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5 一等車の麗人とデザートセット

乗客の皆様、長時間のご旅行お疲れ様でした。この列車は当駅が終点となります。改札口にて乗車券を拝見いたします。到着いたしました列車は、整備点検の上、折り返し、ウッドフォード行き最終列車となります。お手荷物などお忘れ物がございませんよう、ご注意をお願いいたします。

――― なお、喫茶店『ツバメ』への定番メニュー以外のご注文は、事前にご予約いただけますようお願いいたします。

「え? ご予約……ですか?」


 ある日の午後、タクミは、白い口髭を蓄え、金ボタンのついたダブルの詰襟スーツを纏った男性 ―― “駅長”からの注文に、戸惑いを見せていた。制帽をテーブルに置いてシナモン・コーヒーを堪能する“駅長”は、タクミが戸惑うのも予想のうちだとばかりに、穏やかな笑顔のままタクミに話を続ける。


「うむ、とあるお客様からの依頼でな。 どうやら、どこかでこの喫茶店のことを聞きつけたようで、一度訪れたいとの話が合った。 こちらに来るのは3日後の予定。 第2便で到着されるとのことだ。私も同席するので、2名での予約ということになるかな」


「わかりました。でも、第2便の到着だとランチの時間には少し遅めになりますね……。普段のランチメニューもご用意できなくはないのですが、何か別のものをご用意した方がよろしいでしょうか?」


「いや、それなのだがな、実は既に注文があってな。 昼食は済ませてくるので、間食程度の軽いもので構わないそうだ。ただ、タコスやチップスのようなものではつまらない。今まで食べたことがないような、あっと驚くようなものがご所望とのことだ。 どうだ? 出来るか?」


 タクミは、腕組みをしたまま思わず唸ってしまう。


「うーん、なんとも難しい注文ですね……。 今までこちらでお出ししていたものになると、せいぜいロールサンドのアレンジ程度になっちゃいますが、それではつまらない……ってことですよね」


 タクミの言葉に、“駅長”はコクリと頷く。


「そうすると……うーん、なかなか思いつかないですね。困ったなぁ……」


「ケーキセットはどうなのにゃ? あ、駅長さん、おひさしぶりなのにゃーっ」


 ニャーチが突然後ろから飛びついてきた。 タクミは一瞬びくっとなるが、その驚きを隠すかのようにやれやれといった様子でニャーチの首根っこをつまんで持ち上げる。 


「こら、突然後ろに乗っかるんじゃない」


「にゃぁぁぁ。 でも、楽しそうなお話をしてたから混ざりたかったのにゃぁ」


 首根っこをつかまれたままぶらりとぶら下がっているニャーチ。多少は反省しているようだ。タクミは、ニャーチの首根っこから手を離すと、先ほどの提案をもう一度確認した。


「で、なんだっけ? ケーキセット?」


「そうにゃ!ケーキにゃ!喫茶店の定番のなのにゃ! 昔行ってたお店でもよくケーキセットとか頼んでたのにゃ!」


「ああ、そういえば……でもケーキを作るとなると、粉がなぁ……」


 駅舎での喫茶店営業を始める際、タクミはケーキをメニューに入れることも考えてはいた。しかし、ケーキ作りをする上では、“こちらの世界”には大きな壁があった。そう、肝心の『小麦粉』が手に入らないのだ。 “こちらの世界”ではどうやら小麦が栽培されておらず、主食になるパンやトルティーヤにはもっぱらトウモロコシ粉がメインに使われている。 トウモロコシ粉ももちろん美味しいのではあるが、小麦粉とは違ってグルテンが含まれないため、しっとりふんわりとした食感を出すのはかなり難しい。それに、トウモロコシ粉にはやはりトウモロコシ特有の風味があり、食事用のパン等に使うことは問題ないのだが、ケーキ等に使うにはこの癖が少々厄介な存在となっていた。このため、タクミが自信をもって出せるのは今のところ『しっかり系のパンケーキ』のみであった。


 小麦粉に近い性質をもつ粉が手に入れば、ケーキ系はもちろん、料理のレパートリーも増やせるのだが……タクミは、如何ともしがたいもどかしさに思わず渋い表情を見せてしまっていた。その表情を見て、駅長が声を掛ける。


