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発露

拾、後の秀頼が生まれた時、秀吉は声を挙げず、ただ涙した。

しばしの時を置き、ようやく呟いた言葉が「天は我を見捨てておらなんだ……」であったと言う。


秀吉に取ってはまさに最後の希望であっただろう。自身の老いを自覚し始めていたからこそ、待望の嫡男誕生に喜び、滂沱の涙を流した。この年、秀吉は57歳になっていた。


『拾い子は育つ』そんな民間信仰を現実化するために、秀吉は生まれたばかりのこの男児を一度大坂城の門前に『捨てて』から拾っている。『捨て子を拾った秀吉の旗本が秀吉に見せる』という芝居を願掛けとしてやったほどに気を使ったのだ。


神仏を騙してでも守りたかった子。それが秀頼である。


この男児誕生を喜んだのは秀吉だけではない。秀勝も大変喜んだ。

(これで江に男児が産まれなくても良くなった)


江と自分の間に男児が産まれれば、その子を豊臣の跡継ぎとして立てる……頭ではそれが正解だと理解していても、秀勝からしてみれば兄である秀次には既に嫡男がいる。さすがに憚りがあった。


だが拾が産まれた。秀吉の嫡男がいるのなら、秀勝の子や秀次の子には世継の芽はない。

自分達は拾の後見人となればよい……ようやく肩の荷が下りたと秀勝は思っていた。


まだ、この時は。




「嫡男誕生という慶事、これを逃せば機会はいつ巡るか分かりません。止めるなら今です」

秀勝はそう言って前田利家を説得。利家も「異存はない」として秀吉の説得に回る。


平壌にまで到達していた渡海軍、名護屋城からの命により停戦。戦後の交渉のために一部の部隊だけを残して撤退を始める。

福島正則、加藤清正ら若手諸将達は朝鮮の地を取り、せめて報酬の確定が欲しかったが、秀次を初めとして家康や輝元が停戦命令に従ったため、不満がありながらも撤退に同意した。

彼らが撤退に同意した背景には、平壌決戦を制した後、さらに進軍しようと息巻いて出立したが、明からさらなる援軍が到着。遭遇戦のような形で始まった戦で被害を受けた事もある。この戦いはいち早く異変に気付いた豊臣秀康が援軍として駆けつけ、秀康本人が最前線にまで出て奮戦する事により、福島・加藤らを救援することに成功。平壌に退く事が出来たのだが、少なくとも明にはまだまだ余力があると渡海軍が認識するには十分な出来事であった。


結果として、さして得る物無く終わった渡海軍。が、秀次だけは動いていた。


秀次は総大将として自らの軍を殿とし、最後に撤退。

その際、進軍速度を落とさぬためとして、槍、刀、弓、鉄砲を含む武器類と兵糧を遺棄。『なぜか』朝鮮軍の一部の部隊がそれを知っており、遺棄された物資を持ち去る事に成功する。

無論、事前に風魔から情報を漏らされていた女真族の部隊である。彼らはそれらの物資を持って故郷の地に帰り、ヌルハチの下で着々と準備を整える事になる。


秀次にとって、今回の朝鮮出兵は止めれなかった時点で”勝ち”はないと思っている。統治に必要なコストがリターンを大きく上回ってしまう。それだけ異国の地というのは治めるのが難しい。ましてや、日本軍が攻め込んでくる前年まで、毎年のように飢饉が発生し流民が食を求めて王城にやってくるという事を繰り返していた地である。

(ヌルハチを動かして、明と朝鮮王朝を釘づけにする。テコ入れをしてやれば、清の成立が早まる可能性は十分にある。清の設立に協力すれば、日清間での貿易も可能になる。ま、それは早くても十年は先の事だろうが)


