長久手の戦い
いやな予感が当たった。
秀次の目の前で池田恒興が秀吉に向かって『三河への中入り』を熱弁している。
思わず頭を抱えたくなる秀次だったが、さすがにそこは自重してとりあえず話を聞いてみることにした。
「徳川軍は小牧山に陣取って動きませぬ。主力も全て小牧山に集結しており、岡崎は空き地同然。ここを攻めれば焦って軍を動かしましょう。その隙に攻撃すれば勝利は間違いありませぬ!」
何が勝利間違いなしだ、アホ! と全力で叫びたい衝動を抑えてとりあえず大人しくしている秀次。
秀吉が「中入りは危険じゃ」と一応の反対はしているので、口を挟まないほうがいいと思っていたのだ。
(というか、史実では秀吉が積極的にこの中入りを進めてたんじゃなかったのかよ! なぜあんたが言い出すんだよ! このままもう少し睨みあってから信雄の尾張を攻めれば、何事もなく戦いも終わって俺も安全! 無事に大坂に帰還できるってもんよ! とか考えてた俺の安心感返せ、コノヤロー!)
池田恒興が凄まじい熱意で秀吉を説得しており、森長可がそれに同調している。
森長可は緒戦で負けている。何とか挽回の機会をと強く願っていたのだ。
彼にとって池田恒興の策は渡りに船。まさに汚名挽回の絶好の機会に見えていた。
(結局、史実通りに中入りになるのか……。いいや、もう。勝手に行って勝手に負けて来い。池田恒興、お前のことは忘れないぞ、三日くらいは)
尾張に兵をまわす案を言い出せなくなった上に、史実で負けを知っている策が実行されそうになっているが、秀次は放っておいた。
自分が総大将として行かなければ、別に関係ねーとばかりに無視することにしたのだ。
池田恒興と森長可、両武将だけで中入りをしても大した兵力にはならないので、たぶん堀秀政は行くことになるだろうが、名人久太郎と言われた彼が後詰ならある程度の兵力は無事に帰ってくるだろ、と秀次は考えたのだ。
(兵力は1万2千くらいか? ひょっとしたら史実より少ない兵力で行ったら見つからずに岡崎城を取れるかもしれないし。取れなくて史実通りに負けたら、そのときはそのときだろ)
別にこの一戦だけで秀吉軍が壊滅して敗走するような事態にはならないのだから、勝手にやってくれ、という気持ちで秀次は軍議を聞き流していた。
この事はすぐ後に後悔することになる。
「さて、行きましょうぞ、殿」
……そうだね、兵庫。地獄まで行こうか。
「縁起でもないですぞ」
なんで俺が総大将なのさ! 別働隊の!
「これだけ大規模な別働隊ですからな。秀吉様の一族であられる殿が総大将なのは道理かと」
くっ、このままではまずい。秀吉からは「くれぐれも気をつけよ」とか言われたが、何をどう気をつけろってんだ!
史実通りだと、奇襲されて壊滅、命からがら逃げるはめになる!
いや、命が助かるとは限らない。馬まで失って逃げるくらいの壊乱だ。史実通り逃げられるとは限らん!
兵庫! 兵庫!
「何か?」
奇襲されると思うけど、どーしよう?
「ほう……徳川殿はこの中入りを読んでいると? 殿がそう仰るのであれば、奇襲を逆手に取ってご覧に入れましょう」
マジ!? なんて頼りになる奴だ! ほら、采配持って!
「采を我に預けてくださいますか。これは期待に答えなければなりますまい」
その場で兵庫は伝令を走らせる。堀秀政に連絡して連携するつもりのようだ。
あれ、池田は?
