最期の問いかけ
天下統一。
その偉業を成し得た者は、日本史上ほんの数人しかいない。
隆盛を極めた平家を討ち、武士の世を作った源頼朝。
鎌倉幕府を滅ぼして室町の世を開いた足利尊氏。
亡き主君の偉業を継いで、真の意味での統一を成し遂げた日本初の天下人、豊臣秀吉。
秀吉亡き後、反発する勢力を纏めて叩き潰し、幕府という巨代官僚組織を作り上げて長きに渡る太平の世を作り上げた、徳川家康。
天下を統一するには、英雄としての能力と運がいる。
源頼朝は父が平清盛との戦に負け、亡くなっても命は許され関東へ流されるだけで終わっている。運がない者ならこの時点で斬首されているだろう。彼はその後、北条家を味方につけ、源氏をその政治手腕で纏め上げ一大勢力を築く。叛乱を起こしてから、平清盛が死ぬという運、自らの弟に義経という戦術の鬼才がいるという運、それら全てを背景に天下人に登った。
彼は英雄であった。英雄であるが同時に優秀な政治家でもあった。それゆえ、鎌倉幕府という形態を整え、御家人制度を使って全国の武士たちをコントロールできると考えていた。結局、彼は若くして世を去る。彼の息子たちでは幕府を支える事は出来ず、鎌倉幕府は北条のものになった。
秀吉もまた、英雄であった。源頼朝よりも、遥かに大きい英雄と言っていいかもしれない。
その能力も、天に愛された運も、まさに天下人になるための素質は全て揃っていた。
掛け値なしの英雄……その英雄が、今、妻に付き添われて甥と向かいあっている。
(秀次……お前も秀勝に付いた、か。拾は、拾は、これでは拾は……)
秀吉にも分かっていた。高野山に謹慎させ、切腹の命令を出した。その秀勝が秀次に伴われてここにいる。
(秀次も認めなかった。拾の世継を認めなかった。儂はどうすれば良い……この状況で、秀次や秀勝が認めない状況で、儂はどうすれば良い……秀次に秀勝に……秀秋に秀保、秀家に秀康までも……全てを罪人として……無理に決まっておる。何が出来る、この状況で、儂には何も出来ぬ……)
秀吉の瞳には絶望があった。
なぜ誰も拾を後継者として認めないのか。
なぜ誰も自分の命令を聞かぬのか。
なぜ誰も自分を助けぬのか。
天下を取ったのは、天下を造ったのは自分なのだ。なぜそれを誰も分かろうとせんのか……。
そんな思いがずっと頭の中を回っていた。
それを見ていた秀次が口を開いた。
「殿下」
「秀次、お主……何をしたかわかっておろうな……」
秀吉の声には覇気がない。秀次は関白職を剥奪され高野山にて切腹するはずだった秀勝を救出して来た。
ここで秀次を罪に問い、腹を斬らせて秀勝の腹を斬らせても、もう誰も拾に付いて来る者はいない。
「殿下、秀勝の関白職剥奪、それに伴う罪状の数々……それ」
「殿下!」
秀次の言葉を遮って、一人の男が秀次の前に飛び出した。
石田三成である。
「石田治部少輔三成! 伏して申し上げます! 此度の関白様の罪、明らかに、明らかに冤罪に御座います! そも、諸将に貸し付けた金はこの治部少輔が実務を行っております! 朝廷への献金は関白の職責! 明らかに殿下は誤解されておられます!」
正論。まさに正論であった。
三成は秀吉が秀勝を排除しようとした事、恐らくそれは拾のためである事を察している。
私的な事で、いわばお家騒動で秀勝の命を絶とうとした。それを秀次の口から糾弾すれば、亀裂は決定的になる。
ならばこその正論であった。建前としての理由は天下に宣伝される理由である。それが間違いであったという方向に持っていく事によって関白秀勝と太閤秀吉の対立という構図から離そうとしていた。
三成はこの正論に賭けた。秀吉が認めぬなら金の流れについては治部少輔である自らの罪であると押し通し、この場で腹を斬るつもりである。介錯は清正に頼んであった。
「分かった。その後、俺と正則も後を追う」
