15 働く看板娘とささやかな晩餐
本日も当駅をご利用いただきまして誠にありがとうございました。本日の営業は終了いたしました。明日のウッドフォード行き一番列車は、朝9時の出発予定です。改札は、出発の10分前を予定しておりますので、ご乗車のお客様は、改札口横にございます待合室にてお待ちください。
―――なお、喫茶店『ツバメ』の営業は朝8時からとなっております。ドリンクのみのお客様もお気軽にお立ち寄りください。
「お掃除部隊、任務完了なのなっ! 今日も一日お疲れ様なのにゃーっ!」
日が傾き、少し薄暗くなった喫茶店『ツバメ』に、元気の良い声がこだまする。営業後のホール清掃を終えたニャーチが、キッチンを掃除しているタクミに向かって、担当業務の終了を報告した。キッチンにいるタクミが、ニャーチへ声を返す。
「はい、お疲れ様でした。じゃあ、もう少しで夕食の準備が出来るから、ちょっと待っててもらっていい?」
「あいあいさーなのなっ!あ、そうだ!今日もアレつくっていい?」
キッチンとホールを繋ぐ小窓から顔を出したニャーチが、ネコ耳をピクピクと揺らしながらタクミに言葉をかける。アレとは、最近ニャーチが気に入っているレモンシロップをエールで割ったカクテルのこと。タクミが“こちらの世界”に来る前に、夏場にたまに作って飲んでいたカクテルだ。ふと思い出してあり合せの材料で作ったところニャーチがすごく気に入り、ここ最近は夕食時の定番ドリンクとなっていた。
タクミは、ニャーチのおねだりするような視線に微笑みながらOKサインを出した。
「そう言うと思って、エールは裏の井戸で冷やしているから、それで二人分お願いね」
「わーいっ!じゃあ、早速取ってくるのにゃーっ!」
ニャーチはそういうや否や、タクミの脇を駆け抜けてキッチンの裏口から外へと飛び出していった。やれやれ…とタクミは思いつつも、ニャーチが喜んで飛び出ていくその様を見ていると、今日一日の疲れが癒されるように感じられた。
(さてと、今日の残り物はっと……。)
タクミは、ふぅ、と一息ついてから包丁を手に取り、いつものように二人分の夕食を用意を始めた。普段の夕食では、昼の喫茶店営業で余ったものを使うことが多い。タクミは、水桶につけていたサナオリアやセボーリャ、レポーリョをそれぞれ千切りに刻み、とうもろこし粉とアロースの粉をまんべんなくまぶす。そこに、溶き卵と皮を剥いてすりおろしたニャム、そして味付けの塩コショウを合わせ、全体がもったりとするまで十分に混ぜ合わせた。
次に用意したのは、豚肉の切れ端だ。今日のCランチのメインだったポークチョップ用の肉を用意する際に、整形のために切り落としものを取り置いていたもので、やや脂の多い部分が集まっている。タクミは、火をそのままにしておいたオーブンストーブの天板にコルザ油を薄く敷くと、豚肉の切れ端を
炒め始めた。ジューっという音とともに、豚肉から染み出た油が天板の上を踊るように跳ねる。頃合いを見計らって塩コショウで味付けをし、その上からかぶせるように先ほどの野菜の入った生地を載せ、蓋をかぶせた。
生地全体に火が入るのを待つ間に、手早くソース作りだ。タクミは、自家製のケチャップとマヨネーズ、さらに自家製のスパイスミックスを入れると、隠し味程度にリモーネの絞り汁を加えてから泡立て器でよく混ぜ合わせる。本当は一緒に“ソース”を入れたいところではあるが、“こちらの世界”では入手できないので仕方がない。タクミは、混ぜ合わせたソースをペロリと一舐めすると、塩コショウで味を調えてからもう一度混ぜ合わせた。
ソースを完成させたタクミは、再びオーブンストーブの前に戻り、天板の上にかぶせているフタを取った。中からモワっと湯気が溢れる。タクミは、生地の状態をよく観察しながら、縁がわずかに乾いてくる頃合いを見計らってヘラで生地を持ち上げ、器用にひっくり返す。形を整える程度に上から生地を抑え、しばらく焼き上げれば、今日の夕食のメインとなる特製お好み焼き・賄い風の完成だ。
