英雄ゆえに
豊臣秀勝、謀反の疑惑により関白職剥奪。
高野山にて謹慎の措置が降る。
豊臣政権に激震が走った。
「豊臣家の財を私的に流用し、各大名家に貸し付け自らの覇権を確立しようと工作。畏れ多くも朝廷に対して献金し自らの正当性を示すため、錦の御旗を仰がんとす。甚だ許し難し……」
誰がこんな事を信じるであろうか。まさに取ってつけたような理由である。
当然、その処置に抗議する者は多かった。
加藤清正、福島正則、細川忠興、黒田長政、以上の者蟄居閉門。
前田利家、大坂にて謹慎。
太閤に対し、直訴に及んだ結果である。
彼らは大坂に居た。ゆえに直訴する事が出来たと言える。
この沙汰が降る前に、秀吉は諸将の多くを国許へと戻る許可を出していた。
家康も景勝も輝元も国許へ戻っていた。当然、秀次も江戸に戻っていた。
残っていたのは子飼いの将と奉行衆くらいのものであった。
実際に秀勝の下に赴いて沙汰を伝えたのは浅野長政である。奉行衆筆頭として、彼は理不尽極まりない命令に従うしかなかった。
今の太閤殿下は普通ではない……そう言って清正らの直訴を止めようとした三成であったが、激昂した彼らにその言葉は届かず、みすみす自らの朋輩を蟄居閉門に追い込んでしまった。
「決して短慮を起こすな。今、方々に連絡を取って打開策を打っている所である」
自邸にて謹慎する清正らに密かに連絡を取り、自重を求めるのが精いっぱいであった。
実際は三成がどうこう出来る範疇を完全に超えていた。三成の立場から言えば、太閤秀吉の命令は絶対である。奉行職としての職分を全うするなら粛々と秀勝の処置を命令通りに執行するのが筋である。
(だがそんな事をすれば豊臣家は終わりだ)
三成はとにかく、自らの手の者を使ってひたすらに各地に事の次第を詳細に記した書状を飛ばした。
奉行職として持てる限りの権限を使って刑の執行を遅らせて、その間になんとか秀吉の気を変えさせなければいけない。
(高野山で謹慎している間に、どうにか太閤殿下を説得するしかない)
三成が出来うる限りの手段を講じている間、動いている者もいた。
秀勝の正室、江もその一人である。
北政所に夫の潔白を訴え、姉である茶々に夫の無実を訴える。憔悴しきった様相で涙ながらに訴えるその姿に、北政所は胸が潰されるような気持ちを覚えた。
北政所は必ず取り成すから心配するでないと声を掛けてやるのが精いっぱいであった。同時に彼女は動き出す。
黒田如水に、徳川家康に、上杉景勝に、毛利輝元に、宇喜多秀家に、そして豊臣秀次に早馬を出した。
話を整理しよう。
文禄四年の正月を過ぎた頃、豊臣秀勝と江の間に嫡男が誕生する。その一ヶ月ほど前には秀次に長女が誕生していた。この立て続けに湧いた慶事に豊臣家や諸大名達はこぞって祝賀を送り、朝廷からも祝いの品が届くほどであった。まあ、秀次が従二位内大臣、秀勝は従一位関白である。朝廷から祝賀を賜るのは当然であった。
この頃から、秀吉は口数が少なくなった。いつも何かを考えているような、何かを振り払おうとしているような、時に苦悶の表情を、時に晴れ渡った表情を見せるようになり、過ごす場所も淀城が増えた。拾をあやす茶々の側で、「お前は豊臣の長者となる男ぞ~」と頭を撫でてやる姿が頻繁にみられるようになっていた。
そしてこの頃から、中村一氏、堀尾吉晴ら秀勝に付けられた家老達が秀吉に呼ばれる事が多くなった。この時は誰も、謀反の事など当然話していない。秀吉からも「秀勝はどうじゃ、ようやっておるか」そんな話が出るくらいである。
頻繁に呼ばれる家老達だったが、特に気にも留めていなかった。
「太閤殿下も関白様の仕事振りをお知りになりたいのであろう。孫子ほども歳が離れておられるゆえ、心配なのじゃ」
その程度の事だと思っていた。回を重ねるごとに、秀勝の嫡男である藤一郎の話題が増えている事も気にしていなかった。
