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文禄の役、運命の子

文禄元年、名護屋城がほぼ完成すると、全国から動員された大名が集まってきた。

元より城普請に関わっていた九州大名。

四国から長宗我部、小早川、上杉。

中国から毛利、池田。

近畿から福島、藤堂。

北陸から真田。

東海から徳川。

関東から秀次。


動員数は実に二十万。このうち、十八万が渡海する部隊である。


渡海軍総大将、羽柴秀次。


軍目付兼総参謀長、黒田如水。


以下、舞兵庫、立花宗茂、九戸成実、成田氏親、風間小太郎が秀次軍を構成する将である。

さすがに内政を丸投げしている田中吉政は関東から離れられない。彼は前野景定、木下利匡らを酷使しながら関東の政治を回していた。連れてきた兵は総勢六万。うち風間勢、つまり風魔一族の者が三千ほど各隊に分散して配置されている。


秀次の周囲には相変わらず馬廻りとして可児才蔵と風魔小太郎が控え、その身辺を守っている。

この時期、風間家は一部の上忍達が風間家家老として武士階級に登っている。と、言っても忍びの家、上忍だから家老というわけでもなく、家老だから上忍というわけではない。外から探ろうとも家内の組織がどうなっているのか非常に見えにくい構造にしていた。


秀次が直轄として率いる兵は五千。但し、実際に兵を動かす時は兵庫か宗茂か成実という、実力ある三人の中で近い者が指揮をとる、というかなり緩い指揮系統になっていた。無論、外からはそんな事は見えないが。


今回の唐入りに対して、全体戦略を考える立場として秀次が連れてきたのが黒田如水である。

如水は秀長から相談を受けていた事もあり、この唐入りには心情的には反対だが、秀吉の側で軍師をしてきた男。

如水は戦略目標をまずは漢城に置いた。速攻によって漢城までを一気に抜く。そこまでを第一目標とする事を秀次に献策してきていた。秀次もその案を了承。その後どうするかは、現地で明の援軍情報を集めてからとなる。


(綱渡りに近いな。しかし、この朝鮮という土地……史実でも未来でも知っている情報を統合すると、取れる取れないじゃなく取ったら負けくらいに思えてくるなぁ)



名護屋城には秀吉も既に入っている。側室の茶々を連れての入城である。


(色ボケめ、ここまで来ても茶々かよ……)

秀次は呆れたが、秀吉にしてみれば縁起担ぎらしい。

北条征伐に茶々を連れて行った事により、ほとんど被害らしい被害を被らずに勝てた。その縁起を担いだのだと周囲に秀吉は語っていた。

無論、ただの強弁に過ぎないが。



総大将である秀次本軍の下には四つの部隊が着く。


一番隊、大将徳川家康、副将黒田長政。


徳川家康はこの渡海作戦に戦上手を多く連れて来ていた。

徳川秀忠の他、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政の徳川四天王を筆頭に、平岩親吉、渡辺守綱、服部正成、大久保忠佐。

総勢三万五千。


副将の黒田長政は公式上は如水が隠居しているので、黒田家当主である。彼も信頼のおける将を連れてきている。

井上九郎右衛門、栗山利安、黒田一成、母里太兵衛、後藤又兵衛。

手勢は八千。黒田家には戦上手が揃っており、精鋭部隊と言えるだろう。

家康の副将として、文武に秀でた長政が努める。この一番隊が主戦力となる事は明白であった。



二番隊、大将毛利輝元、副将小早川隆景。


毛利家も当主輝元が自ら出陣。吉川広家が脇を固める。穂井田元清、天野元政、末次元康、佐々部元光らが従軍。

総兵力は二万三千。


副将の小早川隆景も毛利一族である。水軍も率いており、自らの差配で対馬から朝鮮への補給路を構築。秀次から輝元に送られた大帆船”赤鯉丸”を活用している。

小早川隆景もそろそろ歳だが、まだまだ現役の働きを期待されている。



三番隊、大将羽柴秀康、副将加藤清正。


徳川家から豊臣家に養子にきた秀康。史実では家康の関東移封に連動して結城家の養子をして送り込まれ、豊臣家を離れているのだが、関東移封は秀次だったので、秀康は豊臣家で養育されたままである。率いる将は、片桐且元、加藤嘉明、平野長泰、大谷吉継、糟屋武則など豊臣家の子飼い達である。率いる兵は一万五千。これは秀吉の天領から供出された兵も加えての数である。


副将は加藤清正。この唐入りに賛成であり、新たな武功に燃える男である。放っておくと戦線をいたずらに広げかねないので、秀康の下に付けられた。秀吉が武功によっては切取次第を認めると言ってしまったので、秀康に直訴して福島正則と共に先鋒に決まっている。