「ふむ……。そうしたらこれを粉にしてはダメなのかね?」


 駅長はランチメニューを指さす。タクミは駅長の言葉の意図を読み切れないまま指をさすものを確認する。


「カレーに入っているパタータ(じゃがいも)のことですか? 確かに加工すれば片栗粉とすることもできるかと思いますが、残念ながらケーキ作りには不向きなものになってしまうかと」


「いやいや、そちらではないよ。 こっちのアロースのことじゃ。 これも穀物の一つなのじゃろ?」


 タクミは、その言葉にハッとなった。なぜ今までそのことを思いつかなかったのだろうか……。アロースとは、春に種を撒くと秋には黄金色の殻の中に白く細長い実をつける穀物 ― すなわち『コメ』だ。“こちらの世界”では、収穫後に乾燥させたアロースの実の殻をとり、中の白い実の部分を水やスープで茹でていただくことが多い。『ツバメ』のランチメニューでも、『ご飯もの』のAランチで定番として使っていた。


 そして、アロース(コメ)を粉にすればそれは米粉そのもの。小麦粉に近い粉として使えることは間違いない。コメにもグルテンは含まれていないため、麵やパンを作ることは難しいかもしれないが、もともとグルテンが少ない薄力粉を使うケーキの類であれば問題なさそうだ。それも、『粉がメインではないケーキ』であればより上手くいくだろう……タクミは頭の中でばらばらになっていたパズルのピースが一つにまとまっていくのを感じた。


「ありがとうございます! ようやく喜んでもらえそうなものを一つ思いつくことが出来ました。お任せいただいてもよろしいでしょうか?」


 ようやく笑顔のもどったタクミに、“駅長”は満足そうに頷いた。


「うむ、では期待しておるぞ」


「ニャーチもいっぱいお手伝いするのにゃー! ケーキいっぱい食べるのにゃーっ!」


「それは手伝いというのか? ……ま、でも試食は頼むな」


 ニャーチが満足できる味を作り出せれば、きっとお客様にも喜んでもらえる……タクミは、ニャーチの味覚に何よりも信頼を置いていた。タクミは、返事をしながらニャーチの頭をポンポンと撫でていた。






◇  ◇  ◇






 その日の夜からタクミは早速試作に取り掛かった。ランプの灯りでほのかな明るさに包まれたキッチンテーブルの上には、先ほど出来上がったばかりの白い大きな塊が薄手の白い麻布に包まれたまま置かれている。タクミは、塊の一部をスプーンですくい取り、味を確認する。濃厚なミルクの味わいが口いっぱいに広がるとともに、中に入れた柑橘の汁が爽やかな香りを奏でていた。タクミは、今回のメインの材料となるこの白い塊の出来栄えに一つ頷いて、食料庫へと向かった。


 タクミが食料庫から取り出したのは、今朝仕入れた新鮮な生クリームと卵、“こちらの世界”で使われている少し茶色みがかかったコクのある味わいが特徴の砂糖、そしてもう一つ、アロースを粉にしたものだ。今日のところはキッチンにある石臼を使ってアロースを挽いたのだが、火を通す前のアロースはとても硬く、粉にするためには相当の労力を要した。今後、もし大量に使うようになるのであれば、どこかに頼んでアロースを粉にしてもらわないと……タクミは、そう思いを巡らせた。


 すべての食材をそろえ終えたタクミは、いつもの黒いエプロンを腰にまとって作業にとりかかった。まずは、先ほどの“白い塊”をボウルに入れ、泡立て器でよく練る。すると、白い塊が徐々に解けていき、ペースト状となっていく。そこに砂糖をたっぷりと加えて混ぜ、続いて卵を割り入れて混ぜ、さらにアロースの粉を振り入れて混ぜていく。順番に食材を加えて混ぜていくと、ペースト状の生地がさらに滑らかになっていった。最後に、生クリームを加減を見ながら入れ、泡立て器で十分に混ぜ合わせたものを、バターをなじませておいた長方形の金属型に入れ、トントンと数回テーブルの上に落として空気を抜いたうえで、弱火で予熱しておいたオーブンストーブの中に投入した。