介錯を頼まれた清正が答えたのはそれだけであった。正則はただ頷いていた。
諫言、通らねば腹を斬ってでも諌めなければ。三成、悲壮な決意であった。
秀吉は何も言わない。三成はさらに続けた。
「さらに申し上げれば、此度、高野山にて謹慎中の秀勝様に秀次公を謁見させた事、これはまごう事無く私の落ち度! 太閤殿下の命を遂行できなかった私の落ち度なのです! どうか、この件、我が首にて収めて頂きたい! 伏して、お願い申し上げます!」
秀次も秀勝も、現在の豊臣政権での立場が大きすぎる。秀吉がそれを罰するとなれば、その影響は計り知れない。三成は自らが全ての罪を被る代わりに、秀勝と秀次の罪を問わず、秀勝を関白職へと戻せば本来の豊臣政権に戻る……そう考え、決意しての言上であった。
「三成、下がれ」
静かに秀次が三成に声を掛けた。
「お前の気持ちは分かったから。だから下がれ。首を差し出すなどと言うな」
秀次はそう言うと、北政所に目線を向けた。
北政所は頷くと、
「三成、あなたの気持ちは良くわかりました。その忠義、嬉しく思います。今は、さ、虎と市松の側に」
と優しく諭すように言った。
「……はっ!」
こうまで言われては、三成は下がるしかない。正則、清正が座る場所まで下がった。
福島正則、加藤清正は両者とも刀を帯びている。両者とも、柄に手が掛かっていた。三成が腹を斬れば、その場で介錯し自らも死ぬ覚悟であった。
三成はその二人の覚悟が嬉しくもあり、こんな事に巻き込んでしまった悲しさもあった。
だが、もう自分の言葉は届かないとも思った。
(おそらく、太閤殿下の御心に届くのは、秀次公だけなのではないか)
ふと、三成はそう思った。なぜそう思ったのか、それは自分でも分からなかったが、確信があった。
(虎、市松、すまぬな……我らが腹を斬った所で、どうやら届かぬようだ)
三成が懇願している間、秀吉は生気の無い眼でただ三成を眺めているだけだったのだから。
「殿下、秀勝の関白職剥奪、それに……もういいか。なあ殿下、腹割って話しましょう。拾のためですか?」
秀次は急に砕けた口調に戻した。どうせここには豊臣家の家族しかいないのだ。それに三成のように正論を述べるには正規の場というものがあるが、これから秀吉に聞く内容は、間違っても公儀の話ではない。そんな話にされては困るのだから。
「……拾は、豊臣家の跡継ぎ。いずれは天下人となる身。違うか、秀次」
「いや、間違っていません。当然でしょう……それと秀勝の件は、別でしょう」
呆れたように言う秀次。秀吉はついに激昂した。
「別ではない、別ではない、お主にも分かっているはずだ! 拾が元服するとき、儂はいくつだ! この世におらぬわ! その時まで関白職にある秀勝はどうじゃ! 拾とさほど歳の変わらぬ嫡男がおるのだぞ、儂が死ねば、豊臣家の長者は秀勝になろう! その嫡男がいる! 拾はどうなる! 拾はどうなる!」
激昂しすぎて、いくつかの言葉を飛ばしてしまっている秀吉。
秀次は気づいた。何の事を言っているのかを。
秀吉が何に今の状況を重ねているのかを。
「……三法師君の事を仰っているのですか?」
織田信忠の嫡男、三法師。本能寺の変で討たれた信長と信忠。この時点で織田家には信孝と信雄がいた。信長の息子たちである。
討たれたのは大殿と呼ばれた信長と家督を譲られて織田家の家長となっていた信忠。この状況で、信孝と信雄は両者共に織田家を継ぐ事を目的に動いたが、秀吉は信忠の嫡男であり、当時まだ幼かった三法師を擁立した。その三法師を後見する事により秀吉は織田家が作った支配機構を乗っ取ったのだ。
その後、三法師は織田秀信となり、一大名として命脈を保っている。本来、織田家は三法師が相続したもの、秀吉は織田家の家老に過ぎないのだから、建前としては主筋のはずである。だが、官位も領地も完全に秀吉とは隔絶している。