「彼らには何を言っても行軍の歩調を合わせることはかなうますまい。目先の功名に捕らわれております。むしろ彼らと我らの間に距離を置き、そこに徳川殿の軍勢を誘い込みます」
なるほど、なんて頭いいんだお前。
俺の本軍と堀秀政の軍、池田と森の軍で奇襲してきた徳川軍を挟撃するのか。
でも相手は徳川家康だし。三河兵、甲州兵の強さは天下に響いてるからな。
俺のほうでも保険はかけておこう。七本槍とか可児才蔵を俺の周囲に配置しておこう。
乱戦になってしまったら守ってくれそうな強い奴を……。
秀次が舞兵庫に采を預けて出発してまもなく、家康は秀吉が別働隊を動かしたことを掴んでいた。
家康は配下に伊賀者を多く抱えている。彼らが秀吉の組織した別働隊の情報を持ち帰ったのだ。
情報を得ると即座に別働隊を迎撃すべく密かに軍を動かす。
夜間に榊原康政、水野忠重、大須賀康高、丹羽氏次を先鋒として送り出し、自身の本隊と織田信雄の部隊も出撃する。
小牧山に残る将たちに、厳重に守りを固め絶対に敵の挑発に乗らぬように注意してから、家康は動いた。
伊賀者からの続報が入ったのは家康が進軍を開始してまもなくである。
「敵方の先陣は池田恒興、森長可。両隊は岩崎城を目標に急進している模様」
「後発の部隊の進軍速度は先陣より遅く、周囲への警戒を密にしている模様」
(全軍が同じ速度で行軍しているわけではないのか?)
不審に思う家康。
史実では秀次の部隊は油断しており、背後から急襲を受けて壊滅状態になっている。
秀次は厳重に警戒しながら行軍しているため、家康は後続の部隊を急襲することは諦めた。
(むしろ急進している先陣部隊を叩くべきだ)
家康は岩崎城を目指している池田・森の両部隊を急襲し、これを叩いた後、後続の部隊を待ち受けて決戦すべきだと判断した。
先鋒部隊に奇襲が成功すれば兵力差からいって壊滅的な打撃を与えられる。その後に陣を敷き後続の部隊を待ち受ければ有利に戦える。
家康は各隊に行軍速度を上げるように指示を出すと、伊賀者にさらなる情報を求めた。
後続の部隊を率いるのは誰か、主だった将は誰がいるか、先陣の両将はいつ頃に岩崎城への攻めを開始するか。
それらの情報を集めるべく、伊賀者は颯爽と駆けて行った。
(さて、どうでるか)
馬を走らせながら、家康は考えていた。
一方の秀次が率いる部隊。
既に堀秀政の部隊と合流し、周囲を警戒しながら進んでいるがただゆっくりと進んでいるだけではない。
先陣の池田・森の両将には「岩崎城を囲んでも決して攻撃を開始するな」と伝令を走らせている。
岩崎城には大した兵力はない。攻めれば簡単に落とせるだろうが、岩崎城を攻めている最中に家康に奇襲されればたまらない。
理想は岩崎城を囲んでいる部隊を急襲した家康軍を秀次本隊と堀秀政の部隊で挟撃、包囲殲滅の形に持っていくことである。
(うまくいくといいな……うまくいくかな……いや、舞兵庫と堀秀政がいるんだ。こっちは奇襲があることを前提で動いている。きっとうまくいくはずだ!)
秀次の不安はつきないが、部隊は周囲を警戒しながら進んでいく。
このとき、家康は伊賀者から先陣の詳細な情報を掴んでいた。
怒涛の勢いで岩崎城へと進軍していること、その戦意が燃え上がらんばかりに盛んなこと。
それを聞いた家康はしばし眼を閉じて考えを巡らす。
(岩崎城はもたん)
岩崎城を囲んでいる間に急襲できれば最高だったが、行軍速度を考えるとぎりぎりのところで間に合わない、と判断した。
(捨てるか)
とっさにそう思った。岩崎城を捨て石として、勝利に沸く先陣部隊を叩いたほうが良いのではないか、そう考えていた。
岩崎城に篭るのは小勢。しかし精強で知られた三河兵である。
最後まで抵抗し、城に火を放って壮絶に散るであろう。
(相手の戦意が高い。岩崎城を落とすことによって、勝利に沸き立つであろう。そこを討つ。急激な戦況の変化にあの両将はついていけまい)
考えをまとめた家康は伝令を呼ぶ。
「物見の報告によれば、岩崎城は既に落城寸前。このまま我らが急進しても間に合わぬ。
よって、岩崎城を落とし一息ついている敵を襲う」
そのために多少行軍進路を変えよ。そう命令した。
城攻めの最中に援軍として家康本隊が現れれば、一時城攻めを中断して後続の部隊へと合流するために兵を退く可能性がある。
そのため、直行せずに部隊を旋回させてより確実に城攻め後の敵を襲えるように行軍進路を変えたのだ。
勇気のいる決断であったが、家康は伊賀者の報告から敵の先陣部隊の情報を確実に掴んでおり、十分に勝算があった。
(後続の部隊は堀秀政……名人久太郎か。それに羽柴秀次。秀吉の甥とのことだが)
別働隊の総指揮官はこの羽柴秀次だろう。警戒しつつ先陣部隊と距離を持ったまま進軍しているという。
先陣部隊の池田・森は客将。秀吉の譜代の家臣などではないために、扱いずらいのであろうか? そのために、彼らに武勲を立てさせるために行軍速度を遅らせているのか?