「ごっしゅじーん! 飲み物ももう作っていいかにゃー?」
夕食の完成を嗅ぎつけたのか、いつしかキッチンへと戻ってきていたニャーチがタクミに声を掛けてくる。タクミは、よろしくーと一声で返事を返し、仕上げ作業に移る。木で出来た小さ目の器には、これもランチのあまりである千切ったレチューガの葉を敷いて、その上にパタータサラダを載せる。白いパタータサラダの横には彩としてスライスした真っ赤なトマトが添えられた。お好み焼きには先ほど作った特製のソースを塗ってから、平皿に盛り付けられる。スープカップには、アサリやハマグリに良く似た二枚貝であるアルメハを炊き込んだトマトスープを注ぐ。
スープに使っているのアルメハは家で大漁だったからと、ロランドが持って来てくれたものだ。一晩かけて砂出ししたアルメハを、刻んだセボーリャや風味づけのアッホとともにコルザ油で殻ごと炒めてから、水とトマトを入れて炊きこんでいる。ニャーチの合格がもらえれば、店でも出してみたいと考えている一品だった。
「出来上がりだよー。運ぶの手伝ってーっ」
盛り付けを終えたタクミは、ニャーチに声をかけて出来上がった料理を運ぶように頼む。タクミが調理器具の洗い物を済ませる間に、ニャーチが料理を運んでテーブルセッティングを済ませるのがいつもの段取りだ。もちろん“こちらの世界”には台所用の合成洗剤やスポンジといった便利なものは無いので、洗い物はもっぱら石鹸に頼ることになる。“こちらの世界”に来てから試行錯誤した結果、食器や調理器具を洗う際には削った石鹸を溶かしたお湯を洗剤代わりとしていた。
洗い物を済ませたタクミが手を拭きながらキッチン横の小さいテーブルに座ると、既に向かい側に着席していたニャーチが、待ちきれないとばかりに乾杯の音頭をとる。
「今日も一日おっつかっれさまなのにゃーっ! じゃあ、乾杯なのなーっ!」
「はい、今日もお疲れ様。かんぱーい!」
二人がグラスを合わせると、チーンと涼やかな音が鳴った。いつしか暗くなったキッチンの中は、テーブルに置かれたランプの炎が二人の周りを灯している。揺らめく炎の灯りの中で、ニャーチはお好み焼きを口いっぱいに頬張っている。タクミは、その様子を暖かく見守りながらニャーチが作ってくれたビアカクテルの杯を傾け、ゆっくりとその甘酸っぱい味わいを堪能していた。
◇ ◇ ◇
食事を終えたタクミは、一人キッチンに残っていた。明日の営業に向けた仕込みは夕食の前にあらかた済ませていたが、今日はもう一つ、明日の“ささやかな晩餐”に向けた準備を進めていた。
(もう3度目の誕生日なのですね……。)
タクミは、壁に貼ったカレンダーを見ながら一人呟く。タクミが“こちらの世界”に来たのは、二年と少し前の春のことだった。その日、巧は籍を入れたばかりの新妻である柚とともに、ささやかな新婚旅行の帰路についていた。一泊の日程で世界遺産にも登録された古い民家の立ち並ぶ集落や、最盛期を迎えていた大きな桜の老大木などを観光した後、地元へと帰る夕方の特急列車に乗り込んでいた。せっかくの新婚旅行だからと、車窓に定評があるこの特急列車の中でも最も眺望のよい先頭車両の先頭座席を確保していた二人だったが、旅の疲れですっかり寝入ってしまっていたのをタクミは覚えている。
そして、鉄道の心地の良い揺れと隣に座り自分に寄り掛かるユウの体温を感じながら夢と現の狭間を行ったり来たりしている時、そのゆったりとした時間を切り裂くように突然けたたましい汽笛の音が耳に飛び込んできた。はっきりとした記憶はそこで寸断され、その後は、しばらくの間暗闇の中を漂っていたかのような印象だけが残っている。