秀次は秀次なりに未来図を描いていた。

大陸は清に治めて貰い、貿易に留める。北は出来れば樺太、南は台湾辺りまでを支配下に置く事により、治世の世の受け皿を大きくしようとしていたのだ。


(とりあえず、帰れる。やっとだ、まったく平壌まで至ったはいいが、明軍の増援がさらに到着とは。さすがに平壌と背後の兵站を維持するだけで精いっぱいだったな。これ以上の北上は無理だった。いい時期だったよ、秀勝)


ヌルハチへの援助と今後の取引ルートを細々としたものながら構築した秀次は、朝鮮出兵での目的は達した。

後は、明側と日本側の交渉次第である。


(史実では互いに嘘をついて相手が降伏した事にするんだっけか? まあ、その辺りの事は秀吉と事務方、奉行衆の仕事だ。うまく行ってほしいけどな)


こうして渡海軍は撤退した。

諸将は名護屋城で秀吉から労いの言葉を受け、解散する……と思っていたが、秀吉は生まれたばかりの拾に付き添って淀城にいると言う。

これにはさすがに秀次も開いた口が塞がらなかった。

「つまり、太閤殿下は現在、淀城に居られると」

秀次の前に平伏し、秀吉の居場所を告げたのは、奉行筆頭の石田三成。治部少輔である。

「はっ、殿下におかれましては、渡海された諸将の皆様には、大坂にて面会致すとのお達しであります」

「……承知した。順次、出発しよう……三成、ここ名護屋城で長きに渡る戦塵を落としたい。その後、各々大坂へ向かうとしよう」

「ははっ! 既に湯の用意は出来ておりますゆえ、皆様、長きの対陣まずはお疲れ様でした。どうかゆるりとお過ごし下さい。既に太閤様の命で明への特使は発しておりますゆえ、大坂へは二十日の後に登られれば良いとの仰せです」

さすがに三成はこういった饗応は手慣れたものである。諸将は湯に浸かり、歓待の宴を一席設けた後、眠りについた。

一部の将を除いて。


加藤清正に割り当てられた部屋に、福島正則と石田三成がいる。

多少の酒が入っているが、清正も正則も酔うほどには飲んでいない。聞きたい事があったため、三成を呼び出したのだ。


「三成、殿下は此度の戦、どう考えておられる。というか、どれほどの地を朝鮮から取るお積りじゃ」

清正が尋ねると、正則も頷く。彼らにしてみれば、どれくらいの報酬があるかどうかである。渡海軍を出すに当たって、金を関白から借りているのだ。もっとも気になる部分である。


三成は少し考えてから話し出した。

「正直に話そう。だが、この話、ここだけとしてくれるか」

「む、なんぞあるのか。儂らとお主の仲じゃ。気にすな。のう、正則」

「ああ、大丈夫だが、どうかしたのか」

清正と正則がそう言うが、三成はまだ口籠っていた。やがて、ゆっくりと話し出す。


「まず、特使として先に博多聖福寺の景轍玄蘇殿が数人を伴って立っておる。これは会談の場所や日時を決めるためだ。実際に交渉に赴くのは、この治部少輔と増田長盛、大谷吉継が正使といて行く。先導と護衛は小西行長に、と太閤様の仰せだ」

「なんじゃ、お主が行くのか」

「ああ、そうだ。具体的な内容だが……その内容が問題なのだ。まず、明の皇女を天皇陛下の妃として送る事、つまりは人質だな。次に朝鮮の南、具体的に言えば漢城以南を日本に割譲する事、朝鮮王朝は王子と重臣二名を人質として大坂に送る事、朝鮮は今後日本に背かない事を約定するもの。それらを全て、明の大臣と日本の大臣との間で誓紙を取り交わす事……」


