35 手を取り合う二人と魔法の道具(3/3パート)
※第2パートからの続きです。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したソフィアが、申し訳なさそうな表情でタクミに頭を下げる。
「し、失礼しました。ちょっと取り乱してしまいましたわ……」
「大丈夫ですよ。 さて、気を取り直して料理を始めましょうか」
「ええ、お願いいたしますわ」
「はいっ! これ使ってくださいっ!」
会話をしていた二人の間に、仕込みの準備を手伝っていたルナが手を差し出した。
少女が差し出したのは一枚のエプロンだ。
いつの間にか部屋に戻って予備にしているものをとってきてくれていたらしい。
「ありがとうね。そうしたら遠慮なく使わせていただくわ」
エプロンを受け取ったソフィアは、そのままルナの頭を優しくなでる。
するとルナは、ほんのりと頬を染め、はにかみながら頭を下げた。
ロランドの下へと戻るルナの背中を温かいまなざしで見守りながら、ソフィアはエプロンを身にまとう。
受け取ったエプロンは大人の女性の体形にはやや小さめのサイズであり、少々きつめに感じられる。
しかしソフィアには、その心遣いが何よりもうれしく感じられた。
「では、さっそく始めていきましょう。使う材料はこれだけです」
テーブルの上には必要な材料が並べられていた。
用意された材料はマイス粉を使って香ばしく焼かれたトルティーヤに、今朝採れたての新鮮な生卵、ランチ用に作っておいたサルサソースと、仕上げに使う予定の削ったテーゼの四つ。
今日の材料はたったこれだけだ。
「ずいぶん材料が少ないけど、これだけで大丈夫なの?」
「ええ、サルサソースを一から作るとなると少々手間がかかりますが、作り置きのソースがあれば簡単ですよ。また機会があればこちらのソースの作り方もお教えしますね。さて、ここまで用意ができていれば包丁を使う準備はございません。さっそく調理にとりかかりましょう。どうぞこちらへ」
タクミはそういうと、ソフィアをロケットストーブの前へと案内する。
すると、別の場所で作業を続けていたロランドが大きな声を上げた。
「あっ! もう使わないと思って種火を片づけちゃったっす!」
「いえいえ、大丈夫ですよ。むしろちょうどよかったです。ではソフィアさん、このロケットストーブに火を起こしてもらってもよろしいでしょうか?」
「え? それも私がやるんですの?」
戸惑いの顔を見せるソフィア。
しかし、タクミはにっこりとほほ笑んで作業を促す。
「ええ。料理人はもちろん、家庭の主婦の方にとってもこの“火起こし”が大きな仕事なのです。手順は説明しますので、一緒にやってみましょう」
「わ、わかりましたわ……」
ソフィアは不安そうな表情を見せているものの、タクミに言われたとおりに火起こしの作業を進めていった。
まずはロケットストーブの火口にたまった灰を掻き出し、そこに乾燥した藁の束を置く。
空気を含むようにふわっと置かれた藁の束の上には、こちらもしっかりと乾燥させた小さな枝や細い薪の端切れを並べていった。
「これくらいでよろしいのかしら?」
「ええ、大丈夫そうですね。では、ちょっと離れたところで見ていていただけますか?」
ソフィアはコクリとうなずくと、タクミに火口の前の場所を譲る。
離れたところで作業の様子を見ていると、タクミは長マッチをシュッとこすって火をつけ、火口に入れた藁へと近づけていった。
十分に乾燥した藁はすぐに大きな炎を上げ、枝や薪へと火を移していく。
火の勢いが強くなったところで火口の奥へと薪を軽く押し込むと、ロケットストーブの上部の穴から赤い炎がチョロチョロと見え始めた。
「これで後は火口から薪を差し込んでいけば大丈夫です。熱いので気を付けてくださいね」
「え、ええ……やってみますわ」
思いのほか強い炎の勢いに気圧されながらも、ソフィアは再びロケットストーブの前に立つ。
そして、恐る恐る薪を差し込んでいくと、すぐに炎が燃え移り、炎がますます大きく立ち上った。
「これくらいで十分ですね。では、その上にフライパンを置いて、軽く油をひいたらトルティーヤをのせてください」
「は、はいですわ」