それとも、何か別の意図があるのか。
(どのような意図があったとしても、先陣を砕いてから万全の陣を敷いて待ち受ければ良い。この一戦で勝ちを得れば、当初の目的は果たせるな)
家康の目的は秀吉の首などではない。
ある程度の勝利を得て、後の交渉を有利にすること。この一点のみに主眼を置いている。
国力の差を考えれば、家康は秀吉に勝てない。いずれは臣従を強いられる。
臣従を強いられる時、一定の勝利を得ていれば強気に出られる。同盟に近い形での臣従も有りうるだろう。
(岩崎城は餌だ。餌に池田・森が群がった後、一網打尽にする。その後、後続部隊を迎え撃つ)
家康は精鋭と言える部隊を率いている。
本多忠勝、酒井忠次も従えて来ている。
問題はない。
家康は部隊を旋回するように動かして岩崎城へ迫っていた。
岩崎城には小勢しか篭っていない。
武功に逸る池田恒興、森長可は秀次より届いた「城を囲んでも攻撃は行うな」との命をあっさりと無視した。
戦力は圧倒的であり、眼の前に功名が転がっている。小牧山に徳川軍が布陣する前に戦で負けている森長可などは今こそ汚名を返上せんと、すぐさま岩崎城に猛攻撃を仕掛けた。
当然、池田恒興も続く。家康に忠誠厚い三河兵は、兵力差など無いかのように奮戦し、最後まで降伏しなかったが、最後には城に火を放って果てた。
勝鬨を上げる池田、森勢。
彼らはここで休息を取ることにした。
後続の部隊を待つ意味もあるが、両将ともに家康が軍を動かした事を知らない。
電撃的に岩崎城を落とした今、一気に岡崎城まで攻め寄せ、慌てて救援の軍を岡崎に家康が派遣すれば秀吉本隊が小牧山を攻める。
家康が動かなければ、岡崎城を落として焼き払って帰るつもりであった。
秀次からの連絡による「家康が既に中入りに気づいている可能性がある」ことは考慮に入れていなかった。
小牧山から家康が迎撃部隊を出したなら、それこそ好機、その部隊を岡崎まで引き付けてしまえばお味方大勝利間違いなしよ、と休息しながら話し合っていた。
休息のための天幕などが出来上がっていく頃、馬蹄の轟きが聞こえてきていた。
「敵襲! 敵襲!」
外から聞こえる声に池田、森の両将が外に飛び出る。
そこでみた光景は、圧倒的な数の徳川軍が殺到してくるものであった……。
「池田恒興様、森長可様、両名ともに討ち死!」
慌てた伝令が秀次の本陣に駆け込んできた。
堀秀政が先鋒部隊が壊乱して逃げている兵をまとめている間に後方の秀次の陣へと伝令を走らせたのだ。
この報告を聞いた秀次は横に座る舞兵庫を見る。
「池田様らは敗れたようですな。東海一の弓取り、さすがですな。最も、池田殿も森殿も我らの言を聞き入れて下さらなかったようですが」
「城を囲んでも攻撃はするな、と言っておいたのにな」
「抜け駆けは戦場の常といいますが少しはこちらの事も考えて欲しかったですな」
冷静だなーこいつ。そう思いながらこれからどうするかを秀次は舞兵庫に問うた。
「先行している堀様の部隊に合流します。どうせ我らが追いつくまでは敗残兵を収容することで堀殿も手一杯でしょう。伝令からの情報では、池田様たちを急襲した部隊はこの先に陣を敷き決戦の構え。
堀殿と合流し、戦力を整えてから進軍すべきです」
一瞬、このまま敗残兵を収納してから帰ってしまおうかと考えた秀次だったが、そうなると羽柴方は大規模な中入り部隊を派遣しておきながら、一戦で先陣が破られると残りは戦わずして帰ったということになる。
そうなれば総大将の秀次の責任問題となる。
(さすがに死を持って償え、とかにはならんだろーけど。普通に見切られそう。嫌でも兵庫の言うように全軍を進めるしかないか。