言いながらだんだんと声が落ちていく三成。どれほど無茶な要求か、分かっているのである。

「他には貿易や細々とした取り決めはあるが、大きくはそんな所だ。とても明が飲むまい……」

「飲まんのか? 飲まねば、今度こそ朝鮮を越えて明へと進むだけではないか」

清正が軽く言った。三成は頭を抱えたくなった。


「明は敗けてはおらぬ。打撃は与えたが、あの国はとんでもなく大きい。これ以上、戦闘を継続するならこちらの国力が先に尽きかけない……朝鮮は明に冊封で守られた、言わば属国。明側が朝鮮の割譲など認めるものか。それに、もう一度海を越えて戦を起こすなら、それこそお主ら、金はあるのか? 兵糧や兵は?」

「む……関白様にお借りした金子も返済しておらぬし……国許から徴収するしか……」

正則がそう言った時、三成が制止した。

「やめておけ。やっと戦の世が遠のいた所だ。ここで重税など架してみろ、すぐに一揆が起こり、国許がおかしくなるぞ。関白様から、自分への借銭は今は返さずとも良いと伝えよと言われておる」


自分に返す金があるなら、領内の整備に回せ、今は余計な事を考えずとも良い――後日、借金の猶予や新たな担保の申し込みに来た諸将に対して言った秀勝の言葉である。事実上の、借金なし。徳政令ともいえる。


実はこれを伝えるのが三成は最も苦しかった。清正や正則に対してではない。秀勝に対してである。

秀勝の所領は丹波・丹後。これに関白職の職手当が百万石。それだけで各諸将からの借金の全てを賄えるわけがない。実は、北政所から融通してもらい、足りない分に宛てていた。

これを返さなくていい、となると、ではその金はどうするのか? という問題に突き当たる。

秀勝は自分の財布だけで賄いきれなくなった辺りから、一つの決断をしていた。


『関白職豊臣秀勝、豪遊・乱行』


貸し付けた金を自分が遊興に使い切ったという形にし、借金そのものを飲みこんだのだ。

手を貸した三成が蒼白になるほどの金額であったらしく、北政所から「もう少し理由を考えなさい」と諌められている。しかし、秀勝は北政所から諌められた理由を「我の乱行についてよ」と周囲に話す事によって既成事実化した。


「三成、つまり、今後はどうなるのだ? また渡海して朝鮮と戦うのか、それとも終わりか」

「……難しい」

清正の問いに三成はそれだけ答えた。


「もう一度、やるしかないのではないか。こちらからの要求が通る事はないとお主は見ておるのじゃろ。今回動員されなかった大名達を使って再度行くしかないのではないか」

正則が身を乗り出して三成に迫った。行くとなればもう一度行く、そう言うように。

「……小西と増田、大谷とは話をする。相手が絶対に飲めない要求は取り下げるつもりだ。代わりになんらかの譲歩を引き出す。それで太閤殿下が止まってくれれば良いが……」

「殿下の要求を改竄する気か! それはさすがにお主の職分を超えるぞ! いくらお主が治部少輔と言っても出過ぎた真似は身を滅ぼすぞ!」

清正が血相を変えて迫るが、三成は首を振った。

「これ以上、明と戦い続ければ先にこちらが破綻する。朝鮮を獲っても、必ず明は奪還に動く。朝鮮を獲った後、こちらが明に従うとでも言えればやりようはあるが、太閤殿下は明を支配下に置く事に執着しておられる。秀勝様と前田様、北政所様が嫡男ご誕生の慶事として休戦を進言したからこそ、軍を戻せた。大体、秀勝様に借金をしていない渡海した諸将がどれほどいると思う? 秀次様と徳川殿くらいだ。上杉殿と毛利殿は大身ゆえ、額も少なくどうとでもなろうが、お主らはそうではあるまい」

清正と正則にとっては耳の痛い話である。正直な所、秀勝からの事実上の徳政令は渡りに船であった。

「では終わりにする方向でお主は動くのだな」

「そのつもりではある。が、全ては殿下次第。どうなるか……落としどころが見えぬのだ。漢城以南全ては無理にしても、釜山の港くらいは最低でも取らねばこちらも体面が立たぬが、取れば取ったで釜山周辺を誰に与えどう扱うのか、こちら側でまた問題が……とにかく、明日は秀次様とも話す。良いな、この話はこの場限りじゃ。大坂に戻っても、決して漏らしてくれるな」