炎が立ち上るロケットストーブの上にフライパンを置き、コルザ油を含ませた布をこすりつける。
フライパンの取っ手には、やけど防止の白い布が巻かれていた。
その白い布をしっかりと握りしめながら、用意しておいたトルティーヤをフライパンに並べる。
「もうひっくり返しても大丈夫ですね。裏面も焼いたら一度火からおろして卵を割り入れます」
タクミの指示に頷きながら、フライ返しでトルティーヤをひっくり返すソフィア。
ロケットストーブの強火で焼かれたトルティーヤからは、香ばしい香りが広がってきた。
トルティーヤが程よく温まったとろころで、いったんストーブ脇の作業台の上にフライパンを置き、卵を割り入れる。
十分に熱されたフライパンと卵の白身が接触すると、ジュワーっと心地の良い音が響き渡った。
「少し火力が強そうですね。火箸で薪を少し掻き出してからフライパンを戻してください。蓋をして蒸し焼きにします」
「了解ですわ」
徐々に余裕が出てきたのか、ソフィアが声を弾ませる。
火勢を落としてからフライパンを戻し、しっかりと蓋をしめた。
ここで作業は一段落だ。
額の汗をぬぐうソフィアに、タクミが声をかける。
「あとは卵の白身が固まったぐらいのところでサルサソースを入れ、軽く煮込めば完成ですね。もうひと頑張りです」
「なんだかあっという間でしたわ。でも、上手にできているかどうか、心配ですわ……」
「きっと大丈夫ですよ。さて、そろそろよさそうですね。仕上げまで、よろしくお願いいたします」
タクミの言葉に促されたソフィアは、最後の仕上げへと取り掛かるのであった。
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「うむ、なかなか上手く出来ておるではないか」
ソフィアが作り上げたウエボス・ランチェロス — “目玉焼きのサルサソース煮込み”を食しながら、“駅長”がうんうんと頷く。
さっぱりとした辛さを持つ赤いソースと、とろりと半熟に焼かれた卵の黄身がトルティーヤの上で絡み合い、ちょうどいい塩梅だ。
そこに、仕上げの際に一緒に加えられたテーゼがまろやかなコクを加えており、絶妙の味に仕上がっていた。
「でも、よく考えたら味付けは全部タクミさんが準備してくれたソースのおかげですわよね」
「いえいえ、玉子の黄身もきれいに半熟に仕上がっていますし、ソースも煮詰まり過ぎることなく仕上がっております。これはとっても美味しいですよ」
タクミからの率直な感想に、ソフィアは照れ笑いを浮かべる。
しかし、すぐにその表情を一変させ、まじめな顔で話し始めた。
「でも、これは思った以上に大変ね……火を起こすのもこれほど手間がかかるなんて思っていませんでしたわ」
「そうですね。もう一つ言えば、火を扱うためには必要な薪も用意しなければなりませんね。このお店でも薪の用意までは手が回りませんので、車両区の皆様のご厚意に甘えているのが正直なところです」
「そうよねぇ……お風呂のお湯を沸かすにしても薪や石炭は必要でしょうし、これだけで一仕事になるということも理解できましたわ」
「うむ。ソフィア殿のご自宅のような邸宅であれば専門の世話人を雇うこともできるじゃろうが、一般の家庭ではなかなか難しいのぉ」
「そうっすね。うちもお袋は炊事や洗濯、掃除に追われてるっす。俺も朝ぐらいは手伝ってまし、兄貴たちが薪割りは引き受けてるっすが、それでも妹が手伝ってようやく回ってるって感じっすね」
「なるほど、どこも大変なのね……。 あ! そうですわ! そういうことなんですわね!」
ソフィアがポンと手を合わせる。
その様子に、タクミが、うんうん、と頷きながら説明を始めた。
「ご理解いただいたようで何よりです。この厨房で扱っている火を“ガスの火”に変えることができれば、火おこしや薪の準備といった大変なことを大きく減らすことができるのです」
「ガスであればマッチ一本ですぐに火がつけられますし、薪を用意する必要もございませんわ。ずいぶん楽になりますわよね」
「灰を掻き出したりする必要がないっすから後片付けも簡単っすよね!」
「その通りです。それに、ガスを送る量を調整できるようにすれば火の強さも自由自在に変えられます。そうすれば、火加減の難しい料理をする時にも大いに役立つでしょう」
