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今、そしてこれから

大坂城下、秀次の屋敷。

七月に入る直前に大坂に到着していた秀次だが、秀吉への謁見は何くれと理由をつけて先延ばしにされていた。


(何か手はないものかね……一応、奉行役と大坂城内の秀吉旗本から何かあれば連絡が来るようになっているが)


そんな時である。秀勝が高野山で切腹との沙汰が降ったという情報があったのは。

急報したのは奉行衆筆頭、浅野長政配下の者である。関白職剥奪を秀勝本人に通達した男は、この沙汰が降る可能性がある事を予想して、登城の時にすぐさま報せに走れる人間を連れて上がっていた。


その一人が秀次の屋敷に飛び込んで、伝えた。それを聞いた秀次はすぐに馬を引き、近くにいた小太郎に指示を伝えると僅かな手勢と共に高野山に向けて走り出した。


秀次が屋敷から出ると、そこには二人の男が待っていた。


徳川家康、黒田如水である。


秀次は軽く会釈だけをすると、その横を通り過ぎようとした。何を言われようと、弟を死なせぬために、今はいかねばならない。


その背中に、声がかかった。


「秀次様、最早あなた様が出て行った所で、余計にこじれるだけかと……」

「如水」


秀次は顔だけ振り返って、言った。


「最悪、次の天下を誰が握るか、お前と家康殿で決めろ」

「秀次様……?」

「戦はするなよ? 黒田官兵衛。お前も天下に才ありと認められた男なら、戦抜きで次の天下人を決めてみせろ。それくらいは出来るだろう? 義父殿、後の事はよしなに」


止められぬ、止まらぬ。黒田如水は悟った。もう秀次を止める術はないと。


走り去っていった秀次の後姿を呆然と見送った家康と官兵衛。不意に、家康が笑い出した。


「若いとは、うらやましい事だ。素直にそう思えるようになった。私も歳を取りましたかな、如水殿?」


「……いえ、私も同じ思いを抱きました。やれやれ、若い世代に任せる時期ですかな。まだまだ青二才どもと思っておりましたが、中々どうして。この分だと、長政に任せて私は楽隠居ですな」


「ふ、私も秀忠に任せて隠居しますか。如水殿、共に囲碁でも打ちましょうや」


「はは、我らには似合いかも知れませぬ。共に一度は天下を夢見た身……後の事は」


「ええ、後の事は」


((秀次様達がどうなるか、それを見届けてからだ))


この二人は秀次の覚悟とこれからの行動を正確に察していた。

もし関白秀勝の切腹を止められなかった場合、秀吉のいる大坂城に乗り込む腹だ、と。


「婿殿が動かれる間、私が諸将を押さえておきましょう」

「では、私は北政所様に目通りを願います。秀次公が動いた事を伝えましょう」


こうして秀次と同時に二人の老将も歩き出した。



高野山青巌寺、その門前。

多くの兵が警備のために並んでいた。その旗印は「大一大万大吉」。石田三成の手勢である。


「ふん……」


馬から降りた秀次は、そのまま門内に進み始めた。門は閉じられていたが、秀次は一言、

「開けろ」

とだけ言った。秀次の後ろには可児才蔵を中心とした秀次近侍二十名、その他二名がいる。


三成の手勢はお互いに顔を見合わせた。命令ではここには誰も入れるなと言われている。だが、現れたのは豊臣秀勝の兄で関東八州を持つ関東豊臣家の秀次である。


しばし秀次側が門の前で威圧するように仁王立ちしていると、一人の侍が近づいてきた。

「秀次公……我が主は中であります。私が呼んで参りましょう」

「頼む、左近」


島左近。石田三成の一番家老である。三成よりも遥かに長い戦歴を持つ男は、完璧な作法で一礼すると、門を開けさせ中に入って行った。


左近が中に入ったのを見た秀次は、そのまま歩き出した。元々、ここで待つ気はなかった。待っている間に切腹が執行され、首を渡される事にでもなったらたまったものではない。彼はさっさと左近を追った。


