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生温かい風が吹き抜けていき、汗がじっとりと頬を湿らせる。
目の前には敵。
全身が真っ白い毛で覆われた、巨大な獣。
ブラックホールのようにすべてを吸い込む黒い双眸が、あたしをじっと見据える。
お互いに相手の出方をうかがい、身動きの取れないまま時間だけが過ぎてゆく。
とはいえ、長期戦になってしまうのは不利だ。
三分間だけしか戦えない身、というわけではないけど。
あたしのパワーの源となっているEEだって、無限にエネルギーを取り出せるはずはない。
それ以前に、体力のほうがもたない、というのもあるか。
はぁ……。もっと体を鍛えなくちゃだな~。
だいたい、運動音痴のあたしに格闘戦を強いるなんて……。
ゼッペキにありえないよ!
なんだか怒りが込み上げてくる。
それもこれも、すべてあの人がいけないんだ!
だけど……。
そのおかげで、愛しのあのお方にも出会えたわけだから、そこは感謝しなくっちゃ。
ぽっ。
自然と頬が熱くなってくる。
でも、なかなか話すことができないんだよね……。
顔を合わせる機会すらなく帰る、なんて日も多いくらいだし。
そう考えると、気分はブルーを通り越してディープブルーになってしまう。
あっ、ディープブルーって、映画になかったっけ?
見たことはないけど、深い海に沈み込んでいくような内容なのかな?
深い海の底とかって、ゼッペキ寒そう!
思い描いただけで、ぶるぶる震えてくる。
でもでも、深海の生物とかって、意外と綺麗なのもいるみたいだよね。
光るクラゲとか光るクラゲとか光るクラゲとか!
あれって、深海じゃなかったかな……?
クラゲといえば、食用のクラゲもあるよね。
食べたことはないけど、ゼリーみたいで美味しそう!
思わずヨダレが垂れちゃう。女の子なのに、はしたないことこの上ないけど……。
敵が現れたら警報が流されるわけだし、周囲の人たちはみんな退避してるはずだもん。
見ている人なんていないんだから、気にする必要はないよね!
……って、そうだ! 今って、戦いの真っ最中だった!
ひとりで夢想世界に入り込んでトリップしていたあたしを、敵はきょとんと首をかしげて見つめていた。
真っ黒でつぶらな瞳。ふさふさの真っ白い毛。飛びついて、もふもふしたくなる愛くるしさ。
真っ赤なリボンをつけたら、絶対、完璧、ゼッペキに超キュート!
あたしの目の前に対峙している敵。
それは、とっても可愛らしい犬――マルチーズだった。
「キャウ~ン」
愛らしい鳴き声を響かせ、マルチーズが飛びかかってくる。
尻尾を振りながら甘えるように駆け寄ってくる、といった様子では、もちろんない。
爪と牙を陽光にきらめかせ、獲物を狙う狩人としての闘争心を隠しもせず迫りくる。
愛くるしい見た目のマルチーズとはいえ、犬は犬。
広く見れば狼と同じ分類となる獣。
野性の本能は健在ということか。
……いや、その考え方自体がおかしい。だって、奴らは……。
刹那、マルチーズの爪があたしの腕を薙ぐ。
「ぐっ……!」
苦痛に顔を歪める。
あたしの腕は、大量の毛が生えた分厚い革で覆われている。
にもかかわらず、それを貫いて素肌をえぐられる感触が伝わってきた。
ただ、実際に腕の肉をえぐられたりはしていないはずだ。
それでも、そう感じてしまうほどの激痛が、容赦なくあたしを襲う。
爪の一撃を見事ヒットさせ、余裕の表情を浮かべるマルチーズ。
弱すぎる。
もっと楽しませろよ、子猫ちゃん。
そう言いたげに口の端をつり上げているようにも思えてくる。
真っ白い毛をそよ風に揺らしながら、マルチーズはあたしの全身に視線を這わせる。
獲物の味を想像して、舌なめずりをする、そんな獣っぽい仕草。
マルチーズは獲物であるあたしの目の前で、しっかりと二本足で地面に立っている。
奴は――あたしの敵である奴らは、宇宙からやってくる地球外生命体。
いわば、宇宙怪獣なのだ!