「そうですわね! これはすごいことですわ!」
タクミの言葉に、力強く頷くソフィア。
しかし、喜びを見せるソフィアの姿を見守っていた“駅長”が、一つの疑問点を投げかける。
「しかし、そう簡単に事は運びますでしょうかな……?」
「えっ? おじ様から見ると何か気になることがございまして?」
「うむ。 今までのガス灯程度の火力では、とても料理には使えないのではないかと思ったのじゃ。そのあたりはどう思うかね?」
「それは大丈夫ですわ。 大きな炎を生み出すことができる装置をこれから開発すればいいのですわ」
「そうじゃな、時間をかければ作り出せるであろう。しかし、そうなると例の計画はいったん延期とするおつもりかね? 工場は稼働させねばならぬのであろう?」
「そ、それは……」
“駅長”の鋭い指摘に、ソフィアは言葉を詰まらせた。
もし先ほど話していたような形でガスを活用するのであれば、そのための設備を工場に用意する必要がある。
しかし、今のまま工場に設備を用意したとしても、技術開発にどれほどの時間がかかるか予測することが難しい。
開発が順調に進まなければ何年も設備を眠らせたままにしておくことになってしまうのだ。
しかし、ガスの関連設備というものは後付けで用意することは困難とのことだ。
だからこそ新しい工場の建設に合わせてガス灯の計画を進めていたのだ。
とはいえ、銀行家としては稼働する見通しのない設備に投資をすることはできない。
二つの相反する課題をどう解決するか、じっと思考を巡らせるソフィア。
そして、一つの結論を導き出した。
「……ガス灯の計画を進めればいいのですわ」
「ほう。と、いうと?」
真剣なまなざしをぶつける”駅長”。タクミもじっと黙って次の言葉を待つ。
「電灯の脅威ばかりを考えていましたが、今の段階では安価に長時間点灯させておくことができるガス灯のほうがまだまだ便利であることは変わりませんわ。ですので、まずは予定していたガス灯の敷設計画を進めて、街の中にガス管を行きわたらせます。ガス管さえ準備できていれば、キッチン用の装置の開発に合わせて広めていくことができますわ」
「なるほど、電灯が追い付いてくるまでにはまだ少し時間がかかる。その間にガス灯の計画を進めることで、事業の土台を作るというわけか」
「その通りですわ。そうすれば、リベルトさんとお話ししていた新しいガス灯の技術も導入できますし、キッチン用の装置の開発でも協力関係を築くことができますわ」
「それは何より。これでまた彼と会う口実ができるというものじゃな」
「いやですわ。これはあくまでもお仕事ですわよ」
“駅長”のからかいをソフィアは軽く受け流す。
どうやら心配事が減ったことで、心に余裕を取り戻したようだ。
普段の調子を取り戻した才媛に、タクミが話しかける。
「キッチン用のものですと、ロケットストーブの代わりになるガスコンロだけではなくて、ガスの火力を使ったオーブンもあると便利です。それに、ガスの火力でいつでもお湯を得られるような仕組みや、アロースを炊くのにむいたガス釜なども考えられますね」
「相変わらずタクミさんはアイデアの宝庫ね。今度うちの技術者を連れてくるから、いろいろ話していただけないかしら?」
「もちろん、私でお役に立てるのであればいつでもお申し付けください。こういったものが出来てくると、ソフィアさんみたいな方が一番恩恵を受けるのかもしれませんね」
「あら、どうしてかしら?」
「こういった家事を楽にする道具がそろってくると、ソフィアさんのような優秀な方が働きながら家事をすることができるようになってくると思います。もちろんお手伝いいただける方を雇ってもよいのでしょうが、心を込めた手料理を将来の旦那様に作ってあげることができれば、それは幸せなことではないですか?」
タクミの言葉を反芻しながら、頭の中で将来の生活を思い描くソフィア。
仕事がある以上、愛するパートナーのために料理を作ってあげることなどできないと思っていた。
しかし、ガスの炎があれば、料理にかける時間は大幅に短縮できる。
毎日とまではいかないかもしれないが、時々は料理を作って二人で楽しむことぐらいはできるかもしれない。