中に入ろうとした時、転げ出るように男が駆け出してきた。


切腹の執行を命じられた三成である。


「し、しばらく! 秀次公、ここは殿下の命により……」

「よせ、三成」


静止しようとした三成を武骨な手が押し留めた。



福島正則、加藤清正の二人である。



「離さぬか! 正則、清正、お主らは謹慎の身であろう! 殿下の命をなんとこころえ……」

「もう良い! もう良いのだ、佐吉!!」


幼名で呼ばれた三成がはっと正則を見る。


泣いていた。正則も清正も。


「虎之助、市松……お主ら……蟄居中であろう……」


その三成の言葉を聞かず、清正は吠えた。

「佐吉、殿下は……親父殿は、我らの太陽であった! その太陽が陰って行くのを我らは座して眺めるしかないのか! 他に手は、何もないのか! 俺は馬鹿だから分からん! 分からんが、それでも、それでも、今の殿下は、間違っておる! そうではないか、違うのか佐吉! 教えてくれ、俺は馬鹿だから分からん。俺に教えてくれ。俺のほうが間違っておると言うなら、俺と虎を刺せ。抵抗はせん。なあ、教えてくれ佐吉……」

「……市松、お主……虎も、同じか」

「ああ」


本堂へと歩いて行く秀次の背から眼をそらさずに、虎は、市松は泣いていた。


「……虎、市松、頼みがある」

「なんだ」

「俺に命をくれ。殿下に直言する。届かねば、我ら三人、その場で腹を斬る。すまぬ、私が決断できなかったばかりに、お主らを巻き込む事になったようだ」


三成は悔やんでいた。太閤殿下を止められなかった事を。命令のままに執行を進めていた自分を。


豊臣家の崩落を確信しながら、何ら手を打てなかった自分の不甲斐なさを。


「ふん、そんな事だけでいいのか」

「秀次公と共に来た。とうに命は置いてきたわ。それにな、我らだけではないぞ」

唇を噛む三成に、清正と正則は軽い声を掛けた。


「何?」


「秀次公がおひとりで来られたのは、他の方々を押し留めたからよ。秀秋殿、秀保殿、秀康殿、秀家殿。皆が殺気だって兵を挙げんとしていた」

「なんと……」

「天下に騒乱は起こさせん。例えその引き換えが豊臣の天下だとしても。豊臣の天下より、天下そのものが大事である……くれてやれ、天下など。治めたいと思う者はそう多くない。くれてやれば片付く……秀次公の御言葉だ」


「秀次公……あなたは……」


豊臣に弓を引いてでも、その覚悟か――事、ここに至って石田三成は真に覚悟を決めた。


「止めてみせる。石田治部少輔三成、その職責に賭けて、我が命に賭けて――!」




可児と共に本堂に入った秀次が見たものは、白装束を纏って目の前に切腹用の脇差を置いている秀勝である。

突然、乱暴に扉を開けて入ってきた乱入者に驚いた秀勝は、入ってきたのが秀次である事に二度驚いた。


「あ、あ、あに、うえ」

何を言っていいか分からない秀勝。

勝手に来た事は間違いない、だがそんな事をすれば兄も同罪となりかねない、そもそもここは三成の手勢が、いやそれは背後の可児才蔵が、だが戦いの音など聞こえなかったが、それよりなぜ兄が! と絶賛混乱中である。


秀次が、秀勝の場所まで歩いて行き、頭の上から言った。

「よぉ、秀勝。着替えろ、秀吉んとこに行くぞ」



大坂城への道程、すっかり痩せてしまった秀勝を心配して、秀次は駕籠を用意させた。そしてこれまでの経緯を秀勝に聞いた。


「……思えば、私の家老である中村や堀尾らがよく殿下に呼ばれていました。私は殿下が私の職責について、家老を通して指示や注意を与えるためだと思っていました。しかし今考えてみれば、藤一郎の話が多かったと……殿下にとっても甥の子、拾にとっても叔父の子、話題に上がるのは当然であろうと思っていました……」


(……秀勝に息子が産まれた。引鉄はそれか。拾より一つ下だが、現関白職の嫡子。拾が元服するまで自分が生きていられる自信が無かったからか?)


