後のことをつらつらと記す
松前(蠣崎)慶広(松前家)
蠣崎氏は戦国乱世の時代にはほとんど表舞台には登場しないが、治世の世になると「北の銭所」として有名になる。
元々アイヌとの独占貿易を担っていた蠣崎氏は、豊臣政権下で行われた蝦夷開拓事業に最初期から関わり、アイヌとの交渉や融和に大きな役割を果たす。結果として宇須岸港は百年に渡って行われた蝦夷開拓の玄関口となり、大いに発展した。
「松前の蔵は使い切れぬ銭を放り込むためにある」「蔵が年に二つは造られる」そう語られるほどの大商人大名となった。
明治後、「北の大財閥」と言えば松前グループの事である。
伊達政宗(伊達家)
蝦夷開拓の責任者として旧奥州大名達を率いて一大事業に取り組む。豊臣家からの莫大な援助を惜しみなく改易された大名家に投入し、開拓は進んで行った。順調に行けば伊達家は樺太までを含む北の地に一大王国を作り上げたであろうが、三代目の綱宗が蝦夷開拓資金の着服という、史実の伊達騒動以上のやらかしをしでかしてしまう。老中達に押し込められ、即座に剃髪して隠居する事によって改易は免れたが、蝦夷開拓責任者からは外された。
明治直前、伊達家は列強との交渉時に迷走してしまい、単独でロシアと結ぼうとした事が発覚。当然潰された。
最上義光(最上家)
娘の駒が秀次との間に一男二女を儲ける。この駒の長男が関白秀頼の補佐役として従三位上北方監督官となる。北に眼を向けた政宗とは意外に仲が良くなったらしく、その後も最上家は伊達騒動時に関白、征夷大将軍に向けて取り成しを頼む文を出している。
庄内地方、というより、酒田港からの税収が多く家は裕福だった。
明治後、男爵となる。
蒲生氏郷(蒲生家)
会津で良き政治を引く。その後、蒲生家は明治の世が来るまで幕府内の重鎮として在り続けた。
黒船来航時、蒲生家は戦力を整えた上で時勢を静観。明治政府の一角を占める事になる。
蜂須賀家政(蜂須賀家)
直江津港を使っての佐渡からの金輸送を担う。秀吉の半生を支えた家として特に遇され、後に天皇家から姫を迎えている。
明治の世に一角の人物を輩出。「蜂須賀家の先祖帰り」と言われるほどの戦上手が日本陸軍で中将になっている。
前田利家(前田家)
利家は慶長四年に亡くなったが、加賀の地は利長らによって治められ、明治まで続く。
死の際に、秀次・秀勝・家康を呼び「藤吉郎に何か話す事はないか」と聞いた後、返答を待たずに息を引き取ったという。
明治後、前田家当主は文部大臣を出すなど、政治の名家として長く与党を支える家となった。
上杉景勝(上杉家)
讃岐、阿波、紀伊の命脈を治め、家を保つ。家宰直江兼続の指揮により、讃岐と阿波の増植に励む。後に上杉鷹山が藩主となるに当たって讃岐で砂糖に綿、淡路で菜種を大々的に栽培することに成功。中興の祖となりその名声は上杉謙信と並び称される。
毘沙門天の加護は続いていたらしく、大量の元上杉家臣が投入された讃岐の善通寺師団は史実を大きく超えて強化され、日露戦争で大いに奮戦した。
長宗我部元親(長宗我部家)
多くの土着大名が土地から離されて移封されるなか、長宗我部家は土佐から動く事はなかった。九鬼家と共に豊臣家の水軍将としての役割を与えられ、ガレオン船を改良し続け、水軍棟梁と呼ばれる家となった。
後に藩士から蒸気船を開発する者が出る。それを乗り回す男も出る。
毛利輝元(毛利家)
大老としての役目を勤め上げた後、後進に道を譲って隠居。寛永二年に世を去った。
その後の毛利家は赤間関での呂宋~台湾~琉球~島津~豊後水道を通って来る交易品で賑わった。
歴史の修正力なのかなんなのか、黒船襲来時になぜか最もヒートアップ。長宗我部家の水軍と連動し、ペリー艦隊と江戸湾上で睨み合いを起こしている。
大友宗麟(大友家)