“ある人”の顔を脳裏に浮かべながら想いを巡らせたソフィアが、ゆっくりと口を開く。
「……確かにそうね。料理の練習はしないといけないけど、時々なら作ってあげられそうよね」
「それは良いですなぁ。相手の胃袋を掴むのは何よりのインパクトがありますからなぁ」
口元の白鬚をなでながら、“駅長”がにやりと口角を持ち上げる。
ソフィアが口元を抑えてクスクスと笑い出した。
「もう、おじさまったら。でも、そう考えると、明日はいい機会なのよね……。ねぇ、タクミさん。一つお願いしてもよろしいかしら?」
「ええ、何でございましょうか?」
「明日の夕方予定していたリベルトさんとの会食の時に、今日と同じようにキッチンをお借りしてもよいかしら? それで、今日と同じように私が料理をやってみせてあげたいの。 あ、勘違いしないでね。あくまでもお仕事優先だから! ほら、私みたいなタイプの人間のほうが料理の大変さが伝わるでしょ?」
どこか言い訳にも聞こえそうな言葉をつなげながら頼み込むソフィア。
その言葉にタクミはふふっと笑みをこぼしつつ、言葉を返した。
「かしこまりました。それではそのようにご準備させていただきます。もし必要であればこの後もキッチンを使っていただいて構いませんので、練習が必要であればお手伝いさせていただきます」
「それは助かるわ。じゃあ、お言葉に甘えさせていただくわね。 タクミさん、いえ、タクミ先生、よろしくお願いいたしますわ」
たった一晩しかないが、リベルトさんのためにできるだけのことはやってみよう ―― そう気持ちを込めるソフィアであった。
―――――
翌日の午後、待ち合わせの時間よりも早くソフィアは喫茶店『ツバメ』へとやってきていた。
二階の個室ではなくキッチンの片隅に備え付けてあるテーブルへと座り、会合の相手が来るのを今や遅しと待っている。
「いかがでしょう? 段取りは覚えられましたか?」
作業を一段落させたタクミが声をかけると、ソフィアは少し緊張した面持ちを見せながら頷いた。
「何とか頭には入れたけど、実際にやってみないと何ともね。 でも、せっかくの機会ですから、精一杯頑張りますわ」
「その意気です。急ぐ必要はありませんから、ゆっくりと落ち着いて、一つずつ確認しながら頑張ってください」
ありがとう、と短く答えたソフィアは、再びキッチンを眺める。
美味しく出来るかな、喜んでもらえるかな ―― ソフィアの心は、このテーブルの正面に座るであろう“想い人”へと向かっていた。
その時だった。
突如、キッチンにけたたましい声が響き渡る。
「大変なのな大変なのな! ごしゅじん、大変なのにゃーっ!!」
大声をあげながら飛び込んできたのはニャーチであった。
その後ろにはテオも追いかけてきている。
「どうしました? 何かありましたか?」
「い、いま緊急電信が届きまして……こちらを!」
息を切らせながら一枚の紙を差し出すテオ。
それにすぐさま目を通したタクミは、一瞬驚愕の表情を見せたのち、目頭を押さえる。
何か起ったのであろうか。
ソフィアが様子をうかがっていると、タクミがなにやら早口で指示を飛ばしていた。
その指示を受けたニャーチとテオが、慌てた様子で駅舎のほうへと駆け出していく。
続けざまにタクミはロランドへも耳打ちをし、裏口から外へと向かわせる。
嫌な予感を感じ、胸騒ぎを覚えるソフィア。
一瞬の喧噪から一気に静寂へと変わったキッチンの雰囲気に、不安が掻き立てられる。
コツコツと靴音を響かせて近づいてくるタクミは、眉間に深くしわを寄せていた。
これまで見たことがないタクミの姿だ。
重苦しい雰囲気に押されただ黙って見上げるソフィア。
タクミは視線を合わせるように腰をかがめると、真一文字に結んだ口をゆっくりと開いた。
「落ち着いて聞いてください。こちらへと向かっていた列車内にて暴行事件が発生したとの一報が入りました。犯人は取り押さえられましたが、残念ながら乗客に負傷者が出ております……」
胸元で拳をギュッと握りしめてソフィアが息をのむ。
「リベルト様、重傷とのことです」
その刹那、椅子がガタリと倒れる。
時を刻む柱時計が、ボーンボーンと重い音を響かせていた。