秀吉がほぼ淀城に滞在しているので、自然と大坂城は主が不在となる。秀勝は聚楽第で政務を執っていたが、一部の大大名や高位公家衆などは形式通りに対面する必要があるため、大坂城で行う事もあった。これは秀吉が名護屋城にいる間も、同じように行っていた事である。
秀吉には、大坂城の主が誰か、周囲に印象づけようとしているように見えた。他の誰もがそんな事は露ほども思わなかったが、秀吉のみがそう思った。
すくすくと育つ、織田と浅井、豊臣の血を引く嫡男。大坂城で政務を執るその姿……秀吉の胸の中にあった暗い感情は、次第にその色を明確にしていく。
きっかけは、秀吉からであった。あるいは、秀勝からであったとも言える。
文禄の役が終わり、明からの使者が日本へ来られそうもないとなると、大坂に多くの大名を置いておく必要はない。そろそろ領国へ戻って領地の整備や領民の慰撫を行わせたほうがいいのではないか、そう秀勝が言上してきたのだ。
ほんの一瞬の間があった。
秀吉はそれを許した。但し、大領を持つ者や長く戻っていない者を優先的に戻す事、国許への戻り願いはこの秀吉に差し出す事、戻る大名は自分が決める事を言い渡した。
秀吉は豊臣秀次、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、小早川隆景、長宗我部元親、九鬼嘉隆、池田輝政の順に帰国を許した。
さらにその後、宇喜多秀家、豊臣秀康、豊臣秀保を帰国させた。
自分の周囲を子飼いの正則、清正、長政といった者だけとし、後は奉行衆のみを大坂に残した。
細川忠興は淀城の警備の任を与えられていたので、残っていただけの事である。
自分の補佐役であり、秀勝の相談役である前田利家は手元に残した。
利家まで帰してしまえば、どうなるかわからない……なにがどうなるのがわからないのか、秀吉はそれすら判断できなくなっていた。利家に諌められるのが怖いのか、利家に甘えてしまうのが怖いのか、利家が領国に戻ってしまうのが怖いのか……。
そして文禄四年、五月。
冒頭の通り、秀勝の関白職剥奪という暴挙に出た。
「殿下はどうなされたのか……」
江に戸惑った様子でそう言ったのは茶々である。
彼女にしてみれば、妹の夫が自分の息子を後見してくれるはずであった。義理の弟が後見人として拾の面倒を見てくれるなら、なんの文句もない。これが後見人が自分に何の縁もない秀次であったなら、彼女は自分の息子が天下人になれぬのではないかと気を揉んだであろうが、秀次は関東八州を拝領して大坂から遠ざかった。政治的感覚に乏しい茶々からして見ても、秀次が政権中枢から遠のいたのは分かる。代わりに政権の中枢に座った男は自分の妹婿。秀吉の嫡男を産んだ茶々にしてみれば、全てがうまくいっているようにしか見えなかった。
この時点で、誰も秀吉の心中に思い至っていない。ある意味、それは当然の事であった。
秀吉は一代の英傑であり英雄である。本能寺の変が無ければ、天下人にはなっていなかっただろうが、間違いなく次代の日本を形作れる男であっただろう。
故に、秀吉の心情に辿り着ける者はいなかった。同じように天下を志した事のある、家康や如水でも完全には把握できなかっただろう。精々、自分の嫡男が天下人になるために不確定要素の排除に動き出した……そう思っていたくらいである。
逆に言えばそう思っていたからこそ、彼らは強く秀吉を諌める事が出来なかった。下手に秀勝を庇うと次は自分か、そう思って当然である。秀吉から警戒されている事は事実なのだから。
この時の秀吉の心情を理解し、その行いを諌めて止める事が出来る人物は、かつては居た。
弟の秀長である。
だが、彼は既にこの世にいない。兄を理解し、兄を補佐してきた苦労人は故人であった。
もし秀長が生きていれば、そもそも関白職の剥奪などと言う暴挙を許さなかったであろう。
秀吉は英雄であった。間違いなく、歴史上に燦然と輝く英雄であった。
英雄が耄碌して凡人に落ち、愚鈍になっていったのか?
