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43 憧れの歌姫とわがままなリクエスト(3/3パート)

※前パートからの続きです

 翌日、タクミは普段よりも早く起きて、『オブヴァジャネック』から着想を得たある料理の試作に取り掛かっていた。

 キッチンテーブルの上にはアロース(コメ)粉と精製した白いマイス(コーン)スターチと、砂糖、牛乳、卵が並べられている。


 そしてもう一つ、タクミは食料庫から一つの瓶を運んできていた。

 その中に入っているのは泡だったクリーム状のもの ―― パン生地づくり用の元種だ。

 これは、昨晩のうちにパン職人であるサルバドールに分けてもらったものである。

 タクミは、無理を聞いてくれたサルバドールに改めて心の中で感謝を捧げつつ、調理に取り掛かった。

 

(さて、確か生地は砂糖多めのパン生地と同じようなもので良かったはずですね)


 ボウルの中にアロース粉とマイススターチを入れ、そこにたっぷりの砂糖も加えてよく混ぜ合わせる。

 続いて別のボウルに玉子と牛乳をいれこちらも丁寧にかき混ぜてから、粉の中に少量ずつ合わせていった。

 卵液を少し加えて優しくなでるように合わせていくと、粉がポロポロとした小さなお団子状へと変化をしていく。

 ある程度全体に水分が行きわたったところで元種を入れ、さらに卵液を加えながらよく練り合わせていった。

 すると、先ほどの間での団子が大きくなり、やがて一つの大きな生地にまとめられる。

 表面に艶がでて、手でもつと少し流れ出すぐらいの硬さが、ちょうど良い水加減のしるしだ。

 しばらくの間まとめた生地を捏ね合わせていたタクミは、ボウルの中に生地を戻すと、水を含ませてから硬くしぼったきれいな白布を生地に被せ、食料庫へと運んでいった。


(これで夕方には生地が出来ているはずですね。楽しみです)


 タクミがキッチンへと戻ってくると、柱時計がボーンボーンと七つ鐘を鳴らしている。

 普段どおり『ツバメ』の営業準備に取り掛かる時間だ。

 タクミがガスコンロとともに新設された水場の蛇口をひねって手をすすいでいると、勝手口の扉がギギーッっと開く。

 その気配にタクミが顔を上げると、そこにはテオの姿があった。


「タクミさん、おはようございますっ! 早速ですけど、シレーナさんの件、俺にも何かできないですか?」


「どうしました? こういう話題に首を突っ込んでくるなんて珍しいですね」


 出勤するや否や、テオがタクミに声をかけてくる。

 駅舎のメンバーにはシレーナの事情をそれとなく伝えているが、それと同時にタクミから箝口令が出されている。

 万が一にでも公演が中止になる可能性が漏れてしまえば、大騒ぎになってしまうことが明白だったからだ。


 もちろん、テオもそのことは十分に理解しているはずである。

 にもかかわらず、わざわざ朝早くに出勤してまで話を出すというのは、よほど何か思うことがあるのであろう。

 タクミは、準備の手を進めながら、テオの話に耳を傾けた。


「うーん、シレーナさんの話がどうも他人事には思えなくて。いや、俺も故郷を離れて一人でこの街にやって来たじゃないですか。最初は何とかなるって思ってたんですけど、やっぱりしばらくしてキツイ時期があったんですよね」