大友宗麟は豊臣秀次に重臣(立花宗茂)を送り込んでおり、安泰かと思われたが、ある意味史実通りに義友がやらかす。
酒の乱行により家老を含む三人を斬り殺してしまい、宗茂に取り成しを頼むも、太政大臣兼関白たる秀頼はこの罪状に対して大友家を大幅減封。東北に移され大友家は一万石の大名となった。以後、特に加増も減封もなく明治まで続く。
島津義久(島津家)
島津義久が存命の時代に琉球が豊臣政権に従属。島津家の一時預かりとなった。ここでスペイン人の商船から禁止されているはずの奴隷が見つかり、報告を受けた秀頼は激高。秀康を総大将とし、島津家に台湾、呂宋までの出陣を命じ、同時にスペイン商人の入国を禁止する措置を取る。豊臣水軍の船に乗せられた島津の鬼達は瞬く間に呂宋まで併合。奪還に来たスペイン艦隊を島津豊久の指揮で壊滅させ、生き残ったスペイン人乗組員に秀頼からの「キリスト教の布教禁止」「呂宋は我が国の藩とする」「二度まで来るなら根切りだ」と一方的な恫喝書状を送り付けるに至る。以後、日本と欧州の貿易からスペインは除外された。
この戦の報酬として呂宋が島津家の飛び地として与えられた。
黒田如水(黒田家)
如水は本当に楽隠居してしまい、同じく隠居した身の者としか会わなかった。黒田家はその後も福岡で栄えていき、無事に明治を迎えている。
関係ないが、後藤又兵衛はやっぱり出て行ったようである。
風魔小太郎(風間家)
秀次個人に忠誠を誓う忍びとして、自らが死するその時まで秀次に仕えた。死に際し、完全武装したまま毒を呷り「秀次様がいらっしゃる前に獄卒どもを掃除せん」と言って息絶えた。
風間家はその後も秀次の起こした関東豊臣家の重臣として続き、毒物や銃の研究などを続け、国内に監視網を張り巡らせ、乱の目を事前に積む役割を担い続けた。。
明治後、内務省特別調査室長に就任したのは風間小太郎(16代目)であった。
可児才蔵(可児家)
度重なる加増の申し出を断り、可児家は五千石を守った。代々、関東豊臣家当主の表警護番という役職に就く。
馬廻りの統率も兼ねるこの役をこなすために、可児家の男児は幼い頃から厳しい訓練を受け、元服前の一年間は風間家に出向してさらに腕を磨く事が義務となっている。
明治後、この家の名は歴史の彼方に消えた。
田中吉政
関東八州をまとめ上げ、一大経済圏を作り上げる事に成功した。秀次から大きな権限を与えられていたとはいえ、治水、街割り、街道整備、商人に対する罰則を纏めた商法の成立、風魔を使った領地治安政策、増産と「関東豊臣の白眉」と称えられた。
明治後、総理大臣を輩出するなど内政向きの家風は続いたようである。
舞兵庫
関東八州の軍政を整え、関東豊臣家の三軍と呼ばれる精強な軍を作り上げた。その後も軍事関係の最高責任者として関東豊臣家に仕える。名前は”舞兵庫”が通称から正式な家の名前に変わったので、舞家という形で明治後も残る。
立花宗茂
関東豊臣家の重臣としてその役目を全うした。嫁との仲は非常に良好で、二男三女に恵まれた。嫁である誾千代は稲姫と駒姫の姉であると言われるほど、奥を仕切る事に関しては絶大な信頼を置かれていた。
後に小田原城を修復、増築し、居城を移した。
九戸成実
関東豊臣家の重臣となる。軍政にも関わっていたが、主に奥州各家とのパイプ役を担う事になる。南部家には若干冷たかったらしい。後に南部がお家騒動を起こして改易された時、旧南部領を彼の子孫が九戸分家として拝領する事になる。
史実での騒動を知っていた秀次が未然に防ぐために陪臣として引き抜いたからこその栄達だったが、後の世では「奥州仕置の前から秀次に密かに通じており、主家筋であった南部家を出し抜いた」という説が定着するなど後世の評価はちょっと辛い。
福島正則(福島家)
秀勝事件後、しばらくして突如として隠居。家督を息子に譲る。