これは当然である。秀吉が北は奥州から南は九州まで統一を果たした後、「三法師様、どうぞ天下人とおなり下さい。私は今まで通り織田家の家老として支えます」と言ったところで誰も納得しないし、言われた本人が一番困るだろう。
同じ事を秀勝がするのではないか。要はそう言っているのである、秀吉は。
「……織田の、信長様の作った天下を、儂は儂のものにした。お主も知っておろう。儂はそうしたぞ。ならば……」
「あの時、死んだのは信忠様です。前提が違う……ああ、既に当主は信忠様でしたか。で、三法師君を擁立し、無力化したように拾も秀勝が分家としてどっかに押し込む、と?」
「それがないと誰が言える!」
「いくらなんでも考えが飛躍しすぎです……殿下、今やっと乱世が終わるところまで来ているのです。あの時はまだ織田家は天下を統一していなかった。殿下は毛利と戦っていた。四国も九州も関東も奥州も残っていた。だが今は日ノ本は豊臣家の下で曲がりなりにも纏っている……ここで秀勝を粛清すれば、天下に不安が広がります。次は我らか、と。拾のために、また大乱を招くおつもりか」
「秀次、お主は聡い。だが、天下とは魔性のものよ。手を伸ばせば届く、そう思えば止まらぬ。儂は止まれなかった。信長様亡き後、周囲を見渡して、儂が一番天下に近かった。そのための道筋も確かに見えた。そう、眩いばかりの光が見えたのだ。天下を、その全てを我が手に握れると。その魅力に抗える者のほうが少ないわ。そうではないか、秀次」
「状況が違う、そう言っています。あの時は織田家の家臣団ですら去就明らかな者のほうが少なかった。殿下には逆賊、明智光秀を討ったという実績があった。織田家が作った天下を乗っ取る資格はあった。しかし、秀勝が拾を排するにはその資格がない。ただ関白職にいるだけでは、それを誰が認めるというのです? 誰も認めませんよ」
この場にいる誰も、口を挟めない。
豊臣秀吉と、豊臣秀次だけが口を開いている。
「天下を相続するには、それだけの資格がいるでしょう。太平の世であれば、嫡男が相続するのは当然です。他に相続者はいない。殿下には拾がいる、なのに……」
「拾を、拾を排せぬとなぜ言える。誓詞でも書くか? そんなものに何の意味もない。秀次、お主にも嫡男がおる。秀勝にも嫡男がおる。拾以外にも、豊臣家を相続する資格がある者がおる、儂にはそれが……それが恐ろしい。秀次、なあ秀次、儂は間違っておるのか。天下人たる儂にお主も秀勝も従わなかった。高野山から連れ出し、こうして連れて来ておる。正則、清正、長政……皆、儂の所に血相を変えて駆け込んできた。なぜじゃ、なぜ誰も儂の心を分からぬ。拾は、拾は儂に取って、かけがえのないたった一人の息子ぞ。鶴松が逝き、儂には絶望しか残されなかった。明へ攻め入ってもその心は晴れなんだ。やっと、やっと掴んだのだ。手放したくない。そう思うのは、そんなに悪い事か。こんな、こんな事なら」
秀吉は慟哭と共に叫ぶ。
「天下など、天下などいらなかった!」
それは秀吉の魂からの叫びだったかもしれない。
天下と言う重すぎるものを背負った、一人の人間としての叫び。
英雄ではなく、一人の人間として叫んだその言葉を、秀次が捕えた。
「ではなぜ、あの時に信孝、信雄に天下を譲らなかった。答えろ、羽柴筑前守秀吉」
「……!!」
「答えろ、羽柴筑前! いや、木下藤吉郎!! 貴様の甥たる治兵衛が聞いている!」
「ひでつ……治兵衛……お主……」
豊臣姓も、羽柴姓も名乗らなかった秀次。まだ農民の息子だったころの名である治兵衛の名乗りで、織田家でようやく日の目を見た頃の木下藤吉郎に対しての弾劾であった。
『源平藤橘に連なる者ではない』
秀次が普段から良く人に言って聞かせた言葉である。彼は農民の出自を一度も卑下した事はない。