四番隊、大将上杉景勝、副将福島正則。


上杉景勝は当然のように直江兼続を連れて来ており、清野長範、水原親憲など信頼のおける将に加え、目ぼしい浪人を新たに雇い入れており、総兵力は一万五千。元々非常に無口な男だったため、渡海に関しては黙して語らず。


副将は福島正則。尾張守となっていたが、徳川勢が出陣しているので抑えの意味もないために全力出撃である。彼もまた、この唐入りで多くの武功を上げようと気炎を上げており、加藤清正と共に先方の役目を勝ち取った。



後備え、小西行長、藤堂高虎、池田輝政、真田昌幸。


真田に関しては後備えに加えるには明らかに他の三人に比べて身代が劣るが、秀次が特に請うて加わって貰った経緯がある。篭城戦においては古今に勝る者なしとまで言って連れてきたのだ。真田昌幸もこうまで言われれば悪い気はしない。


(信州の田舎大名と侮る者も多いが、天下にその才を示せば一角の将と言われるだけの力は儂にはある。秀次公に請われて来たのじゃ。信之も連れてきた。出番があれば、一つ真田の戦を見せてやろう。うまくやれば加増もありえるわい)

本人もやる気である。



水軍、総大将羽柴秀保、副将に長宗我部元親、九鬼嘉隆。


国内駐留軍は、前田利家、宇喜多秀家、最上義光、細川忠興、羽柴秀勝。

名護屋城には秀吉に付き添って秀家と忠興が共に入っている。

大坂には前田利家、奥州以北を監視するために豊臣家と縁戚になっている最上義光は領国に、同じ理由で蒲生氏郷も留め置かれた。


文禄元年、四月に軍勢は渡海。釜山に上陸し、拠点を築く。五月には釜山に後備えを残し、北上を開始する。この頃から朝鮮水軍が釜山周辺に出没し、日本側の補給を叩こうと海戦が起こるが、大帆船八隻を中核とした砲撃戦により勝利。李舜臣率いる水軍を半壊滅状態に追い込む。

この勝利により兵站を確保した渡海軍は漢城へと軍を進めた。


総大将である秀次の指揮の元、足並みをそろえて進軍した渡海軍は、幾度か朝鮮軍と戦い、これを破る。そのまま漢城へと到達すると、漢城の門は閉じていたが、守備兵の姿は無かった。李氏朝鮮の王は既に逃亡しており、漢城内部の一部は略奪された後があった。僅かな住民が残っているのみであり、多くの流民が発生していた。


漢城に陣をひいた渡海軍は、黒田如水の進言により後備えより小西行長、真田昌幸を呼び寄せ、一旦は漢城の守りを固める。漢城奪還に動く朝鮮軍を迎え撃ち、大きな打撃を与えた上でさらなる北進を考えるべし。それが策であった。


だが、ここで朝鮮軍は臨津江南岸を焼き払い、渡河の資材を消失させると臨津江の北岸に防衛線を張る。史実通り、この措置を取ったのは金命元将軍。彼は手勢一万二千を臨津江に張り付け、地形を利用して日本軍の北上を抑えようとし、渡河可能な地点に部隊を分けて配置していた。渡河させずに漢城に張り付けて置く事により、明からの援軍か、先に逃げた王が平壌あたりから徴募した兵を連れてくれば漢城奪還戦に入れると思っていたのだ。


小西行長、真田昌幸を加えた軍議では、二通りの案が出た。

一つは、臨津江北岸に陣取る敵を破り、更に北上すべしとの案。

一つは、このまま漢城に留まり、陣を構え、敵援軍を誘引し、この一戦で大きな打撃を与えて今後の戦を有利に進めようとの案。


前者は加藤清正、福島正則、黒田長政、小西行長、片桐且元、加藤嘉明、平野長泰など若い者達が主張した。


「この漢城を落としたと言っても、特に抵抗もありませんでした。これでは武功になりませぬ。この上は、平壌まで進み、とにかくこの朝鮮の地を取ってしまう事です。釜山から漢城、平壌までの兵站を整備し、明へと入るための補給路を作り上げてしまうのです!」加藤清正がこう主張すれば、福島正則がそれに賛同した。

「左様、目の前の臨津江を渡って蹴散らすべきです。南岸を燃やしたのは渡河資材を焼いたのでしょうが、彼奴らが守備隊を置いている場所がそのまま、渡河可能地点でしょう。そこを渡って対岸に乱入。私と清正の両軍が先鋒となって蹴散らしましょうぞ」