福島家はその後も続いたが、幕府中期にお家騒動が勃発。結局改易された。
加藤清正(加藤家)
秀勝事件後、しばらくして突如として隠居。家督を息子に譲る。史実では息子がやらかして改易されているが、清正は後見人に大老の一人である上杉景勝を指名。教育役として秀勝に乞うて湘南宗化を送り込んで貰っている。これによって息子は無事、修正された。
その後は代々、肥後を守った。明治の世になって、男爵となっている。
石田三成(石田家)
秀勝事件後、しばらくして突如として隠居。家督を息子に譲る。どうやら正則と清正と共に決めていたようである。
家督は譲ったものの、奉行筆頭として、彼の処理能力は無くてはならないものであり、しばらくは大坂城で奉行として働いた。
子孫は代々治部少輔を継承したのだが、明治の世になった時、政府に二百万両を献上して驚かせた。代々の治部少輔としての会計管理能力によって自家の余剰分を蓄財に回したためである。
正則、清正、三成が同時期に隠居したのは、秀頼君に何かある時、そこにすぐさま駆けつけられるように身を軽くしたとの説が平成の世になって出てきている。が、結局奉行職として大坂に隠居後も残った三成は当てが外れたようである。
徳川家康(徳川家)
秀勝事件解決後、隠居。後を秀忠に託す。後に広く国軍の人材を集めるための学校が造られた時、すでに高齢の身ではあったが初代校長としてその任についている。それなりに楽しかったらしい。
明治の黒船事件時、対等ではない通商条約を結ぼうとしてきた列強に対し武力で持って対抗する事を高らかに宣言。半ばポーズであったがこの強硬姿勢と強大な家臣団に擁されて当主となったのは徳川慶喜。徳川としては六代振りの征夷大将軍となった徳川慶喜は硬軟織り交ぜた外交を展開して、遂には有利な条約を勝ち取る事に成功する。
豊臣家
豊臣秀吉
一連の騒動の責任を取り、太閤職から引く。その後、無官の身となり一線を引いた状態で大坂城で暮らす。
秀勝事件により、世を騒がせたとして、朝廷に金五百、銀八百、荘園三万石を献上。自身が無官になる代わりに秀勝の関白職復帰を取り付けた。その後、全国の金山銀山を豊臣家で掌握し、貨幣鋳造に乗り出し、全国の貨幣統一に乗り出した。
史実より少し早く、慶長元年に死去。
「露と落ち、露と消えにし わが身かな なにわのことも 夢のまた夢……どうじゃ、なかなかであろう?」
秀吉最後の言葉である。
死に顔は穏やかであった。
死後、朝廷より神号が送られる。
後の世では「秀吉は天下を取った後、補佐役であった弟の秀長を失ったが縁戚である豊臣六兄弟を重用し、見事に自らの思想を受け継がせた事が後の豊臣政権の繁栄に繋がった。秀勝事件は秀吉が彼ら豊臣家の若手を試すために起こした」と若干美化された逸話が伝わる。【太閤軍記】の編纂を任された太田牛一は泣いていい。
豊臣六兄弟
宇喜多秀家(宇喜多家)
秀吉の猶子として育てられ、宇喜多家を継いだ後も豊臣政権に仕え続けた忠臣。豊臣六兄弟と言われる中で、唯一豊臣姓ではない。
宇喜多家はその後も存続、後に内大臣や関白職を輩出している。
豊臣秀康(南方豊臣家)
秀頼による南伐(台湾・呂宋への出兵)の総大将を務める。結果、そのまま初代台湾藩主となった。
家康の側室の子として生まれ、中々認知されず、元服前に秀吉に人質として養子に出され、九州征伐、北条征伐、さらには文禄の役での大活躍、秀勝事件での武装蜂起寸前、その後に南伐総大将としてスペイン艦隊との戦い、最後は台湾守となるという波乱の人生を送った彼は、何度か大型ドラマの題材として扱われている。
豊臣秀勝(丹後豊臣家)
関白職に復帰後、内大臣に登る。秀吉の補佐役として、その後は秀頼の後見人の一人として、丹後・丹波を治める北豊臣家として政権の中枢に居続ける。齢五十歳にして職を辞して隠居。後の人生は京に庵を作り、妻と二人きりで過ごす。