秀次もかつてはそう思っていた。史実だけを見ればその通りなのだから。
だが、側で見続けてきた今、秀吉の本質に迫った。
(人誑しの天才……聞こえはいいが、”自分のカリスマが通用する相手”を抱き込む事にかけての天才だっただけの事か。自分より器の小さい男は問答無用で飲みこめる。そして、飲みこんだ相手に与えるのは”利益”。決して武家の長久に渡る家の保全や、一所懸命を理解できないのだ。利益を渡せなくなれば、人は離れると思っている……朝廷を抑え、官位を極め、大軍を擁して敵対者を排除しても、不安なのだ。根底にあるのは、不安。何もかも、それこそ才能すら引き剥がしてしまえば、秀吉には何もない。そう思っている。だから、秀吉は……自分の命すら場に乗せて賭け事が出来るが、誰も信じられない。信じているのは自分にとって”無害”な者だけ、か。だからこそ……秀勝を信じられなかった。俺を信じられなかった。自分の息子である秀頼だけが……それだけが秀吉の信じる唯一の存在になってしまっている。自分より器が大きいかも知れない、そう思わせる相手がいた場合、秀吉は止まってしまうのだ。おそらく、信長が、織田信長だけがその存在だった。飲みこめない、抱き込めない、本人は決してそう思っていないだろうが、だから従った。どんな無茶でも聞いた。信長の側で自らの才が通じる相手には強かった。背後には信長が居た、だから出来た。それだけなら秀吉は本能寺の変が起こった時、中国で終わっている。飛躍……大きすぎる器が上にあったが、それが取れた事により潰れるのではなく飛躍した。正しく、その瞬間から英雄になったのではないか? 俺はその後の秀吉しか知らん。知っていたのは秀長様だけだ。如水ですら、播磨に来る前の秀吉は知らん。英雄になってからの秀吉しか知らない。秀勝に対する件、俺に対する件、ひょっとして秀吉は……。極論だが……秀吉は英雄、ゆえに滅びの道に進み始めている。英雄は天下を取れる。天下を治める事が出来る。だが、天下太平を存続させるには英雄ではダメ、なのか……なら)
歴史に学ぶのであれば、英雄が作った天下国家は大抵が一代で終わっている。
統一に英雄が必要であったとしても、国家運営に必要なものは官僚組織であり、それは凡人達が担うものではないのか。
(徳川幕府が続いたわけだ)
家康は天下を取った後、自分が生きている間に次代へと権力を継承し、幕府が全国を統括する組織を作り上げた。
その上で、自分が死んだ後に体制を覆せる唯一の要素であった豊臣家を滅ぼした。
秀吉は天下を統一したが、天下を治めるまではいかなかった。
秀次はその理由を嫡子の誕生が遅すぎたからだと思っていた。
(英雄のままで統治者にはなれないって事か)
今は素直にそう思えた。
(それにしても……)
弟である秀勝が謀反の嫌疑によって高野山で謹慎させられている。
(本来なら、俺がそうなっていた、か。弟がこんな目にあうなら、俺が渡海せずに残っていたほうがマシだったな)
今、幾多の人間が秀吉の勘気を解こうと嘆願や懇願を続けている。
(逆に秀吉を追いつめる事になってるだろうな。多くの人間が助命嘆願に動けば、それがそのまま、秀勝の人望に見える……実際は人望はそれなりにあるだろうが、秀勝が本気で謀反起こすってんなら、着いて来る奴なんぞそうはいねぇってのに。俺が謀反起こそうったって着いてきてくれるのは兵庫に吉政、小太郎に宗茂、才蔵くらいだろ。それが分からないほど秀吉は追い詰められている。そう、追い詰められているんだろうな。幾人もの助命嘆願が手元に届くたびに、秀勝が実物よりも巨大に見えてるんだろうよ)
自分が渡海せずに残っていたら……拾が誕生してすぐに祝いだけ述べて関東に戻ったというに。
(が、それだけ秀勝が渡海する可能性が高かった。史実では朝鮮で死んでるからな、あいつ。行かせるわけにもいかねーし)
秀次の視界に大坂城が見えてきた。
「秀勝、お前は死なせん。兄が弟を見捨てるなんぞ、あってたまるか」
文禄四年、七月。
羽柴秀勝、高野山にて切腹の沙汰が降る。石田治部少輔三成を執行者兼見届け人とす。
奇しくも、史実で秀次が切腹した日である。
既に大坂に着いていた秀次は腹をくくった。
「叔父さん、俺が止めてやるよ。あんたが英雄である間に……」




