43 憧れの歌姫とわがままなリクエスト(2/3パート)
※第1パートから続きです
「しかし、ご指名というのもすごいですねぇ。どうせなら昼間に来てくれればもっと話題になったんでしょうけど……」
キッチンの片隅で業務日報を書いていたテオが、首をくるくると回しながら誰となく声をかける。
すると、お客様用の料理を作っていたタクミが、その声に答えた。
「ご予約そのものは昨日のうちに頂いていたのですが、お忍びでというお話でしたからね。テオさんも外で話してはいけませんよ」
「わかってますって。あー、でも、一目だけでもお会いしてみたかったなー」
「ちょっと今まであったことがないような、すんごい美人さんっしたよ!」
「そうそう、ホント、もう目が釘付けになるぐらい、思わずうっとりするような美人の方でした!」
「うにゅ? それはニャーチやルナは、美人じゃないって言ってるってことなのなっ?」
「えーっ、ロランドお兄ちゃんもフィデルさんもひどいですーっ!」
「「い、いやいや、そ、そういうことじゃ……」」
女性陣から責められ、少年二人が慌てて首を横に振る。
すると、ニャーチとルナが顔を見合わせて、クスクスと笑い始めた。
「冗談ですって。 私はそこの窓からちらっとお見かけしただけですけど、本当に素敵な方ですよね」
「そうなのなっ! 美人さんは誰から見ても美人さんなのなっ!」
「はぁ、皆さんうらやましいですねぇ。この中だとシレーナさんのご尊顔を拝していないのは自分だけですよー」
机の上につっぷしながら思わず愚痴をこぼすテオ。
そんなテオを見かねたのか、タクミが声をかける。
「まぁ、お帰りの際に一緒にお見送りしていただければお目にかかれると思いますよ。ただ、それまでにちゃんとそれを終わらせてないと、並ばせませんからね」
「っと、そういうことなら急いで仕上げますっ!」
タクミの言葉に俄然やる気を出したテオが、背筋を伸ばして目の前の書類に取り組んでいく。
その現金な態度に思わず苦笑いを浮かべながら、タクミもまた再び料理へと取り組み始めた。
タクミが用意しているのは本日のメインの品である『トマトとツナの冷たいパト』だ
茹で上げてから水で冷やした細いパトに、先日作っておいたボニートの油漬けをほぐしたものと細かめの角切りにしたトマト、そして細かく刻んだレチューガやペピーノを加え、ボニートを漬けこんだオリバ油や塩、こしょう、白ワインから作ったビネガーなどで和えている。
蒸し暑いこの時期でもさっぱりと食べられるものをというリクエストに応じて用意した一品だ。
その横でロランドが用意しているのは、付け合わせとなるパタータのサラダ。
パタータの中には、薄切りにして水にさらしたセボーリャや、みじん切りにしたサナオリアがちりばめられている。
自家製のマヨネーズに加えてカレー用のスパイスミックスも合わせることで、ピリッとした辛味と豊かな香りを加え、いっそう食欲を沸き立たせるよう工夫がされていた。
スープ用のカップを手にしたルナは、氷水を張ったボウルの中で冷やされている淡い緑色をしたクリームスープを注いでいる。
タクミが『エダマメのビシソワーズ』と呼ぶこのスープは、この時期にとれるソハの若豆をペピーノやセボーリャとともに鶏ガラのスープで柔らかくなるまで茹でてから裏ごしし、生クリームや牛乳、塩コショウで味を調えたうえ、氷水で冷やしたもの。
今しか採れないソハの若豆の爽やかなおいしさを存分に堪能できる、『ツバメ』でも人気のスープだ。
予定の3品を用意したタクミは、一足先にホールの片づけを始めていたニャーチに声をかける。
「おーい、料理できたから運ぶの手伝ってー」
「はいにゃーっ! でも、もうひとりお手伝いしてくれる人がほしいのにゃーっ」
「あ、じゃあ俺が……」
「テオくんよりも、かわいいルナちゃんのほうがいいのなっ! お願いできるのなっ?」