「ふむ、最初の頃はあまりやる気が見られなかったので、仕事に打ち込めていないだけかと思っていました」


「やめてくださいよー。確かにその頃はちょっとやさぐれてましたけど、今はしっかりやってますからー」


 トゲを含んだタクミの言葉に思わず口をとがらせるテオ。

 しかし、当時のことを考えれば事実としかいえないので、強くは反論できない。

 その態度にくすっと微笑みながら、タクミが言葉を続けた。


「ええ、見違えるようになりましたよね。それはさておき、かつての自分にも重なるところがあるので、シレーナさんを励ましたいという訳ですね」


「そうですそうです! で、昨晩いろいろ考えたんですけど、歌い手のシレーナさんに贈るのなら喉にいいものが良いかなって思ったんすよ」


「それは喜んでもらえそうですね。そうなると、何を用意するつもりですか?」


「えーっと……、そこから先は、ぜひタクミさんのお知恵をお借りしたいなぁって」


 テオはそう言うと、舌をペロッと出して首をすくめる。

 これにはタクミも思わず苦笑いだ。


「そこはもう少し頑張ってほしいところでしたねぇ。まぁ、いいでしょう。一つ思いついたものがありますので、今日の駅務の後、一緒にやりましょう」


「さすがタクミさんです! ご指導よろしくお願いいたしますっ!」


「はいはい。では、駅務の方もしっかりとお願いいたしますね」


「はーいっ! じゃ、早速始業前の準備、行ってきますっ!」


 テオはそういうと、勝手口を飛び出していく。

 その後ろ姿に少しばかり視線を送っていたタクミは、再び『ツバメ』の営業準備にとりかかった。




―――――




 その日の夜、営業を終えた喫茶店『ツバメ』のキッチンには、タクミとテオ、それにルナの姿があった。

 タクミから借りた真新しいエプロンを身にまとったテオは、妙にやる気を見せている。


「どうです!? エプロン姿も似合いますかっ?」


「うーん、なんかテオさんがエプロンしているとっ、すっごく違和感が……」


「そうですねぇ。どうにも着せられている感がありますねぇ」


「そ、そんなぁ……」


 ルナとタクミから容赦のない言葉を浴びせられ、質問するまで自信満々だったテオが残念そうに眉間に皺をよせる。

 その様子に、タクミがくすっと微笑みながら声をかけた。


「では、先ほど教えた手順でやってみてください。決して難しいものではありませんが、火加減やタイミングが勝負となります。しっかりと集中して、頑張ってください」


「私もお手伝いしますので、一緒に頑張りましょうっ!」


「うん、ルナちゃん、ご指導よろしくお願いね」


 テオはそういうと、ルナと一緒に材料を運びながらガス台の方へと向かっていった。

 今朝の相談に対し、料理をほとんどやったことが無いテオであっても、丁寧に作業をすれば失敗なく作れそうなものをタクミは教えていた。

 さらに、料理経験が豊かなルナもサポートに回ってもらっている。

 何回かは失敗してしまうかもしれないが、それでもかまわない。

 テオが言い出した話しである以上は、彼自身が作った方がより思いが伝わるであろうという、タクミの考えであった。


(さて、こちらも始めますか)


