始まりはゼロ(3)
1年6組前。
掃除当番の生徒達がゾロゾロと教室を去っていく中、樋口は目の前を通り過ぎようとする男子生徒を呼び止めた。
「や、千鳥」
「ん?お、樋口『部長』サン。お久しぶりー」
彼は樋口に気付くと一瞬目を大きくし、それから口元だけ弧を描く。事情を知らない者から見れば親しみの表情、となるんだろう。
「久しぶり……えっと、ちょっと時間いいか?」
「別にいいけど。最近オレ忙しいからさ、お早めにね」
気さくな物言いに快活で明るい性格…これが千鳥を表す一般的な評だが、樋口的には『カルイ口調にニヤニヤしてるだけ』だと思っている。
人間誰でも表裏はあるけれど、千鳥の場合は『表』が分厚くて『裏』がその分凝縮されている感じ。その裏を容易にみせないところが樋口には気味が悪い。
そんな訳で、もし向こうが自分を嫌っていなかったとしても、仲良くなれはしなかったろう。
「へぇ?相変わらず普通ならしなくていい苦労してるな、ホント」
一通り説明を聞いて、千鳥は「大変だねー」と鼻で笑った。
「そう。それで、もしよかったら入部して欲しいんだ」
「学校にさぁこんなに人数がいるのに誰もこない、ってことは必要とされてないって事だよね。部活できるだけマシってなもんでしょ、部屋は諦めれば?」
「防具置き場ないと不便だし。それに、来年とか部員増えるかもしれないだろ、その時部室がなければ困るじゃないか」
「ははは、ないない皮算用。なんで知らない後輩の事まで考えるんだよ?」
千鳥はカラカラと笑っていたが、すっと顔面から笑みを消して低い声を出した。
「オレさ、お前のせいで辞めたの、覚えてるよね?」
「全く俺のせいじゃないだろ」
「立ち位置で違うんだよ。
んで、喜んで~なんつって入部するとか思った?甘く見られてるなぁ~」
あの能面のような顔から一転、また最初の毒のない笑顔に戻っている。
(やっぱ苦手だコイツ…)
途中で辞めたとはいえ、千鳥は剣道を真面目に取り組んでいたように見えた。だから、上手く説得すれば協力してくれるかと思ったのだが…やっぱり甘かったようだ。
「……一応な、聞いてみただけだ。悪かったな、時間とらせて」
聞くだけ無駄だった。わかってたんだけど。樋口は自分の馬鹿さ加減に辟易とした。そろそろ部活も始まる時間だし、先輩方と相談した方がいいのかもしれない。
軽くため息をついて歩き出そうとする樋口を黙って見ていた千鳥が、面倒くさそうに声を投げる。
「…こっちも一応聞くけど、どーすんの」
「なんとかなるだろ」
「ふーん。じゃ、いいや。入部してやっても」
「本当か?!」
思わず振り向いて、樋口は後悔した。千鳥の顔に、ある意味邪悪な笑みが浮かんでいたからだ。
「ああ、入部してやるよ?その代り、条件がある」
「な?!」
「当ったり前でしょーが、だってこっちは何も得しないんだ。何か言う事聞いてもらうくらいのことはないとさぁ。意味ないでしょ」
千鳥はいつもと変わらずニコニコと言葉を続けるが、それは上辺だけのこと。絶対エグイ交換条件を出してくるに違いない。
けれど、他に確実な当てがない以上、この話に乗るしかないだろう。
「……わかった。なんだよ、条件って」
「やめとけ」
突然、凛とした声が響き、樋口と千鳥はその主の方を振り返った。
そこには、前髪の片側だけ赤いピンで留めた生徒が立っていた。どこにでもいる小柄のフツーな感じの奴。だが妙に目が印象的で、まっすぐにこちらを見据えている。
いつの間にか雑音は消え、周囲の空気も何かに当てられたかの様にピンと張っている。
言いようもない威圧感に2人が黙っていると、彼はもう一度口を開いた。
「ソイツ誘うくらいなら俺入れろ」
「な…なんだいきなり。部外者が口出さないで欲しいんだけど?」
一足先に我に返った千鳥が文句を言う。
「俺、お前みたいなヤツ好きじゃない」
「!」
面と向かって否定され言葉をなくした千鳥を横目に、ソイツはすたすたと樋口の前までやってきて口を尖らした。
「お前、剣道部の樋口だろ?すっげー探した。のび太みたいな奴に言っとけよな、後輩のクラスぐらい把握しとけってさ。お前もお前でウロウロしてるし。おかげで学専バス乗り損ねちまったじゃん」
の、のび太…?もしかして三町部長のことか?
「あの人部長なんだけど…って、入部、してくれんの?」
まだ戸惑いから抜けない樋口が不満の様で、生徒はちょっと語気を強めた。
「そう言ったじゃん。ホントは名前だけのつもりだったけど入ってやるよ。だから弱みに付込むようなヤツ入れんな」
「やったことあるのか?」
「ねーよ。何、未経験者お断り?」
「い、いやそういう訳じゃなくて…あまりに簡単に言うからさ」
「ハッ、良かったんじゃないの、樋口『部長』サン?」
不愉快を隠そうともせず(これは珍しい事だ)千鳥はカバンを肩にかけ、2人に背を向けた。
「勢いだけでどーなるか見物だけどな」
こう言い捨て、千鳥は去って行った。
いきなり部活に入れと強要された挙句、卑怯者呼ばわりされちゃあ、怒るなという方が無理かもしれないが。
悪いことしたな、と千鳥の背中を見送った後、樋口は横に立っている生徒に話しかけた。
「じゃぁ…えっと…ごめん、名前なんだっけ?」
「そういや言ってなかった。俺、三波だ。よろしくな」
「よろしく三波。とりあえず見学してくか?先輩たちにも紹介しないと」
「するする。どのみちバス次の6時半まで待たなきゃならないしなー」
三波は屈託ない笑顔を浮かべた。先ほどの異様な空気はもう感じられない。あれは何だったのだろう?
そもそも、どうして急に入部する気になったのか?こんなうまい話があっていいのだろうか?
ともかく部室は守られる目途が立ったので、その疑問は脇に置いておくことにした。
危機は避けられた。