「あ、はーいっ! お手伝いしまーすっ!」
申し出をあっさり却下されたテオは、バツが悪そうな表情を見せながら、上げかけていた手をそーっと引っ込める。
ロランドとフィデルの二人は、その様子を生温かい視線で見守っていた。
―――――
「失礼いたします。お食事はお済みでしょうか? よろしければデザートとお飲み物をお持ちいたしますが……」
しばらくの後、二階の個室へと上がってきたタクミが、お客様へと声をかける。
部屋の中では、ひと際目を引く美しい女性 ―― 『褐色の歌姫』シレーナが上座に腰をかけていた。
その向かいには、先日この店にやってきた『ヴィオレッタ号』の二等航海士である青年エルナンドが座っている。
二人の隣に座る壮年の男女を合わせ、四人がテーブルを囲んでいた。
四人の前に並べられた料理の皿は、すっかり空っぽとなっている。
しかし、シレーナの前の皿だけは例外だ。
冷たいスープこそ半分ほど減ってはいるが、パタータサラダや冷製パトはどちらもほとんど残っている状態であった。
タクミの呼びかけに、エルナンドが眉をハの字にしながら頭を下げる。
「タクミ殿、無理を言った割にこのような形で申し訳ない。やはり彼女の食はあまり進まないようだ……」
「だから私は何も食べたくないって言ったのですわ」
「しかし、このままでは公演まで体力が持たぬぞ……」
「そうですよ。みんながあなたの歌声を待っているのですわよ」
「そんなこと言ったって、食べられないものは仕方ないじゃないですか! 私だって、何とかしたいと思ってるのですわ!」
「まぁまぁ、そういきり立たず。いや、タクミ殿、本当に申し訳ない」
「いえ、こちらこそ力不足で申し訳ございません」
再び頭を下ようとするエルナンドを制止し、タクミも頭を下げた。
今日の料理は、エルナンドの依頼により用意されたものだ。
初めての船旅は、シレーナにとって想像以上の負担であったらしい。
出航したころは若々しさあふれる元気いっぱいの様子を見せていたシレーナだったが、外洋の波に揺られている間にみるみると生気が失われ、何度となくひどい吐き気に襲われていたようだ。
それでもシレーナは、一緒に乗船したお客様に喜んでもらおうと、その『神に愛されし歌声』を気丈に響かせる。
しかし、無理を押して歌い続けた結果、気力をすっかり使い果たしたシレーナは、ハーパータウンの港に到着してから倒れこむように寝込んでしまい、すっかりホテルの部屋に閉じこもってしまっていた。
元々、港についてからしばらくは休息期間と考えていたものの、一週間以上たってもシレーナは一向に回復する様子を見せない。
特に深刻なのが、食欲が一向に戻らないということであった。
シレーナが船を降りてからというもの、普段の半分以下の量しか食べることができない状態が続いている。
船医にも診てもらったが、長旅による疲労以外には大きく原因になるようなことは見当たらないようだ。
とはいえ、このままでは体力はどんどんと落ちてしまい、公演に影響が出かねない。
舞台監督を務めるシレーナの父親が、母親とともに航海中に世話になっていたエルナンドへ相談を持ち掛けたところ、彼が手配したのがこの『ツバメ』での食事であった。
この話を事前に聞いていたタクミは、暑い時期でも食べやすく、しかも食欲を掻き立てるような工夫を凝らしたメニューを用意していた。
しかし、このテーブルの様子をみれば、これらの3品も彼女にとっては喉を通しづらいものであったことは一目瞭然である。
他の人の皿を見れば、どうやら味わいそのものに問題があるわけではなさそうだ。
そうすると、やはり彼女の体調か、それとも……。
タクミがそう思案していると、明らかにいらだった様子を見せるシレーナが唐突に席を立ち上がった。
「どうせパパもママも、私のことより公演のことの方が心配なんでしょ! もう知らないわよ!」