 タクミは、オーブンストーブの火力を真剣な表情で見つめながら、薪を足していく。このキッチンにあるオーブンストーブは、“駅長”の特注品とのことで、この時代としてはかなりの優れものとのことだ。しかし、タクミがいた現代のように温度設定のつまみなどがついているはずはなく、温度の調整は薪の入れ方一つにかかっていた。特に今回のように「低めの温度でじっくりと」焼き上げる必要がある場合には、細心の注意を払って火力調整を続ける必要があった。焼きあがるまでの間、タクミはひと時もオーブンストーブから離れず、火が強くなりすぎないよう十分に注意を払いながら薪を足し続けていった。


 そして、このキッチンにある一番大きな砂時計を3回ひっくり返し中の砂が全部落ちる頃、ようやく焼き上がりの時間となった。オーブンストーブの中で焼き上げていた生地を型ごと取りだすと、焼き上げる前には型の半分弱ぐらいしか入っていなかったクリーム状の生地が、熱で温められて型の1.5倍ほどの高さまで大きく膨らみ、表面がこんがりときつね色に色づいていた。タクミは、細い木の串を刺して焼き上がり具合を確認する。どうやら問題なさそうだ。タクミは、ふぅと一息をつき、焼きあがったものをキッチンテーブルの上に移動させる。生地から粗熱が取れるのを待つ間に、泡立て器やボウルなどを丁寧に洗い、テーブルの上も片付ける。そうしている間に粗熱がとれた生地は少ししぼんでしまっていたが、これも予定の範囲内だ。型から取り出した生地を包丁で切り分けると、中からはカスタードクリームのような淡黄色が現れた。タクミは、端きれを一つまみしてその出来栄えに満足すると、階段の下から二階でゆっくりしているであろうニャーチに声をかける。ほどなく、いつものように元気のいい足音が階段から聞こえてきた。


「ごっしゅじーん! 呼んだかにゃ? 呼んだよねっ!?」


 試作品が出来上がるのを待ちかねたように、ニャーチは目をキラキラさせながらテーブルに着く。タクミは、オーブンストーブの天板の上で温めて置いたシナモン・コーヒーをカップに注ぎ、先ほどできたばかりの試作品とともにテーブルの上に置く。さて、どのような言葉が飛び出るのか……タクミは、ニャーチの言葉を楽しみに待つのであった。


 こうした、タクミとニャーチの夜は、この日以降3回繰り返され、お客様に自信を持ってお出しできる新たな一品が喫茶店『ツバメ』のメニューに加わることとなった。






◇  ◇  ◇






そして予約の日、定刻通りに本日の第2便が到着した。タクミは、普段行っている改札業務を“駅長”に任せ、ご予約のお客様のためのメニューの準備に取り掛かっていた。第2便到着からしばらくした後、『ツバメ』の扉がカランカランカラーンと音を立てた。


 「ここが噂のお店ね。小ぢんまりしてるけど、なかなかいい感じじゃないの」


 扉から入ってきた女性は、細身で背が高く、モデルを思わせるようなスタイルだった。漆黒のストレートの髪は腰まで届くほど長く、白のブラウスと黒のロングパンツのシンプルな装いながら、非常にハッとするような存在感を振りまいていた。彼女の後に続いて入ってきた“駅長” ―― 年齢は重ねているものの、背が高くがっしりとしており、そしてかなりのイケメンである ―― と並び立つと、まるで映画のワンシーンかなにかのようだった。


 「あ、ご予約のお客様ですかにゃ? お待ちしておりましたなのにゃ! どうぞ、こちらにお席をご用意していますにゃ」


 ニャーチは、お客様と“駅長”をReserved(予約済み)と書かれた札が置かれたテーブル上へと案内する。“駅長”は椅子を軽く引いて女性をエスコートし、女性もそれに応えるように会釈をして着席した。女性は、カジュアルな雰囲気ながらも一つ一つの仕草が気品に満ち溢れており、上流階級の雰囲気をうかがわせるものだった。


 「ソフィアよ。 “駅長”のオジサマにはいつも大変お世話になってるわ。あなたがニャーチちゃん?」

 