次に目が覚めたとき、タクミは列車の車中の人であった。しかし、先ほどまで乗っていた“先頭車両の先頭座席”ではないばかりか、その列車はとてもクラシックでシックな造りの、まだ新しい木造の車両だった。はっきりとしない頭を揺らしながらなんとか意識を目覚めさせたタクミは、すぐに隣に座っていた新妻を探す。タクミの隣の席は、記憶が途切れる前と同じように一人の女性が座っていた。その女性は自分と同世代である新妻のことを思えばまだ幼く、小学生の高学年か、せいぜい中学生ぐらいの年代と思われる。頭についている猫耳は一瞬作り物かと思ったが、よく観察すれば時折クルクルと動いており、本物の”耳”のようであった。
つい先ほどまで過ごしてきた“常識的な現実”とは異なる世界 ―― タクミは、今自分がいる現状をそう認識するしかなかった。しかし、タクミの心の中は不思議なほど落ち着いていた。なぜなら、タクミが今の現実を認識できる程度の“知識”と“感覚”が、なぜか頭の中の記憶として浮かんできていたからだ。昨日まで、いや、正確には今日の汽笛の音を聞くまでの“普段の日常の体験”の記憶が消えているわけではない。上書きではなく、追記されるように重ねられた記憶が、タクミに自身の現状を認識させる程度の落ち着きを与えていた。
そして、再びタクミは隣に座るネコ耳の生えた少女を見つめる。重なりあう記憶から、タクミはこの少女が間違いなく自分の新妻であるユウだと確信していた。タクミがユウであろうその少女の頬をそっとなでると、その少女が目を覚ました。少女は眠そうに目をこすりながら口を開く。
「にゃー?どうしたのにゃーっ?」
「いや、なんでもないよ。気分はどうだい?」
少女は、タクミの質問に視線を天井に向け、ネコ耳をくるんと回してしばらく考える仕草を見せる。そして、しばしの間を開けてから、こう答えた。
「んー、なんか、どっか遠くまで出かけてた気がするけど、よく覚えていないのにゃっ。ところでごしゅじん、なんか用なのかにゃ?」
幼さが残る言葉遣いに反応、そして自分のことを“ご主人”と呼ぶ口調 ―― その受け答えは“汽笛の前”の記憶の中にある“ユウ”とは重ならなかった。タクミは、記憶の重なりが“ユウ”と結びつけたもう一つの名前を使って、少女に呼びかける。
「いや、ニャーチとこの先どうやって過ごしていこうかな…って思ってね」
タクミの言葉に、ニャーチはきょとんとした表情で応える。
「にゅー?よく分かんないけど、とりあえず、ご主人と一緒にいるのは間違いないのなっ」
その言葉と表情から、ああ、二人で入ればきっと大丈夫だ、なぜかタクミはそう信じることが出来た。その後、駅に列車が着くまでの間、タクミはニャーチと会話を続ける。その中でおぼろげながら理解したことが3つあった。一つはタクミと同じように、ニャーチも“汽笛の前”の経験を記憶として持っていること、二つ目は、過去の記憶がはっきりしておらず“いつ覚えたかもわからないけど、なんとなく持っている”という程度のものであること。そして最後は、ニャーチは“ユウ”とは異なる”ニャーチ”という人格であることだった。
(まぁ、柚も昔から猫っぽいところがありましたから、根底は一緒なんでしょうけどね…。)
タクミは、オーブンストーブの天板の上に乗せた鍋をゆっくりとかき混ぜながら、クスリと思い出し笑いをもらす。鍋の中には、茹でたマイスの黄色い実をすり鉢ですりつぶしてから裏漉ししてクリーム状にしたものと生クリーム、バター、鶏ガラでとったスープを合わせたものが入っている。タクミはわずかに湯気が揺らめくこのスープの中に、さらに牛乳で伸ばしたアロースの粉を加えてかき混ぜ続ける。しばらくの間ゆっくり火を通すと、とろみの付いたコーンポタージュが完成していた。
(誕生日といえば、やっぱりコーンポタージュですよね。)