その凛としたソプラノの声からは、高く評される彼女の歌声の素晴らしさが垣間見える。
しかし、名指しされた二人にとっては、それどころではないようだ。
「ちょっと、シレーナ待ちなさいっ!」
「そうじゃ、シレーナがいなければ、公演が……」
「ほらやっぱりっ! いいわ。私降りる。もう歌わない! 早く国へ帰らせてよ!」
「それは流石に無理です。ヴィオレッタ号が出航するのはまだひと月以上先になりますから……」
「もーっ! じゃあちっとも帰れないじゃないーっ!」
エルナンドの一言にシレーナが叫ぶと、どかっと椅子に腰を下ろし机に突っ伏して泣き始めてしまった。
両親が必死になだめようとするが、もはや彼女は聞く耳を持たないようだ。
やはり彼女は……、ある一つの結論に思い至ったタクミが親子に声をかけようとすると、再びシレーナが席を立ち上がった。
「分かったわよ! そんなに歌わせたいならせめて小麦のブレッドを持って来て! そうね、『オブヴァジャネック』が良いわ。それなら食べてあげるからっ! 私、もう、それ以外食べないわっ!」
「そ、そんな無茶な……」
「そうよ。国でもめったに手に入らないものだったのに……」
「知らないわよっ! とにかく、代用品じゃない、本物の『オブヴァジャネック』を持って来てくれないなら、私、歌わないからっ!」
シレーナはそう言い切ると、自分の荷物をまとめてさっさと部屋を出て行ってしまった。
両親もまた、タクミへの挨拶もそこそこに、追いかけるようにして部屋を後にする。
残されたエルナンドが、うぉっほんと一つ咳払いをしてからタクミに話しかけた。
「済まぬ。先日に続けて騒がせてしまったな。申し訳ない」
「いえいえ。こちらこそ期待に沿えず申し訳ございません。しかし、シレーナ様、心配ですね」
「ああ。公演云々のことはさておき、彼女の体調が心配だな。このままではそれこそ倒れてしまいかねない。タクミ殿はどう見るかね?」
「私は医師ではないので何とも言えないのですが、気持ちの面が大きそうに感じます。お話を聞く限りでは、船旅の間に相当無理を重ねていらっしゃったようですので、港についてその緊張の糸が解けてしまったのかと思われます」
「ふむ、単に胃腸の調子が戻らないということではないと?」
前のめりに聞いてくるエルナンドの言葉に、タクミがコクリと頷いた。
「ええ。その証拠に、先ほど彼女は『小麦のブレッドを』という言葉を口にしました。思わず口をついて出たのでしょうが、この流れで食べ物のことが出るということは、心の奥底では食べ物を欲している証拠でしょう」
「ふぅむ、そう言う見方もあるか……」
「本来であれば彼女に必要なのは休息かと思われます。しかし……」
「公演は待ってはくれない、というわけか。いや、彼女の身が一番大切なのは重々承知としているが、公演を待つこの地のお客様もまた大切にせねばならぬのだよな」
ふぅ、ため息をつきながらエルナンドが言葉をこぼす。
ひと時の沈黙の後、ふとタクミがエルナンドに質問を投げかけた。
「ところで、不勉強で申し訳ないのですが『オブヴァジャネック』とはどのようなものなのでしょうか?どうやら小麦を使うブレッドのようですが……」
「ああ、『オブヴァジャネック』というのは、彼女の故郷で古くから食べられているブレッドでな。今はマイスやソハの粉で作られているが、かつては小麦が用いられていたそうだ。かの国で『小麦のオブヴァジャネック』といえば、めったなことでは手に入らないものの代名詞と言うておったな。ええっと、確かこんな形をしていたかの……」
エルナンドの説明を真剣に聞いていたタクミが、眉をピクリと動かす。
やがて説明を聞き終えると、ふん、と一つ頷いてから口を開いた。
「なるほど。これならばあるいは……試してみる価値はあるかもしれません」
※第3パートへと続きます。