対するあたしのほうも、ごくごく普通の女の子、というわけではない。
マルチーズほどの長さではないものの、全身が白と茶色と黒のふさふさとした毛で覆われていて、頬の辺りからは白いヒゲが長々と伸び、頭の上には左右にピンと立った耳が存在している。
あたしは猫なのだ!
正確には、猫の着ぐるみを着た女の子、だけど。
頭部の前方は大きく開いていて、あたし自身の素顔がしっかりとさらされている。
猫と犬の戦い――。
東京都心、高層ビルの立ち並ぶ中、身長二十メートルはあろうかという巨大なマルチーズと三毛猫が戦っている。
それが今、この場所で展開されている壮絶なバトルの全容だ。
素人の映画撮影?
そんなふうに思われるかもしれない。
でも、違う。これは現実だ。超絶にリアルな出来事なのだ!
もっとも、あたし自身も、これは夢……きっと本当はお布団の中でぐーすかぴーと寝息を立てているんだ、などと現実逃避に陥ってしまうこともしばしばなのだけど。
『桔花ちゃん! ぼーっとしすぎだ! シャキッとしなさい!』
突然、あたしの耳に、怒りのこもった女性の声が届いた。
着ぐるみの頭部にはスピーカーが内蔵されているらしく、こうやって注意や指示を受けたりもできる。
「あっ、はい! そうですね、すみません! ニョキッとします!」
『伸びてどうする!』
「じゃあ、ニャキッと……」
『ふざけてないで、さっさと倒しなさい! EEレベルもどんどん下がってきてるぞ! このグズ!』
「む~、わかりました~!」
なによ、偉そうに!
……立場的に考えたら、あたしより偉いのは間違いないけど。
それにしたって、言い方とかを考慮してくれてもいいと思うのよね。
どうしてあたしが、グズ呼ばわりされなきゃいけないのよ!
バカとかドジとかなら、言われ慣れてるけど!
…………。
それもこれも、あんたが悪い!
あたしはキッと鋭い目でマルチーズを睨む。
ドシンドシンと足音を響かせながら、余裕をぶっこいているマルチーズに駆け寄り、そしてジャンプ!
カモシカのようにすらりと長い足(願望含む)を懸命に伸ばして、相手のみぞおち辺りを狙う!
「あんたなんか、丸いチーズの角に頭をぶつけて消えちゃえ! 八つ当たりキーック!」
『マルチーズだから丸いチーズ!? 丸いチーズの角ってどこ!? 頭をぶつけて、とか言ってるのに、みぞおち狙い!? それに、八つ当たりって言っちゃってる!』
ツッコミの声は、耳もとのスピーカーから聞こえてきたわけだけど。
おそらく実際にあたしの八つ当たりキックを食らったマルチーズ自身も、まったく同じことを叫びたかったに違いない。
ともあれ、あたしのキックの衝撃で巨体を横たえたマルチーズには、断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられず。
その全身がまばゆいばかりの輝きに包まれていく。
さらにマルチーズの体からは、キラキラ輝く無数の星屑が飛び出し、次々と空へと昇っていくのが見えた。
説明しよう!
これぞ、宇宙怪獣――別名インベリアンの消滅時に起こる現象、デリートシャイニー!
勝利の感慨に打ち震えるあたしの視覚を楽しませてくれる、最期のエンターテインメント!
奴らとしては、べつに楽しませようという気なんて毛頭ないとは思うけど。
あんな巨大な敵を倒したあと、死体はどうやって処理するねん! といった問題も解決してくれる、とってもありがたい消滅法でもあるのだ!
仁王立ちで見下ろすあたしを前に、デリートシャイニーが最終段階へと移行していく。
星屑を放出し続けながらも、マルチーズの姿は徐々に空気の中へと溶け込むように薄れ、やがて消えていった。
何事もなかったかのように、青空だけが周囲の風景を温かく包み込む。
「ふっ……。今日もまた、つまらぬものを蹴ってしまった」
『余計なごたくはいいから、早く戻ってきなさい!』
満足感に浸っていたあたしは、すぐに現実に引き戻されてしまった。
「む~、もうちょっと空気を読んでほしいです」
『それはこっちのセリフだ! じきにEEレベルがゼロになる! お前もマルチーズと一緒に消えたいのか?』
「そ、そんなのイヤ~~~っ!」
あたしはちょっぱやで巨大化を解き、戦いの舞台から退いた。