ニャーチは自身の誕生日を覚えていなかったので、タクミはユウの誕生日をニャーチの誕生日としていた。1年に一度廻ってくる大切な記念日、できるだけのお祝いをしてあげたいとタクミは願っていた。しかし、“こちらの世界”に来てから初めての誕生日は、駅舎を寝床に生きるのに必死であり、何もできなかった。2度目の誕生日を迎えた昨年は、喫茶店の営業を始めて間もない頃で忙しさが先に立ってしまっていたため、普段と同じように余り材料で作った賄いに白ワインを添えただけという簡単なものしか用意できなかった。
3度目の誕生日を迎える今年こそ、きちんと“誕生日のお祝いご飯”を用意してあげたい…タクミはそう考えていた。まだ子供だった頃から誕生日が来るたびに自分の親が用意してくれた特別な3つのメニュー、タクミにとってはこの献立こそが“誕生日のお祝い”に最もふさわしい献立であった。今日作っていたコーンポタージュは、その一角を占める“黄色くて甘い思い出の味”であった。
タクミは、コーンポタージュへの仕上げとして、別に取り分けて置いたマイスの実を入れる。そのまま、一煮立ちさせて温めてから鍋をオーブンストーブの天板から降ろし、出来上がったコーンポタージュをスープ皿へと移す。そして、そのまま一匙掬って味を確認。とうもろこし特有の甘い風味と、生クリームやバターをはじめとした乳製品のコクのある味わいが口いっぱいに広がる。
(暑い時期ですし、もう少しさっぱり目に仕上げたほうがよさそうですね。)
二口、三口と食べ進めて味の調整の方向性を確認したタクミは、おもむろにランチの時に炊いて残っていたアロースをコーンポタージュに投入する。コーンポタージュにご飯を入れるのはタクミの好物の一つなのだが、どうにも家族以外の周りにはいまいち評判がよろしくない。特に、結婚前のユウなどは、ご飯を入れたコーンポタージュを美味しそうに頬張るタクミを見て、信じられないといった表情を見せて引いていたのを思い出してしまっていた。
(まぁ、この時間にあんまり食べすぎると、またお腹がでてしまいますね……。)
気付けば時計の針は夜の10時を指し示していた。タクミは、ご飯入りのコーンポタージュを掻き込むと、改めて明日の晩餐に向けた下ごしらえを再開するのだった。
◇ ◇ ◇
「では、失礼いたしまーすっ! お疲れっしたーっ!」
「はい、お疲れ様でした。明日もよろしくお願いいたしますね」
翌日の夕刻前、ロランドが仕事を終えてキッチンを後にした。タクミは、ロランドに労をねぎらいつつ、普段よりは少しだけ手の込んだ“ささやかな晩餐”の準備を始めた。まず最初は、コーンポタージュからだ。とはいえ、コーンポタージュは喫茶店営業の合間を見計らって作ってあったので、あとは温めなおすだけである。タクミは、オーブンストーブの天板の上、弱火の部分にコーンポタージュの入った鍋のフタをしたまま置き、ゆっくりと加温し始めた。
続いてタクミは食料庫へ入り、氷を入れた冷蔵箱から一つの深さのあるバットを取り出す。その中には、とろみのついた液体に漬けこまれた鶏モモ肉が入っていた。鶏モモ肉が浸かっていた液体は、白ワインをベースに、サナオリアとセボーリャ、アッホとヘンヒブレをそれぞれ摩り下ろしたもの、それに塩コショウと、風味づけと隠し味としてウーバを長い時間かけて熟成して作られたビネガー ―― バルサミコ酢を合わせたもの。この特製のタレに一昼夜の間じっくりと漬け込まれた鶏モモ肉は、表面がわずかに白くなり、その旨みを肉の内部まで行き渡らせていた。
(あとは、コレですね……。)
タクミが鶏肉と合わせて用意したのは、アルマンドラの実を刻んだもの、これも昨晩のうちに用意しておいたものだ。アルマンドラは普段のお店用には燻製にしたもの仕入れているが、今日は、メイン料理用の材料として特別に火入れ前の生の実を分けてもらっていた。本当は薄くスライスして使う予定だったのだが、実際に包丁を入れてみると、残念ながらこの小さく硬いアルマンドラの実を薄くスライスすることはタクミには難しい作業であった。このため、タクミはアルマンドラの実を自分が可能な範囲でやや厚めにスライスした後、軽く刻んで細長い形にして使うこととしていた。