 タクミは二人の様子を気にかけつつも、自分も作業にとりかかった。

 食材庫から取り出しておいたボウルの中を覗くと、元種に含まれている酵母の作用により、生地は大きく膨らんでいた。

 その生地をピンポン玉よりもやや大きなサイズにとりわけ、膨らんだ気泡を潰さないようにそっと軽くまとめていく。

 そしてまとめた生地を今度は棒状に伸ばし、軽く生地全体を捻りながらその両端をペタッとくっつけた。

 リング状になった生地は、予め切り分けておいた油紙に一つずつ並べていく。

 そして並べ終えた生地には硬く絞った白布がかぶせられ、しばしの休息となった。


「さて、そちらはどうですか?」


「うーん、まずは一番少ない量でやってみてはいますが、正直難しいです!」


 悪戦苦闘するテオが思わず嘆きの言葉をこぼした。

 一方のルナは、見守っていた状況をタクミに報告する。


「一回目はすぐ焦げちゃいましたっ。ちょっと火が強すぎたみたいですっ。今、二回目に調整してますけど、これでは火が弱いでしょうか?」


 ルナの言葉を受けてタクミが鍋の中の様子を確認する。

 その中では、茶色に染まった液体がフツフツと泡をたてていた。

 近くに置いておいたスプーンで僅かに掬って鍋の中に落とすと、ツーッと糸を引くように液体が流れ落ちる。

 どうやら火が弱く、煮詰めが足りないようだ。


「そうですね。もう少し火を強くしても大丈夫かと。ただ、その分焦げやすくなるので注意してくださいね」


「はいっ! じゃあ、ちょい強めでやってみます!」


 元気よく声を返したテオは、ガスコンロのコックを捻って火力をほんのわずかに強める。

 鍋の中のフツフツがいっそう激しくなり、甘い香りが一面に広がってきた。

 その様子にタクミは頷くと、テオの隣に並んで自身の調理の準備を始めた。


「では、こちら失礼しますね。油を使いますので気を付けてください。ルナちゃんも、少し離れたところから見ててくださいね」


「はーいっ」


 ルナの返事を確認したタクミは、テオが使っているのとは反対側の端にあるガスコンロに鋳物でできた中サイズの深鍋を用意し、その中にコルザ(菜種)油をトポトポと入れた。

 そして長マッチを使ってガスコンロに点火し、中火よりやや強めの火で油を温める。

 その間に別にフライパンを用意し、その中には砂糖をたっぷりと入れた。

 すると、フライパンの中を覗いたテオが驚きを混じらせた声を上げる。


「あれっ? タクミさんも同じもの作るんですか?」


「いえいえ、これは別物です。上がけに使う分ですよ」


「そうですか。いや、材料一緒なんでびっくりしました」


「ええ。というよりも、これが念頭にあったのでそちらのが思いついたと言った方が正しいでしょうか? ところで、そろそろいい頃合いですよ」


「うおっと! 作業戻ります!」


 慌てて自分の作業に戻ったテオは、泡がフツフツとする鍋を手にしてガス台脇の作業台に向かう。

 それを横目に見ながら、タクミが油鍋の中に菜箸を入れると、箸の先から小さな泡が立ってきた。

 そろそろ油の温度が頃合いになってきているようだ。

 タクミは、キッチンテーブルの上で休ませておいた生地をトレイの上に並べてガス台の前まで運ぶと、そのうちの数個をそっと手に取り、油紙が上になるようひっくり返しながら油鍋の中に入れた。


 鍋の中から小さな泡がシュワーっと音を奏で、生地がぷくーっとふくれていく。

 リング状になった生地の中心の穴が徐々に小さくなっていった。

 しばらくすると油紙が自然と剥がれ、生地の表面も少しずつ色を変化させ始める。

 菜箸でリング状の生地をひっくり返しながら上げていき、両面が淡いきつね色になった頃合いを見計らって用意しておいたバットの上にいったん引き上げた。

 そして、浅鍋の中でゆっくりと溶かされた砂糖の中に揚がった生地の片面を浸し、裏返しにしてバットに並べていく。

 生地が重なってしまうとくっついてしまうため、十分にスペースを持たせて並べるのがポイントだ。

 

「んー、甘い香りで美味しそうですっ! それにコロンとしててとってもかわいいですねっ。ブレッド生地を揚げると、こんなふうになるんですねっ」

 

 いつのまにかこちらの作業を見入っていたルナが、感想をこぼす。

 