 ソフィアは上目遣いでフランクにニャーチに声を掛ける。


 「そ、そうなのな! ニャーチがニャーチなのなっ! 本日は、遠路はるばるお越しいただだだ・・・・頂きまして、あ、ありがとうございますなのなっ!」


 緊張したのか気品に気圧されたのか、ニャーチが珍しく少し噛みながら挨拶すると、ソフィアは口元を抑え、クスクスと微笑む。


 「オジサマからお伺いしていた通りの元気な方ね。 ニャーチちゃん、これからよろしくね」


 「はいなのな!こちらこそよろしくお願いしますなのなっ! それでは、ご注文を確認させていただきますなのなっ。駅長さんからケーキセットを2つのご予約を頂いているのなっ。 えっと、お飲み物はコーヒー、ミルク、あと、今日はナランハ(オレンジ)のジュースの中から選べるのにゃけど、どれがいいかにゃ?」


 「そうねぇ……その、ケーキというものにはどの飲み物が一番おすすめなの?」


 「うーん、今日のケーキだとどれでも美味しいけど、ニャーチだったらコーヒーに合わせて食べたい味なのな。でも、ミルクでもナランハジュースでもきっと合うのにゃっ」


 「ありがとう。 そうしたら、私はコーヒーにするわ。 オジサマは?」


 「ふむ、そしたら私もコーヒーで頂こうかな」


 「じゃあ、コーヒー2つねっ」


 「かしこまりましたのなっ! それでは、ケーキセットを2つ、どちらもコーヒーで承りなのなっ。少々お待ちくださいませなのな」


 ニャーチは注文を紙に書きとると、ぺこりと会釈をして、キッチンのあるカウンターへと向かっていった。後ろ姿からも、頭の黒いネコ耳がピョコピョコ動いているのがよく分かる。その様子を目を細めながら見つめているソフィアに、“駅長”が声を掛ける。


「なんかずいぶん楽しそうだな」

 

「ええ、オジサマのお話で想像していた通り、いや、それ以上にとってもチャーミングで面白い子だったんですもん。 あー、うちの街にお店を出してくれればよかったのにー」


「まぁ、これも縁というものだな。このハーパータウンの街にきっと必要な縁であったのであろう」


 ソフィアは、その言葉を少しかみしめるように一拍置き、そして先ほどまでの気品で優雅な仕草はどこへやってしまったのか、思いっきり机に突っ伏しながらボヤキはじめた。


「あー、私にもどっかにいい縁がやってこないかなぁ……、できれば、独身のイケメン男性で仕事もバリバリでプライベートも充実させてくれて、それに子育てとかもちゃんと手伝ってくれる人が……」


「それは少々欲張りすぎではないか? というか、お主そのものの願望ではないのか?」


「てへ。バレタ?」

 

 ソフィアがおどけて舌をペロリと出すと、“駅長”は、困ったものだと苦笑いを浮かべた。そんなやりとりを続けていると、ニャーチがその手にお盆を持って、黒いカフェエプロンを纏った男性 ―― タクミとともに現れた。


「駅長代理兼店長のタクミと申します。 ハーパータウン、そして喫茶店『ツバメ』にようこそお越しくださいました」


「ソフィアよ。 今日はとっても楽しみにしてきたの。 これが、ケーキというものかしら?」

 

 ソフィアの目の前に置かれたやや小さめの四角い形をした白い磁器の皿の上には、扇形に切り分けられた食べ物が載っていた。上面のきつね色と、断面の柔らかい風合いの淡黄色のコントラストが何とも美しい。その横には、ミルクのように真っ白で少しだけふわっとした感じのソースと、薄くスライスされ短冊状に切り分けられたコーンブレッドが添えられていた。


「はい。本日はベイクドチーズケーキにいたしました。こちらのクリームソースはお好みでつけてお召し上がりください。そちらのコーンブレッドは二度焼きしてラスク状にしておりますので、お口直しにどうぞ。そうそう、ケーキの甘さに合わせシナモン・コーヒーには砂糖を入れておりません。最初は砂糖を入れないままお飲みいただいて、お加減を見ながらそちらのシュガーポットのお砂糖を入れてみてください。それでは、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」


 タクミはそう説明すると、再び深々と会釈をし、ニャーチを連れてキッチンへと戻っていった。ソフィアは改めてケーキセットを見つめる。見たことがないメニューではあるが、なんとも食欲がそそられる。まず初めはそのままの味を堪能しようと、扇の先端の部分をフォークで切り取る。手に伝わる感触は思いのほか重く、しっかりとした生地であることが伺えた。一口大の三角形に切り分けたケーキを、口の中へと運んで行った。