「その後、殿下とは余り会っておりません。渡海した諸将に貸し付けた金はこちらで処理しました。さすがに何の褒美も出せぬ戦でした故、とりあえず借金の事はと思いまして。徳政令は出せませぬが、その、それは」

「お前が使ったという事にして、借金自体を無かった事にしたんだろ。それは聞いてるよ。お前は正しい。あの状況で取り立てなんぞしてみろ、諸大名は他から借りるか、領民から搾り取るしかないぞ。そんな事になったら一揆だらけになる」

「私もそう思い、金は私が使った事にして処理しました。この件は殿下にも報じております」

「殿下はなんと?」

「いえ、特になにも……私も報告してから何も仰られていなかったのでその線で進めました」


「(秀吉……それを罪状としたのかよ。滅茶苦茶だ)それからは? 何かなかったか」


「いえ、国許に一度大名達を戻してはいかがかと申し上げたくらいです。その後、しばらくしてから聚楽第に浅野長政が来て、関白職の剥奪と高野山にて謹慎せよと……」


(なるほど、子飼いの将以外を大坂から離してから実行に移したわけか。ところが子飼いの将である清正や正則まで直訴に及んで、キレちまった。周りに誰も味方がいないとでも思ったか? 秀吉。味方を無くしていくような事をしたのは自分だろうに)


「あとは、ずっと高野山にいました。外と連絡を取る手段もなく……不安でした。とにかく不安で、これから自分はどうなるのかと。藤一郎はどうなったのか、江はどうなったのかと、そんな事ばかり考えていました」


「あー、藤一郎と江はなんともなってねぇよ。普通に大坂城の西の丸にいる」

「西の丸?」

「お袋様がな、江と藤一郎を保護した……というか、なんというか。あのままだと、江は太閤殿下と刺し違えに行きかねなかった。それくらいやばかったらしい。愛されてるな、お前」


にやりと笑いながら秀勝をからかう秀次。久しぶりに見た秀次の笑みを見た秀勝は力なく笑った。

「そうですか、江がそんな事を……北政所様には頭が上がりませんね」

「安心しろ、元から上がらん」

秀勝は笑顔で、泣いていた。おそらく、自分が泣いている事にも気がついていないだろう。

秀次も視線を前に戻した。今は泣かせてやったほうがいい、そう思ったから。


「とにかく、話は大体分かった。大坂城へ行く。今回の件、お前は関白職を剥奪されている。公家との付き合いで分かっているだろうが、官職をこうも手順抜きに勝手に剥奪してしまえば、朝廷は豊臣家に不審を持つ。まして、従一位だからな。本来なら摂関家で持ち回りの役職を豊臣家が莫大な財と武力を背景に持っているだけの事。つまり……」


「この機会に、関白職を取り戻そうとするやも知れぬ、と?」

秀勝が顔を上げた。既に涙は止まっている。しっかりと政治家の顔になっていた。


「ぼやぼやしてたら、そういう動きが出て来るだろ。ま、そうさせないように動くがね。というか、実は摂関家が動くかどうかは微妙な所だ。朝廷の荘園、金銀の寄進、かつての公家達の借金の返済などを行ったのは豊臣家だ。御所を修復したのは信長様だが、それから維持や新たな邸宅の建造や別荘の手配等、全部引き揚げるとなったら朝廷は応仁の時代に戻るぞ。だからそこまで心配はしていないが……今は官職を豊臣家が好きに与えている状態だからな。公家用の官職まで手を伸ばすのではないかと、警戒しているところはあるだろう。だから、今日中に終わらせるぞ」


「……今日中、ですか」


秀勝はじっと秀次の顔を見た。秀次は少し緊張した面持ちで答えた。


「今から、大坂城に行って、太閤殿下に直談判だ。お前は俺の後ろにいるだけでいい。話は俺がする。秀秋、秀康、秀保、秀家も後ろに控えさせるだけだ……ああ、先に言っておくが、説得に失敗したら俺たちは斬首だろうな……そうなれば、太閤殿下は終わりだ。もう誰も着いてこぬよ。そうなれば、後は徳川殿と黒田殿が世を纏めるだろうさ。上杉殿や毛利殿と話し合って、な」


秀次は自分の馬に跨ると、大坂城への道を進み始めた。駕籠に乗った秀勝と共に。


秀次の側にいるのは、可児才蔵が率いる二十騎ほどの兵。大軍を動かすわけには行かなかった。それをやれば、天下を二分する大戦になってしまう。


(ここで止める)