「これはドーナツというものですよ。これは試作品ですので、みんなで一緒に食べましょう」


「んじゃ、早速飲み物用意するのにゃーっ!」


「わっ! びっくりさせないでくださいよーっ!」


 どこからともなく現れたニャーチの声に、テオが鍋を落としそうになる。

 しかし、ニャーチは我関することなく、朗らかに話し始めた。


「お片付け部隊終わったし、おいしそうな匂いがしたからこっちに来ただけなのにゃっ。テオくんの方からもおいしそうな気配がするにゃー。 よし、頂きなのなーっ!」


「あーっ、だめですって! それはシレーナさんの分ですし、まだ冷めてませんからーっ!」


「むー、仕方がないのな。じゃあ、後でニャーチの分とルナちゃんの分もつくってもらうのなっ! ねー、ルナちゃんも食べたいよねー」


「はいっ。せっかくなので私も欲しいですーっ」


「わ、わかりましたからっ! 後でお二人の分も作りますって!」


「たくさん練習できそうで、良かったですね。頑張ってください」


 慌てふためくテオを、タクミはただ優しく見守っていた。




-----




「ったく、なんでこんなにまたこんなところに来なきゃいけないのよっ!」


 その翌日、モーニング営業で賑わう喫茶店『ツバメ』の二階の個室に、再びシレーナがやってきた。

 前回とは違い、今朝はエルナンドのみが同席している。

 口をとがらせるシレーナに対し、エルナンドが優しく話しかける。


「まぁ、宿にいてもあの者たちと一緒では気詰まりだろう? それに、何でもここの店のマスターであるタクミ殿が、シレーナ殿にぜひ食べて欲しいというものを用意しているらしいぞ」


「だから、私は食べないって言ってるじゃない。それとも、『本物のオブヴァジャネック』でも出来たの?」


「うーむ、私も何かは聞かされていないのだが……」


 エルナンドが声を返そうとしたところに、部屋の扉がコンコンコンと三回ノックされた。

 どうぞ、とそのまま声をかけると、タクミがトレイを片手に部屋の中へと入ってきた。


「失礼いたします。本日の特別メニューをお持ちさせて頂きました。こちらのシナモン・コーヒーはお好みでこちらの砂糖を入れてお召し上がりください」


 丁寧な動作で給仕するタクミ。

 カップの中では、琥珀色が魅惑的なシナモン・コーヒーが湯気を立ち上らせている。

 そして、皿の上には、丸いリング状になった狐色のパンのようなものが2つ載せられている。

 香ばしく甘い香りを放つそのリングパンは、見た目だけで言えば『オブヴァジャネック』と良く似ていた。


「ふーん、これが『本物のオブヴァジャネック』ということ? でも、これは焼かずに揚げてあるよね……」


「エルナンド様からお伺いしたところ、オブヴァジャネックというブレッドは茹でてから焼き上げるそうですね。ただ、私の腕ではその作り方をすることが難しかったので、今日はドーナツ仕立て、生地を揚げる方法で作らせて頂きました」