これに反論する形で後者の案を主張するのは、小早川隆景、羽柴秀康、真田昌幸である。


「無理をして攻めては損害も出よう。平壌に明の大軍が到着している可能性もある。今はこの漢城を要塞の如くに改築し、敵情を知るための草を放って情報が集まるのを待つべきだ」

小早川隆景が諭すように言った。続けて羽柴秀康もゆっくりと口を開いた。

「そもそも、この唐入りの目的は明である。朝鮮は本来、道案内として使う予定であった。それが交渉不成立となり今は敵となっている。なるほど、この漢城から軍が迫るだけで逃げ出した王は、まったくその器にあらず。が、明への援軍要請は必ず走っておる。平壌にまで進めば、どちらが先に平壌に入るか分からん。仮に我らが先に平壌に辿り着いたとして、その後すぐに明軍が襲い掛かってくれば、これはこちらが不利となろう。ゆえに、既に取った漢城を持って敵を引き付け、撃つ。それが上策かと思うが」


真田昌幸はしきりに頷いている。彼にしてみれば、篭城戦は得意中の得意。一箇所を受け持たせて貰えれば、鉄壁の守りを発揮して真田の名を高める機会があると思っている。野戦で進むとなれば、小勢の真田などは目立たぬ存在でしかない。

漢城で守りに入って貰ったほうがありがたいのが本音であった。


総大将である秀次はどちらの案にも意見を言わずにじっと座っている。

(三番目の策として、とりあえず漢城まで制圧したんだからなんか玉虫色の停戦協定結んで帰るってのは……ダメだろうなぁ。漢城まで取れたんだから漢城より南全てを割譲が停戦合意に至る条件になるだろうが、釜山を渡すなんて絶対に飲まんだろうしな。それ以上に秀吉がそんな条件を飲むわけがない。今、こっちから停戦合意していいですか、なんてお伺いを立ててみろ。秀吉が督戦のために海を渡りかねん。ちっ、明まで取れれば全取りだが現実には不可能、朝鮮だけなら可能だが取ったら負けかよ。兵站を切らさないようにしながら何か風向きが変わるのを待つしかない、か)



徳川家康、毛利輝元、上杉景勝も同じく黙して語らず。


立場の重い彼らはどちらの案にも乗るわけには行かない。黙っている人間の誰かがどちらかの案を支持すれば、それが決定事項になりかねない。

そこから不和の種が芽吹くのが最悪の考えであった。

そもそも、秀次も家康も輝元も景勝も考えは後者の案に近い。せいぜい、臨津江北岸にいる朝鮮軍だけは破っておくべきか、くらいの違いである。平壌まで兵を進めるなど、気が乗らないどころではない。

彼らが漢城での待ちを選択すればどうなるか。諸将は従うだろうが、血気盛んな若き大名達は不満を覚えるだろう。最悪、抜け駆けで渡河しかねない。


そして、方針をどう取るかを議論するだけで時間は過ぎていく。時間が過ぎるほど取れる選択肢は減っていき、なし崩し的に漢城での防衛戦になるのが望ましい。この辺りの軍議の誘導はさすがに黒田如水である。


その如水も、いや家康も輝元も景勝も秀康も、この朝鮮という地がいかに不毛の地であるかを漢城までの道程で見ていた。

荒地ばかりで食料の現地調達など望めない事、民も疲弊し、王朝がその機能を成していない事。

(この地を取ったところで……)

そう思ったのも無理はなかろう。


この間、秀次は小太郎に命じて風魔衆を放っている。

逃げた王はどこで兵を徴募し、どう動こうとしているのか。

冊封により援軍を出してくる明の軍勢はどれほどの規模か。それはいつ来るのか。

そして、選ばれた精鋭数名が後の布石のために満州へと走る。女真族との繋がりを持つためである。



こうして定まらぬ軍議を行っている間、釜山に荷揚げされた糧食、鉄砲、抱え鉄砲に国崩し、武具などが漢城へと運ばれてきている。

その間、朝鮮の王は明への援軍要請だけでなく民兵や朝鮮北方の守備兵を集結させ、約五万ほどの軍勢を整えている。この兵力を持って漢城奪還へと動こうとしたが、漢城にいる日本軍が思いのほか大軍であったため、漢城から離れた位置で行軍を停止。明からの援軍との合流を待つ事になる。