その他の材料や調味料も用意できたところで、いよいよ今日のメインディッシュづくりに取り掛かる。タクミは、タレに漬け込んでいた鶏モモ肉を取り出して、周りについた野菜のすり下ろしを手で軽く拭うと、ザルに空けてしばらく置いておく。肉に含まれる余分な水分を切って、美味しく仕上げるためだ。
しばらく肉を休ませておく間に、タクミはサラダの用意を進める。水桶に付けて置いた淡い緑のレチューガの葉は手で細かくちぎり、セボーリャは向こう側が透き通って見えるほどに薄くスライスした。夏の日差しをたっぷり浴びて濃緑に染まったペピーノをスライスすると、内側からは淡緑の爽やかな色合いが出てくる。最後に真っ赤に色づいたトマトを串切りにして、サラダの材料が全て揃った。
(さて、そろそろよさそうですね……。)
ザルに入れておいた鶏モモ肉の様子を確認したタクミは、再びメインディッシュづくりに戻る。タクミは、刻んだ生アルマンドラをボウルに入れると、そこにとうもろこし粉とアロース粉、さらにスパイスミックスを加えて全体をよくかき混ぜてなじませる。次いで、先ほど水気を切っておいた鶏モモ肉を別のボウルに入れると、塩、胡椒で味を調えてから、卵白を肉全体に絡める。そして、透明なとろみを絡ませた鶏モモ肉をアルマンドラ入りのボウルへ移し、ボウルの中で少し転がしてから手で軽く握るようにして鶏モモ肉にアルマンドラをつけていった。鶏肉にまぶされた卵白と、アルマンドラにまぶされた粉がそれぞれつなぎとなり、刻みアルマンドラが鶏肉の衣としてしっかりと纏われていく。タクミは、想いを込めるように一つずつ丁寧に優しく握り、衣付けを繰り返していった。
続いてタクミは、揚げ物用の鍋に新しいコルザ油をたっぷりと注ぎ、弱めの火に調整をしたロケットストーブの直火にかける。慎重に火の加減を調整しながらやや高めの適温にコルザ油を温めてから、アルマンドラの衣を纏わせた鶏モモ肉を油の中に入れていく。黄金色に煌めく油の中に肉が沈んでいき、シュワーという音とともに泡が立ち上った。
タクミは、菜箸で軽くころがしつつ、時折持ち上げながら鶏モモ肉を揚げていく。最初は小さく細かい泡がサーッと、しばらくすると、少し大きめの泡がパチパチと弾けていた。中の火の通り具合は、菜箸を通じて指に伝わる感触で慎重に感じ取っていく。そして、鶏肉の中の肉汁がしっかりと沸騰し、鶏肉の中が泡立つように震える感触を菜箸から感じ取ったところで、網を敷いたバットに揚がった鶏モモ肉を引き上げていった。出来上がった唐揚げはすこし濃い目のキツネ色に色づき、一緒に纏わせたアルマンドラもパリッと仕上がっていた。
(ふぅ、なんとか上手くいったようですね。)
タクミは、数度に分けて鶏肉を揚げていく。夕方になり幾分涼しくなったとはいえ、まだまだ暑い最中での作業、暑さで汗が噴き出てくるのは仕方がないことだ。タクミは、首にかけた布で汗を拭きとり、時折水分を口に含みながら、普段よりも少しだけ力の入った“晩餐”の準備を進めていった。
◇ ◇ ◇
「ふにゃっ? なんか今日のごはん、いつもよりもゴージャスなのなっ!」
駅舎と喫茶店の営業後の清掃を終え、いったん2階の居室へと戻っていたニャーチが、タクミの掛け声で喫茶店のホールへと降りてくる。そこには、白い布をかぶせ、きちんとセッティングされたテーブルに、普段の夕食よりも少しだけ豪華で、少しだけ丁寧に盛り付けられていた料理が用意されていた。
「お待たせしました。じゃあ、こちらへどうぞ」