「なるほど、例えるなら『揚げオブヴァジャネック』ということか。どれ、“本物”かどうか、早速試してみようではないか。シレーナ殿も召し上がってみるといい」


「え、ええ……」


 『オブヴァジャネック』と言われてしまっては試さざるを得ない。

 どうせ紛い物に決まっている、と思いつつもシレーナは渋々『揚げオブヴァジャネック』を手に取った。


「ふーん、上にかかっているのはお砂糖を溶かしたものかしら。でも、どうせマイス粉かソハ粉のものなんでしょ……んっ!?」


 シレーナはブツブツと独り言をつぶやきながら、ふっくらとした生地を一口大に小さく千切り、口へと放り込む。

 砂糖がたっぷりと入っているようで、上がけだけではなく生地自体にもしっかりと甘さが行きわたっている。

 しかし、その生地の中にはマイスの香ばしさやソハの独特の香りは一切感じられない。

 癖のないその風味は、確かに小麦粉を使った『本物のオブヴァジャネック』を彷彿とさせるものであった。


「えっ!? まさかっ!? 本当に……!? 」


 シレーナが慌てて断面を覗き込むと、狐色に香ばしく仕上がった表面の内側に、ほんの僅かだけ黄色みがかった白い断面が顔を覗かせていた。

 マイス粉で作ればもっと黄色くなるし、ソハ粉を主材料とすれば風味の癖が強くなりすぎる。

 この断面を見る限りでは、『小麦粉』を使ったとしか思えない仕上がりだ。


 しかし、気になることもある。

 それは、記憶にある『本物のオブヴァジャネック』との食感の違いだ。

 外側はカリッと香ばしく揚がっているが、それにしても少々硬すぎるきらいがある。

 内側は気泡がたくさんでふわっと仕上がっているが、それにしては粘りが強く、少し生地がべたっとし過ぎているようにも感じられる。


 シレーナは、その疑問の答えを探るようにドーナツを食べ進めていく。

 すると、エルナンドが声をかけてきた。


「これは随分と気に入ったみたいだな。あっという間に一つ食べ終えているではないか」


「えっ!? あ、こ、これは……、その……」


 答えさがしをしているうちに、独特の甘さと香ばしさを兼ね備えたこの『揚げオブヴァジャネック』の味わいにすっかり魅了され、一つ目を食べきってしまったようだ。


 もうこれ以上食べては……、頭の中ではそう思うシレーナだが、一度身体が気に入ってしまった味を我慢することは難しい。

 その時、一つのいい訳が頭の中に浮かんできた。


「確かにマイス粉やソハ粉を使ったものとは違うようですわね。でも、本当に『ホンモノ』かどうか、もう少し食べなきゃ分かりませんわ!」


「うむ、どんどん食べるがよかろう」


 口角を持ち上げるエルナンドをキッと睨み付け、シレーナが二つ目の『揚げオブヴァジャネック』を口へと運ぶ。

 上掛けされている砂糖のシロップは、シャリシャリと楽しげな音を奏でている。

 甘くなったところにシナモン・コーヒーを含めば、口の中がさっぱりとリセットされるようだ。


 それにしても、不思議な生地だ。

 茹でてから焼いて仕上げるものと違い、カリッと香ばしく仕上がっているのは分かる。

 砂糖がたっぷりと入っているため、素朴なブレッドの味わいと大きな差が出るのも理解の範疇だ。

 しかし、それを差し引いても生地の口当たりだけが随分異なる。

 マイス粉やソハ粉の風味とは異なるものの、だからといって『小麦粉で出来た本物』とまで確信を得ることはできない。


 しかし、そんな疑問も、懐かしい甘さの前にはどうでもよくなってくる。

 やがて、二つ目の『揚げオブヴァジャネック』もきれいに完食してしまった。


「今日は随分食欲が出てるみたいだな」


「ええ。なんか、懐かしい感じがしますわ。焼いたオブヴァジャネックとは違いますけど、小さい頃、オブヴァジャネックを作る時に余った生地をこうして揚げて、お砂糖をまぶして食べさせてもらったのを思い出しますわ」


 シレーナが部屋の隅で控えていたタクミに感謝の言葉を捧げると、タクミもまた、一礼を持ってそれに応える。

 

「それは何よりです。オブヴァジャネックの作り方をお伺いしたときに、もしかして……と思いまして。お口に合いましたら何よりです」


「ありがとう。おかげで少し落ち着きましたわ」


 甘いものを食べて少しほっとしたのか、シレーナは穏やかな表情を見せていた。

 そして、最後の一つを手に取ると、ぱくっとかぶり付く。


「うん、なんか少し元気が出たようですわ。ところで、これって『小麦粉』で出来てるのです?」

 

 シレーナの疑問に、タクミはゆっくりと首を横に振ってから答えを明かした。


「いえ、これは『小麦粉』ではありません。その代りにアロース(コメ)を粉にしたものと、精製したマイス(コーン)の粉、マイススターチを使っております」


「えっ? これが、アロースですって?」


 その答えは、シレーナを驚かせるのに十分なものであった。

 アロースと言えば粒のまま茹でて食べるもの、少なくともシレーナが生まれ育った場所ではそれが常識である。

 そのアロースを粉にしてブレッドにしているなど、彼女にとっては全く思いもよらぬことであった。


「ちょうど一年と少し前ぐらいでしょうか? 『小麦粉』が無くて苦労している時に、アロースを粉にしたものを使ったらどうかという助言を頂きまして、それ以来便利に使わせて頂いております。小麦粉と全く同じとは参りませんが、ある程度似たように使うことはできております」