六十一歳、永眠。妻の江もその半年後、眠るように息を引き取り後を追った。
豊臣秀保(大和豊臣家)
秀長の後を継ぎ、大和大納言としての職責を全うする。公家の一条家から嫁を取る。
享年五十八歳。色々と独特な兄達に振り回される人生であった。
豊臣秀秋(四国豊臣家)
史実と異なり、小早川家から隆景の養女を嫁に迎えて自身は豊臣姓のままであったが、その後小早川家で当主や跡継ぎの急逝が相次ぎ、小早川家が改易される寸前、妻の実家に婿入りを宣言。息子が元服した後は豊臣姓へと復帰し、伊予も小早川家に返還した。
その後は新居浜にて隠居。妻と共にゆっくりとした時間を過ごす。年賀の行事や法要で兄弟に会えるのを毎年楽しみにしていたようである。
秀次の謎の命令「古今の戦書や水軍の軍法書を集め、伊予にて保管せよ。将来的には広く国軍の将官に貸し出すべし」を律儀に守った。明治以降に松山に現れる陸と海のチート兄弟のためだったと思われる。
豊臣秀頼
十五歳で元服し、関白就任。一年後に太政大臣に登り、同時に征夷大将軍に任ぜられる。その後、豊臣幕府を開く。
太政大臣にして征夷大将軍という、公家・武家共に頂点に立つ人物として秀次より徹底した教育を施される。
彼一代で政権の土台を造り切ったと言えるほどの政治家として育つ。時に情がまったく感じられないと思われるような事を平然と行う正しく君子論を体現した為政者となる。
大方の武家の整理が終わった所で徳川家の三代目家光に征夷大将軍を譲る。以後、征夷大将軍は豊臣、徳川、上杉、毛利、島津の五家で人選の上決定される役職となった。
その後、多すぎる公家の整理に取り掛かり、公家方覚書という公家を縛る法律を太政大臣として発行。徹底して日ノ本に太平の世を作る事に尽力する。
八条宮智仁親王の娘を正室に迎え、側室は上杉家、毛利家、蒲生家、黒田家から迎えた。
明治まで続く幕藩体制を作り上げた傑物と見なされている。
権力の頂点として君臨した期間は長く、彼が六十歳で太閤職を退いたのは、秀吉から始まった貨幣統一が成されたからである。
豊臣秀次(関東豊臣家)
関東八州を治める関東豊臣家の開祖。豊臣秀頼の兄にして教師。
豊臣幕府最高顧問として政治に携わる。
正室・稲姫との間に三男一女を、側室・駒姫の間に一男二女を儲ける。稲姫長男の仙千代は関東豊臣家を継ぎ、徳川家より嫁を迎えた。稲姫次男の百丸は立花宗茂の娘と結ばれ、稲姫長女の於長は最上家に嫁いだ。駒姫長男の瀬丸は島津家から嫁を迎え、駒姫長女の千姫は舞兵庫の長男と結婚、駒姫次女の吉姫は田中吉政の長男と結ばれた。
スペイン商人騒動が終わった後、秀頼に命じられて呂宋入り。検地をおこない正式に島津の領地として朱印状を発行した。これが最後の政治活動となり、以後は江戸城を息子に譲渡し、妻たちと共に隠居。六十歳で死去するまで隠居生活を楽しむ。
「天下を取らなかった男」「豊臣家随一の策略家」と後世で異名を取る事になる。
死後、秀頼によって特別に朝廷から正一位を贈られた。
辞世の句「流れゆく 命の果てに 思い出す 還れ魂 わが故郷へと」
史実から大きく隔離した豊臣兄弟ズから一言どうぞ。
秀勝「生き延びて嫁さんと幸せに暮らしました」
秀秋「若死にしなくて良かったっす」
秀家「遠泳する必要はなくなりました。宇喜多騒動? 兄上達が介入してきて丸く収まりました」
秀頼「豊臣幕府体制を作った偉人として名が残りました。名君と言えば私の事です」
秀保「そもそも歴史ファンの人でも僕の事を知りません」
秀康「台湾って……」
秀次「関白にすらなってない!!」
前作から扱いが変わった人から一言どうぞ。
茶々「無事でした」
三成「生き延びました」
甲斐姫「無能な作者に訴訟も辞さない………………………………出番カットってなによ……」