ただの名も無き農民から成り上がったのだ。
ただの藤吉郎は木下藤吉郎に。
木下藤吉郎は羽柴筑前守秀吉に。
羽柴筑前守秀吉は朝臣豊家羽柴秀吉に。
位人臣を極めた事で間違った方向に進むくらいなら、それを捨てよ。
突き詰めれば――我らはただの農民だった。思い出せ。自分が何者かを。
秀次の瞳は秀吉を射抜いた。
ふと、秀次が姿勢を崩し、笑いながら言った。
「なあ、叔父さん」
虚勢からの笑いではなく、本心から、笑っていた。
「英雄も、行き過ぎたなら、それはもう怪物じゃないのか? 俺は叔父さんが怪物になっちまうのは見たくないよ」
秀次の心からの言葉であった。
「お前様」
それまで黙って聞いていた北政所が口を開いた。
「私も、お前様が怪物になり果てるところを見たくはありません」
北政所の瞳にも涙が浮かんでいた。それでも、彼女はきっぱりと言い切った。
「それでもお前様が怪物になって地獄へと赴かれるなら、私もお供します」
と。
「殿下、いや、父さま……この佐吉、これまでの行いを恥じております」
三成が真っ直ぐに秀吉を見ながら言った。
「私も、虎も市松も、殿下を殿下としか見なくなっていました。遥か仰ぎ見る太陽としか見ていなかった。何の理由もなく我らを照らし続けてくれる太陽なのだと……父さまとして見るのを辞めていました。今、この時だけ、佐吉として願います。どうか、それ以上先に足を踏み入れる事は思いとどまって下さい。私は、いや、我らは殿下の下で天下国家を見て、天下国家を運営してきました。だが今は、殿下の家臣ではなく一人の、羽柴秀吉の息子の一人からの言葉として願わくばお聞き願いたい。どうか、その先には……」
言葉の最後には、三成も清正も正則も泣いていた。
秀吉は、ただ、秀次に背を向けて立っていた。
その老いた瞳から流れる涙が、慟哭から滂沱に変わっていた。
どれくらい、秀吉はそうしていただろう。
ゆっくりと、秀吉問いかけた。
「秀次、秀勝よ」
「「はっ」」
「……拾を頼めるか?」
「誓って、豊臣長者としての覚悟と心得を私が教え込みまする。ご安堵めされよ」
「覚悟とは」
「公家、武家、商家、農家に関わらず等しくかしこきところの臣下。余すところなくその代理人たる関白の職責にて負うものであります」
「心得とは」
「拾は我らと違い、生まれながらに豊臣長者。臣に遠慮の心を持つ所以はありませぬ。常に長者として振る舞うべしと心得ます。余計な情実に捕らわれて天下の政を行う事なかれと」
「……それが、天下太平の道か。我が子に重い荷物を背負わせるとは、この儂も父としては二流よな」
「天下人として一流であればよろしいでしょう。我ら豊臣の名を受けし者、すべからく拾君の臣下なれば、身命を賭して支え申す」
「さようさな。儂は天下を目指した、信長様が光秀に討たれて以来、天下のみを目指した。届くと信じた。自分以外には成せぬ事だと信じた。そして届いた。天下の上に出て、下を見る事が怖くなった。ああ、そうだった。怖くなったのだ、天下が。拾に、それを強いるのか、儂が、父である儂がそれを強いるのか」
「強いるのは天下。しかし、拾君には我らがいます」
背を向けていた秀吉が振り返る。
秀吉の前に、豊臣家の兄弟達が並んでいた。
関東八州を預かる秀次が。
先の関白たる秀勝が。
秀長の遺領を継いだ秀保が。
宇喜多家を率いる秀秋が。
見事な武勲をあげた秀康が。
秀吉は悟った。
この五人が、幼き秀頼の兄となり、部下となり、傅役となる。
「豊臣の天下を治める、それが我らの使命、天命というものでしょう……最も、天下なんてものを押し付けてきたのは叔父さんですけどね」
秀次がそう言うと、秀吉が笑った。
「当たり前じゃ。儂は豊臣秀吉、お主は豊臣秀次じゃ。天下からは逃げられんわい」
いつもの、人誑しの笑顔だった。
次の話は後日談というか、後の話です。