漢城から動かない日本軍、明の援軍を待つ朝鮮軍、共に行動を停止したまま、六月が終わる。

七月に入ると、明軍約五万が平壌に到達。史実通り、総大将は李如松。その報を受けた日本軍、漢城での迎撃戦を決定。


漢城とその周辺を要塞化する日本軍、明軍との合流を優先し動かない朝鮮軍。さらに明軍と合流した後も漢城周辺を探り戦機をうかがうために李如松は時間を掛けた。


小規模な戦闘が起こり始めたのが七月の終わり頃。本格的な攻防戦が開始されるのは八月に入ってからであった。


この後、徹底して漢城防衛に徹する日本側、大量の火器に阻まれて攻めきれない朝鮮・明側との戦いは長きに渡る事になる。



一方、日本では関白秀勝の孤独な戦いが続いていた。

本来、秀勝も共に名護屋に行くつもりだったのだが、秀次が出発後、秀勝は京に留め置かれた。

関白職として政務を執り行い、天下政道を治めるべし――それが秀勝に下された命である。

正式に関白職についた秀勝は聚楽第に入り、秀吉に代わって大坂と京を含めた近畿の抑えとなる。


同時に渡海する大名からの借金の申し込みを全て受ける。無論、彼の身代だけでは賄い切れない額だが、秀次と北政所から予め渡されていた資金を秀勝名義で貸し付ける事により体面を整えていた。

秀吉や他の大大名から金を借りれば、唐入りが失敗に終わった後に必ず問題となる。それが分かっていた秀勝は奉行職に「金の貸し付けは関白の職責にて行う。全てこちらに回すように」と申し送っている。


「大丈夫でしょうか?」

奉行職の一人、治部少輔である石田三成が心配してそう声を掛けた。

「仕方あるまい……この戦、どれほど長引くかまったく読めん。兄上が渡海している以上、そう酷い事にはならんと思うが、各大名の手弁当だけではすぐに破綻するぞ。それは治部にも分かっておろう」

「は、それは分かっておりますが……関白職として貸し付けるとなると、その金は天下万民の物。借金を返済できるほどの取り分が渡海した者達にあれば良いのですが、返済できぬとなればその大名は……」

「治部、そこまでだ」

三成の言を秀勝は止めた。返済できない大名は改易の対象となる……そうならぬよう、秀勝が金を貸し出しているのだ。秀勝は諸大名からの借金の申し込みは全て自分が被る腹積もりでいた。


(加減が難しい……際限なく貸し付ければ必ず焦げ付く。かといって出し渋れば唐入り失敗後に待っているのは領民への過酷な重税しかない。借用書を取るが、最悪無かった事にするしかないな)


秀勝は諸大名からの借金以外にも、唐入りの穏やかな着地点を模索しており、北政所や大政所とも話をしていた。が、鶴松を喪った秀吉の傷心は激しく、今は秀吉の好きにさせるしかないと判断。時が秀吉の心を癒すのを待つしかないとの結論に至っていた。


「私が嫡男を産めていれば……」

そう語る北政所の瞳に浮かぶ涙を見た秀勝は、説得を諦めた。


妻である江に茶々の見舞いに行かせ、様子を伺ったが茶々もまた鶴松を失った衝撃から立ち直っておらず、茶々から秀吉を諌めて貰うという線も無くなった。

なお、この時期に江は懐妊しており、子を失ったばかりの茶々を説得するのには無理があった。


(八方ふさがりか)


朝鮮を獲れば太閤殿下も止まるかも知れない……そんな希望的観測に望みを託すしかない秀勝だった。




文禄元年の十月、漢城防衛戦に動きがあった。

何度も攻撃を仕掛けてくる朝鮮・明の連合軍を日本軍が撃破。秀次、家康らの本隊が引き付けているところへの、加藤清正と福島正則による横撃で連合軍が混乱。すかさず黒田長政を先頭として反撃し、臨津江を越えて追撃。漢城周辺から敵を駆逐した。


これにより日本軍は漢城での迎撃から方針転換。平壌を目指して進軍を開始する。

名護屋城の秀吉からの催促が背景にあるが、攻勢派を抑え切れなくなっており、内部で争いの種が芽吹くよりは、との黒田如水の策により攻勢に転じたのだ。


漢城の抑えに小西行長と真田昌幸を残して、各将は平壌を目指して進撃。ここから長い戦いが始まる。



ちなみに史実では秀勝は渡海し、朝鮮で病にかかって死んでいる。渡海中に江が出産して、秀勝の子は江の再婚に差し障りがあるとして養女に出されている。


そしてある意味史実通り、江は懐妊し、文禄元年の暮れに姫を産んだ。幼名は珠。後の完子である。


さらに文禄二年。朝鮮では平壌決戦を日本軍が制し、全軍を集めての軍議が開かれている頃。


茶々姫は男児を産んだ。

幼名、拾。

後の豊臣秀頼である。


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