「へー、それは素晴らしいわ。これは故郷に帰ったらみんなに教えなきゃ! そうね、この素晴らしさを伝えるには、やっぱり『歌』が必要ね!」


 シレーナはそういうと、口の中で歌を口ずさみ始めた。

 小声ながらも透き通るその声は、聞いた者を全て魅了するというのも良く分かる。

 しばらくその歌声に耳を傾けていたタクミに、エルナンドが話しかけたきた。


「どうやら、この分なら彼女もこのまま元気を取り戻してくれるであろう。いや、今回も本当に助かった。感謝いたす」


「いえいえ、故郷から遠く離れることの辛さは私も感じておりますので、少しでもお力になれたのなら幸いです。そうそう、今日はもう一つシレーナさんにプレゼントがあったのです」


「えっ? まだ何かあるのです?」


 すっかり機嫌を取り戻した様子のシレーナが、声を弾ませながらタクミの方を振り向いた。

 するとタクミは、扉の外で待たせていたテオを部屋の中へと招き入る。

 部屋に入るのが早いか、シレーナの前に立ったテオは、大きく頭を下げて、一つの瓶を差し出した。


「これ、俺が頑張って作りました! これを舐めて、大事な喉を労わってもらえればうれしいです!」


 瓶の中には、小さな油紙で包まれた何か塊のようなものが入っている。

 シレーナは、それをしげしげと見つめてから、テオに微笑みかけた。


「ありがとう。 でも、これは何かしら? 早速一つ頂いてもいい?」


「もちろんです! あ、こっちに同じものを用意しておきましたっ!」


 テオはそう言うと、瓶に入っているものと同じ小さな紙の包みを一つ渡す。

 包みを解くと、中から現れたのは琥珀色をした透明の小さな楕円形の塊だった。

 しばらくそれを観察したシレーナは、その正体を理解してぽいっと口に運ぶ。


「んーっ。これはカラメロ(べっこう飴)ね! 甘くて、ちょっとだけ酸っぱくて、でも風味豊かでとっても美味しいわ!」


「喜んでもらえてうれしいです! 濃く煮出した紅茶と、リモン(レモン)の果汁と、あとヘンヒブレ(しょうが)のしぼり汁を入れてます。 こうすると喉にいいってタクミさんに教わりました」


「そう! ありがとう! とってもうれしいわ!!」


 シレーナはそういうと、テオに近寄り、頬を近づけて軽くハグをする。

 その突然の出来事に、テオは顔を真っ赤にして硬直してしまった。


 顔を赤らめ表情を緩めるテオをよそに、タクミがシレーナに言葉をかける。


「もしこちらに滞在中、故郷が恋しくなりましたらぜひまたお声掛けください。先ほどのドーナツでよろしければいつでもご用意させて頂きます」


「ありがとう、ぜひそうさせて頂くわ。その時は、 娘も一緒に連れてきて構わないかしら?」


「もちろんです。ぜひご家族揃ってお越しください」


 タクミが一礼を持って応えている横で、今度はきょとんとした表情を見せるテオ。

 その表情に何か察したのか、エルナンドがこっそり耳打ちをしてきた。


「ああ、あまり公表はしていないが、シレーナ殿は既婚者だから、邪なことを考えぬようにな」


「そ、そんな下心なんて……はははぁ……」


 あわよくばと思っていたとは口にも出せず、ただ、頭を掻いてごまかすしかないテオであった。


 お読みいただきましてありがとうございました。

 ラストパートは少々長めになりました。


 ちなみに、1点補足です。

 “こちらの世界”のアロース(コメ)粉は、“駅長”のアドバイスでタクミが発案したものという位置づけです(第5話参照)。

 したがって、海外から来たシレーナはアロースの存在は知っていても粉にして使うというのは知らなかったという訳ですね。

 小麦と違って粒が非常に硬いので、世界的に見ても粒食文化が一般的なようです。


 それにしてもテオくんは残念でした(笑)


 さて、次回も「8の日」の定期更新を予定しております。

 引き続きご笑読いただけますようよろしくお願い申し上げます。


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