清正と正則は揃って頷いた。同時にこれから渡海する三成を心配もしていた。

「三成、護衛は小西だと言ったな。儂か正則が行ったほうが良くはないか? 聞く限り、交渉が物別れに終わればその場で戦闘が始まりかねんと思うのだが。儂か正則なら、お主を守って釜山まで退く事は容易い。現場で何かあった時も、手順を飛ばして儂らに物も言えよう。無論、お主が正使なのじゃから、お主の下知には従うぞ」

「そうだな、釜山に大帆船を着けておけば退くのも容易かろう。秀次様に話を通して、水軍の一部を出して貰うほうが良い」

口々にそういうが、三成は力なく首を振った。

「人選を決められたのは太閤殿下だ。覆す事は出来ぬ。小西殿は現地の言葉も話せる。実際に渡海して戦っておるのはお主らと同じ。気持ちはありがたく受け取っておく。相当に困難な交渉になる。お主らを連れて行って相手が威圧を前提に交渉する気か、と取られては元も子もない」

「……分かった。気を付けて行け、三成。秀次様とは話してから行けよ」



数日後、三成は小西行長の軍と共に海を渡る。

明の特使との交渉のために。



淀城。

秀吉が愛妾である茶々のために造らせた城である。

ここで秀吉は茶々と拾、親子三人水入らずの生活を送っていた。


秀吉の喜びようはそれは凄まじく、茶々のために様々な打掛や新たな侍女を雇ってやるだけでなく、拾専門の薬師、祈祷師などを雇い入れていた。


「殿下、拾が今日は良く乳を飲みました」

「そうかそうか! この子は拾い子じゃ、きっと丈夫に育つぞ! 今度はこの淀城でお主が養育するのじゃ! この城で何不自由なく育てよう。何か必要な物がいるならば遠慮はいらんぞ。拾は儂の跡取りじゃ! 儂の跡取りなのじゃからな! そう、豊臣家の次期棟梁としてすぐにでも官位の用意を……」


拾をあやしていた秀吉の体が止まった。

「殿下? いかがいたしましたか?」


「いや……豊臣家の跡取りなのだから、ゆくゆくは関白となるわけだな」

「あら、それは素晴らしい! 関白殿下ともなれば教養も必要ですね!」


茶々は政治的な意識はない。というか、拾を産んだ、その前には鶴松を産んだ事により彼女の政治的立場は完全な物になっている。特に鶴松を失ってから、ようやく産まれた二人目の男児である。可愛さはあれど、それが政治に結びつくほどの事になるとは思っていない。そもそも、茶々に政治的な動きが出来るほどの能力はない。


しかし、秀吉には一つの懸念が頭を過ぎった。

(今の関白は秀勝……正室は茶々の妹で人望は厚い。戦に関しては秀次には及ばぬが、朝廷や公家からの受けも良い。教養もある。何より儂が名護屋に行っている間、大坂で実務を取っていたという実績がある……)


「あの、殿下?」


(秀次は関東、これは問題あるまい。これだけ離れており、これから関東八州の開拓もある……あやつは有能じゃ。秀頼の後見人としては十分……いや、秀次が後見人になるべきだ。あの男は儂に従順。様々な大名に伝手もある。徳川家とも結んでいる。秀勝は……秀勝はどうなのだ? 関白職を譲るだろうか? 思えば、拾が産まれると分かっていたら、関白職をあの男には譲る必要はなかった……?)


「殿下、どうかされましたか?」

茶々が不安そうに秀吉を見る。拾をその身に抱いて。


「いや……」

秀吉は首を振る。


「なんでもない」


抑揚のない声で、そう言った。



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