っと、家康が小牧山から出たのは確かなんだ。一応、秀吉本陣に使者だけ出しておこう)
秀次が伝令に秀吉本陣に相手が別働隊を動かしていること、その規模が意外に大きいこと、池田恒興、森長可が討死したことを伝えるように命じる。
(あとは秀吉が動くまで、別働隊をこの地に拘束すればいいのか? いや、こっちが戦う意思が低いと見れば、家康はさっさと小牧山に戻るな。対陣するだけじゃ何にもならん。
……やっぱ一戦するしかないか)
「しょうがない。軍を進めよう」
「御意」
こうして秀次本隊は進軍速度を上げ、先行する堀隊に合流する。
すぐに堀秀政が秀次の元にやってきた。
「逃げてきた兵のうち、手傷を負っている者はこのまま戻らせます。戦える者は順次編成しておりますが……物見の話では敵は岩崎城前に鶴翼の陣にて決戦の構え。
いかがいたしましょう?」
この軍勢の決定権はあくまで秀次にある。
ほとんど飾り物に近いとは言え、退くか戦うかという決断は秀次が行わなければならない。
「鶴翼か。三好の父ちゃんに習ったな。中央を薄くして、翼を広げるように部隊を展開して、中央を破ろうとする敵を挟み込んで殲滅するための陣、だったよな?」
「さようです。しかし、中央に家康殿の旗印が見えます。むしろ中央こそ強固かと。
うかつに当たれば相手の思う壷です」
(鶴翼……現代の戦争ではこんな陣はほとんど使われないんだよな。まあ、絶対的な火力差があるからだろうけど。航空戦力がまったく無かったとしても、遭遇戦でもない限り、要塞や塹壕に篭って待ち受けるのが普通だもんな。しかし今は天正の世だぞ。火力は火縄銃しか……)
ぶつぶつと何かを呟いて考えている秀次。
どうしたのか、というような視線を向けてくる堀秀政、舞兵庫にも気づかずに考え続ける。
(火力が火縄銃なんだよ。でも、鉄砲は鉄砲だ。相手が攻めかかって来ても、全部隊の鉄砲をずらっと並べて中央にぶちこめば、俺が逃げるくらいの時間は稼げるかも!)
そんでもって七本槍や可児がいれば! と思わず声を出す秀次。
すると舞兵庫がおもしろそうに笑った。
「ほう、大胆な策ですな。この兵庫、感服致しましたぞ」
堀秀正も驚いたような顔で続ける。
「鉄砲の中央火力集中、その後に騎馬武者のみで本陣へと斬り込むとは……秀次様の周囲に若き武者たちが多いのはその策のためでしたか!」
(え、あれ? なんか話が勝手に進んでね?)
自分がぶつぶつと口に出していたことに気がついていない秀次。
しかもうまいことに「逃げる時間くらいは稼げるかも!」と思った部分は聞こえなかったようである。
「では相手の右翼は我がほうで対応しよう」
「お願いできますか、堀様。左翼は私が。兵力は先陣部隊の生き残りを合わせればほぼ同数。片翼ずつを我らが押さえれば、勝機はありますな」
そう話した二人は秀次のほうに顔を向ける。
自信に満ちた表情が全てを物語っていた。
両翼は閉じさせない。その間に秀次配下の武将が敵本陣を突ける、と。
いや、もっとセーフティにいこうよ、と言える雰囲気ではなくなったので、秀次は破れかぶれに命を下す。
「福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元!」
呼ばれた七人が馬を秀次の側に寄せてくる。
「可児才蔵!」
側に控えていた可児才蔵が槍をぐるりと回してにやりと笑った。
「そちら、郎党の騎乗の士のみを引き連れて本陣へと突撃せよ! 全部隊の鉄砲持ちをここへ集めよ!」
もうやけくそである。
すぐに部隊の鉄砲が全て集められてくる。
その数、千丁。
ここより、運命を変える戦いが始まる。