「うそっ、これ、すっごく濃厚!! それに、とっても甘い!」


 ソフィアは思わず声に出して感嘆する。口の中に最初に広がったのはまるでミルクを芯の部分だけを抽出したかのような濃厚な味。さらに、ふんだんに使われているであろう砂糖の甘さが加わり、まったりとした風味を生み出していた。これほど濃厚な味わいは、ミルクを原料とした保存食であるケッソによく似ている。もしかしたら、チーズというのはケッソの一種なのかもしれない。しかし、ケッソは保存食であるがゆえに独特の塩味や匂いを持つものが多く、このような純粋にミルクを濃縮したような風味を持つケッソには心当たりがなかった。


 二口、三口と食べ進めていくと、今度は甘さの中にほのかな酸味がつけられていることに気付いた。この爽やかな酸味はおそらくリモン(レモン)の果汁であろう。生地の中にリモンを合わせることで、ややもすれば重くなりがちな濃厚な風味の後味をさっぱりとさせていた。


 続いてソフィアは、コーヒーカップを手に取る。普段は砂糖をたっぷりと入れて甘さと苦みを堪能するのであるが、今日は店主の勧めの通りに最初の一口だけはそのまま頂くこととした。カップを口元に近づければ、コーヒーに入れられたシナモンの香りが鼻をくすぐる。一口目を口に含むと、珈琲独特の苦みと酸味、そしてシナモンが醸し出すほのかな甘さとわずかな辛味が広がる。もっと苦くて飲めないかと想像していたが、先にベイクドチーズケーキを食べていたせいかそれほど嫌には感じず、むしろ甘たるくなった口の中を新しくしてくれていた。これであれば確かに砂糖はいれなくてもいい……ソフィアは、店主の提案が的を得たものであったことを改めて実感した。


 ソフィアは、さらにケーキを食べ進める。 白いクリームソースをつければ、新鮮なミルクの風味が加わり、先ほどまでの濃厚さとは少し異なったミルキーな味わいとなる。付け合せのコーンブレッドに載せて一緒に頂けば、二度焼きされたコーンブレッドのパリッとした食感と香ばしさが加わり、また違った味わいを見せる。ソフィアは、初めてとなるその濃厚な味わいに深く感動する一方、最後の一切れをゆっくりと堪能しながら、思案を巡らせる。そして、最後の一口を食べ終えると、カウンターに向けて声をかけた。タクミがその声に応じてソフィアのいるテーブルに向かうと、ソフィアは情熱的なハグでタクミを出迎えた


「タクミさん、今日はありがとう! 本当に素晴らしい体験ができたわ!」


 思わぬ歓待にタクミは驚き、ドギマギしてしまう。お客様を突き放すわけにはいかず、いったんは受け入れるタクミだが、若干背筋が寒い気がするのはやむを得なかった。一拍の後、タクミはそっとソフィアから離れながら、お礼を告げた。


「お気に召していただけたようで、何よりです」


「これは、絶対売れるわ!ねぇ、もしよかったら私にもお手伝いさせてもらえないかしら?」


 ソフィアがそこまで申し出てくれることに素直にうれしさを感じたタクミだったが、この話の難しさを知る身としては、思わず苦い表情を見せざるを得なかった。


「本当に高い評価を頂きましてありがとうございます。ただ、量産して販売となると何かと難しいかと。まず、このケーキには新鮮なミルクから作った自家製のカッテージチーズを使っていますので、残念ながら常温では日持ちがしません。最近の気候だと、常温で置いておけば1日持たずに傷んでしまうことでしょう。こうして予めご予約いただいたお客様で、この場ですぐお召し上がり頂くであれば、あらかじめ時間を合わせて作ることも可能ですが、今の段階では予めご用意しておくことが難しいのです。それと、このチーズケーキ、正直申し上げて作るのに時間と手間がかかりまして、毎日となると喫茶店の営業そのものに響いてしまいそうなのです」