タクミは、上座の席を引き、ニャーチに座るように促す。ニャーチは少し照れくさそうにしながら席に着くと、目の前に広がる美味しそうな料理に目を奪われる。ニャーチの手元には、淡緑色のレチューガと透き通った白いセボーリャスライスの上に、濃緑のペピーノと真っ赤なトマトが彩りよく盛り付けられたサラダと、濃い目のクリーム色のスープの中から鮮やかな黄色の実を覗かせているコーンポタージュが置かれている。テーブルの中央には、山のように盛り付けられたから揚げの皿が置かれている。
「にゃ?今日のから揚げ、なんか周りについているにゃ…?」
「うん、今日は“誕生日のから揚げ”だからね」
タクミはそう言いながら自分の席につく。正面に座るニャーチは小首を傾げて少しの間考え込み、そして、何かを思い出したように唐突に声を上げる。
「そうだった!今日はニャーチの誕生日だったのにゃっ!」
「ええ、だから、今日は『誕生日ごはん』にしたんだ」
タクミは、テーブルの脇においた木桶から一本のボトルを取り出して、コルク栓を抜く。ポンという気持ちの良い音がホールに響いた。周りの水滴を布で軽くふき取ってから、ニャーチの前にある細長いグラスに注いでいくと、淡い琥珀色の液体の中に、小さな泡がシュワシュワと立ち上っていった。タクミは、自分のグラスにもスパークリング・ワインを注ぎ、ニャーチに向けて杯を差し出す。
「ニャーチ、誕生日おめでとう、そして、いつもありがとう。これからもよろしくね」
ニャーチはタクミの真剣な眼差しに照れたように俯いた後、たどたどしく言葉を紡いだ。
「それよりも、か、乾杯なのなっ!!と、とにかく早く食べたいのなっ!!」
はいはい、とタクミは微笑みながら答え、中央のから揚げを取り分ける。ニャーチは、真っ先にから揚げをフォークで差すと、大きく口をあけて、一口で頬張る。アルマンドラにより普段よりもカリカリと香ばしく仕上がった衣、その中から熱い肉汁が飛び出てくる。ニャーチは思わず上を向き、熱を逃がすかのようにハフハフと息を上げる。
「アツアツだったのにゃっ! でも、カリカリジュワーでおいしいのなっ!」
ニャーチが喜ぶ様をみて、タクミはホッと一息つく。来年もまた、この献立が用意できるように頑張ろう…タクミは、心に誓いながら、自分も唐揚げに手を伸ばすのだった。
その夜、タクミは、寝室にある机の前に座り、一人外を見ながら杯を傾けていた。窓の外はすっかり夜の帳が訪れており、多くの星々が天空にて瞬いている。“こちらの世界”に来る前には見たことが無い夜空であった。“こちらの世界”に来てからは既に2年以上の月日が流れ、この夜空もすっかり見慣れたものであったが、それでも、灯りに照らされた明るくにぎやかな夜が繰り返されていた場所のことも懐かしく思う時がある。
元の場所に戻りたいのか、このままでいたいのか…タクミにも自分の気持ちがよく分かっていない。しかし、こうして傍らにはニャーチがいて、ユウがいる。そのことだけでも十分幸せなのだろう。タクミはテーブルの上にグラスを置いてベッドへと移り、腰をかける。いつもより少し多くお酒を飲んですっかりご機嫌となっていたニャーチが、寝息を立てていた。タクミは、そっとニャーチの頭に手を置き、髪をなでる。
(いつもありがとうね。)
どこからか、ユウの声が聞こえた気がした。タクミは周りを見渡すが、誰かいるわけではない。ニャーチも変わらない様子で静かに眠っていた。タクミは、こちらこそ、これからもよろしくね、と思いを込めながらニャーチの頭をもう一度撫でる。ニャーチは、嬉しそうな表情を見せながらタクミの手をつかみ…口元へその手を運んで齧り始めた。
「………えーと、それはごはんじゃないですよ…」
タクミは苦笑いしながら、そっと手をひっこめた。そして、一度ニャーチの頬に自分の顔を寄せてから、テーブルの片づけを始めるのだった。