先頭を行く秀次は悲壮な覚悟を決めていた。


(ここで止めないと、あんたは英雄から化物になっちまうよ、秀吉……そんなあんたは見たくない)




大坂城、評定の間。


今、秀次が秀吉の座るべき場所の正面に座っている。

その後ろに、高野山から引っ張り出された秀勝、宇喜多家を総動員しようとしていた秀家、蟄居閉門中の豊臣子飼いの将達を纏めて高野山に攻め入るつもりだった秀康、大和から兵を率いて大坂に来た秀保、北政所に言われて奉行衆を抑えていた秀秋が並んでいる。



他には誰もいない。


豊臣家の問題として、他の者には席を外して貰ったのである。

(城下は混乱してるかも知れんから、風魔の人間を放って動揺しないように抑えてくれとは言っておいたが、大丈夫かな? まあ、小太郎ならなんとでもするだろう。徳川殿や如水殿も動きは無かった。とりあえず、任せてくれるって事か)


本来なら豊臣家の長者である秀吉が、一度は後継者として定めた(少なくとも表向きは)秀勝を曖昧な罪状で糾弾し、関白職を剥奪した事が発端である。豊臣の長者であり、太閤である秀吉は天下人。名前だけでなく、実も伴う天下人である。既に豊臣政権は動き出しており、そこで秀吉が秀勝をあのような理由で後継者から外し、関白職を剥奪するなど、あってはならない事である。


豊臣政権の信頼は地に落ちる。「太閤殿下の気分次第で、関白様ですら思いのままか」そう思われたら、その政権は長くない。疑念が生まれれば、中には大坂の権威を見限る者が出てきかねない。どうせ関白ですら意に沿わぬとあらば斬られる……ならば自分の家の存続も保障してはくれないのではないか? そう思う大名が出てくれば、もう一度戦国時代に戻りかねない。


もしそうなったら、秀次は秀吉を相手に戦国最後の下剋上の戦いを仕掛ける必要があっただろう。


(秀勝が切腹していたら、そうなっていたな。俺が大坂に軍を進める。さて、そうなれば徳川殿と俺が中核となり、政宗も来るかな。正則や清正は、それでも三成らと共に大坂城に入りそうだが。俺と徳川殿の軍勢なら、現在の政権で微妙な立場の者は取り込めたかな? 長宗我部、島津、ああ宗茂の伝手で大友、九戸の伝手で奥州の南部とか。上杉はどうかな、兼続は三成と仲がいいらしいが、それでももし、俺が挙兵していたらこっちの大義は関白切腹に対しての義挙となるから、話次第では着くかな。毛利は……どうかな。関ヶ原の戦いを見る限り、中立でいてくれたら所領安堵程度で動けなくできるか? ま、全てはもう意味のない仮定の話、か)


もし、この直言が届かないなら、自分は死ぬ。ここにいる兄弟達全てが死を賜るだろう。

そして、秀吉と拾だけが残る。だが、そんな事を誰が認めるというのか。秀吉は孤独の内に死ぬだろう。拾から引き離されて。


(老い、耄碌、言い方は色々だが……たぶんそうじゃない。老いから来たものだとしても、根元には違うものがある。それを忘れない事だ。突破口はそこにあるはず。そう、秀吉は、不安なのだ)


そう考えていると、評定の間の奥の襖が開いた。

小姓二人を連れて、秀吉が入ってきた。ゆっくりと歩き、上座にゆったりと座った。

その瞬間、秀次とその兄弟達は一斉に頭を下げた。



どれくらい、そうしていただろうか。


秀次か、秀吉か。ともかくどちらかが言葉を開こうとした時。


評定の間に、北政所が表から入ってきた。

北政所の後ろには、石田三成、加藤清正、福島正則が控えている。


無言で北政所は歩みを進め、秀勝の横を過ぎ、秀次の横を過ぎ、評定の間の上座……秀吉の横に座った。ごく自然に。


「お前さま」


深い悲しみと深い慈愛の入り混じった瞳を秀吉に向けて、やさしくそう言った。


その瞳をしばらく見ていた秀吉は、やっと声を出した。




「一同、表を上げよ」


豊臣家最後の評定(いくさ )が始まった。



次回、最終回です。

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