 ソフィアは、タクミの言葉を真剣な眼差しで聞き、一つ一つの整理しながら応える。


「わかったわ。課題は、日持ちをさせるための工夫、生産体制ってところね。他に気になることは無いかしら?」


 普段はあまりキッチン内の苦労を話さないタクミだったが、ソフィアの情熱的で真摯な眼差しに一つずつ丁寧に伝えていった。


「そうですね……、あと、材料の問題もございます。今回、こちらのケーキには米粉……、アロースを挽いて粉末にしたものを使っているのですが、ご存じのとおり生のアロースの実はとても硬く、石臼で挽くのに大変苦労してしまいました。それ以外にも、新鮮なミルクや卵なども必要です」


「なるほどね。でも、そのアロースの粉なら、ある程度の量がまとまるのであればなんとかなりそうね。人の手では大変でも、ほら、なんだっけ? 最近使われるようになったスチームエンジン?の力ならきっと簡単に作れるわ」


「え?アロースを粉にしてもらえるのですか?もしそれが頼めるのであれば、料理にも幅を広げることができるので大変助かるのですが……」


「ツテならあるから、一度聞いてみるわね。 もし上手くいきそうなら、駅長のオジサマを通じて連絡するわ。でも、まだ上手くいくかどうかわからないから、期待しすぎずに待っててね」


 何も問題がないというような感じでケラケラと明るく答えるソフィアに対し、タクミは、本当に感激で一杯になっていた。輸入品のみで非常に高価な小麦と異なり、地元産で安価な穀物であるアロースの粉が日常的に手に入るのであれば、今までよりもずっと作れるメニューの幅が増えるだろう。もちろん、小麦粉の完全な代用とはいかないだろうが、揚げ物の衣にも使えるだろうしし、これまで難しかった発酵パンにもチャレンジできるかもしれない。タクミは、早くもアロースの粉が手に入った後のことに思いを巡らせていた。


「うぉっほん、タクミくん、そろそろその手を放した方がいいかと思うが……、ソフィアさんもお困りだろうし、何よりもあちらさんからなかなかの鋭い視線が飛んできておるぞ」


 “駅長”からやんわりと注意を受けてようやく我に返ったタクミは、自分がソフィアさんの手をしっかりと握りしめていたことに気づき、慌てて手を放す。そして後ろを振り向くと……ネコ耳をピーンと立て、瞳孔を細めてじーっとこちらを見つめる同居人の姿が確認できた。これはヤバい。後からしっかり誤解を解かねば……。タクミは、背筋に伝わる冷や汗を感じながら、再び心を営業モードへと切り替えた。






◇  ◇  ◇






 その日の夕方、ソフィアは既に車中の人であった。一等車の柔らかなソファーに腰を深くうずめながら、『ツバメ』での貴重な体験を思い返してた。


(一番の問題は日持ちの部分だけど、アレが本当に実用化できれば、何とかなりそうね)


 ソフィアは、投資先の一人が取り組んでいる一つの研究課題を思い出していた。その研究とは“人工的に冷気を作りだし、氷を生み出すというもの。今はまだ本当に上手くいくかどうかわからないが、もしそれが本当に実現されれば人々の生活に革新的な変化をもたらすことは確実だろう。新進気鋭の女性銀行家(バンカー)であるソフィア・マリメイドは、将来生まれるであろう“新しいビジネス”の匂いをしっかりと嗅ぎ取っていた。


(それと、今度こちらに来ることがあったら、あの子も連れてきてあげなきゃね)


 ソフィアは、ナトルという最近実家にて働くようになった料理人の見習いの女の子のことを思い出していた。彼女からこのお店のことを聞かなければ、もしかしたらずっと『ツバメ』とは出会えないままだったかもしれない。わずか2時間の『ツバメ』への訪問のために、何とか捻出できた半日という貴重な時間を投じることにはなったが、その価値は十二分にあったとソフィアには確信できていた。


(しかし、まさかニャーチちゃんがタクミさんの奥さんだったとはねぇ。 独身だったら絶対モーションかけてたのに……、まぁ、いい男はそうそう売れ残ってないってことなのね)


 鋭い観察力と情熱的な行動力を武器に人と人の『縁』を繋ぐことでと実績を積み重ねてきたソフィアであったが、自分に対する『縁』まではなんともままならないものだなと痛感していた。それでも、いつかはそうした『縁』が自分に回ってくると信じ今は仕事に邁進しよう、車窓から見える夕日を眺めながら、ソフィアはそう心に誓ったのだった。

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