足どりで改札を抜け階段を降りて行った。

 千里中央側のホームに沿って歩く。壁が左に迫り線路とホームの間は狭い。それでもひっきりなしに人が突っ込んでくる。

 二人でかわすのが限界な広さである。

 前方からベビーカーを押した女性がこちらに向かってくる。

 ホームに音が警告の音が響き、前方にライトが見えた。

 車両が向かってくる。

 立ち止まり、ベビーカーの女性をやり過ごそうとしたときその後ろから中年の男性が無理やり追い抜くのが見えた。

 電車の先頭はそこにあった。

 追い抜くはずだった男性がよろめいた。

 あっ、と声にならないものが喉を詰まらせ、瞬間熱いものが頭にこみ上げてきた。

 その時、指の隙間から白い光がぼんやりと出た。

 だが車両がすれ違う寸前、男性は体制を建て直した。間一髪で接触を回避することができた。白い光は小さく、周囲に気づいたものはいなかった。三日月は驚きのあまり、そのまま壁に背中を預けて電車の過ぎるのを呆然とみていた。「本当だった……」三日月は小さく呟いた。顔はまだ赤く息も荒かった。そのまま前方の一点を見つめた。意識を集中させ顔を歪めた。

 再び、手のひらの中心部に白い光が小さく灯った……


     十

 

 関西屈指の老舗『千代スーパー』へは三度目の訪問だった。相変わらず花田は矢萩の顔は見ない。波ばかり見ていた。少し異常者的なものを感じた。花田が口を開いたのは一度だけだった。

 「聖天さんは眼鏡取ると、かなりの美人でしょう。自分でもそう思っているでしょ」

 波はそんなことはわかっていると言いかけそうな自分の気持ちを抑えた。


 下の店舗で買い物をした矢萩と波が出て来た。 

 店の前にある横断歩道で立ち止まった。

 矢萩はスナック菓子とパンを買ったのが半透明なレジ袋から見える。

 「矢萩さんは家でご飯あるのでいいですね」

 「いや、ないよ。聖天はそれ今日の晩飯?」

 聖天の袋には野菜と肉が透けて見えている。

 「ちゃんと食事は作るんだ」

 矢萩がとぼけた口調で問いかけた。

 「まあ一応」

 波は答えた。

 (矢萩さんは確か結婚しているはず。食事があると思って何の気なしに聞いたのに「ない」という答えには返す言葉がない。今日、食事がないのか、いつもないのか、もしかして奥さんと一緒には暮らしていないのだろうか……)

  

 信号が変わり横断歩道を渡る。前から男性が歩いて来る。その人が気になった。

 すれちがう瞬間、目が合った。

 波は困惑の表情だった。すれちがう男性も同じ表情だった。波は百六十七センチだ。ヒールを履いているので男性の顔は下だった。

 すれちがった時、感じたもの。それは同じものを共有している感覚だった。

 「知り合い?」

 矢萩が声をかけ横に並んだ。

 「いえ……」

 二人は豊中駅の人ごみに姿を消した。

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