関白宣下
「肥前の名護屋に城を作れ」
九州の大名に秀吉はそう命令した。
同時に、全国の有力大名に対し、明攻めを通達。
「手柄によっては、切取次第を認める」
聞きようによっては、朝鮮・明の土地は活躍によって取り放題を認める……そう取れる発言である。
これを聞いた諸将の反応は二つに分かれた。色めき立つ者と、表情を消す者である。
「儂は名護屋に出来上がる城に入り、指揮を取る。その間、大坂でも事は秀勝に任せようと思う。
利家、秀勝を補佐してやってくれ。兵站は三成を筆頭に奉行が差配せよ。海路、侵攻する事になろう。船は大帆船(ガレオン船を秀吉はこう呼んでいた)を十二ほど用意してある。さらに多くの大帆船を造る。水軍は長宗我部元親、九鬼嘉隆の両名に預ける。兵を朝鮮の地へと届けよ。
何、我らの前には明と言えども膝を屈する以外はない。この儂が……この秀吉が大明国をも配下に置き、儂の国を作り上げる……者ども、奮え! ここが武功の稼ぎ時ぞ!」
「「おおぉっ!」」
(やる気になってるのは……清正、正則に……池田輝政辺りか。藤堂高虎も同じように歓声を挙げているが、あいつの場合はそれが本心かどうか分からんな……一応合わせるように声を挙げているのは、まあ、予想通り、時勢の読める人間か。黒田如水、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝か。名護屋城を造るのは九州勢……加藤清正、黒田長政、小西行長、島津義久辺りが造る……ま、黒田家と加藤家が中心になるな。金、足りるのか? その辺りはこっちでどうにかするか)
冷静に狂乱騒ぎを見ていた秀次はそう心の中で評した。
評定とも言えないような、秀吉の一方的な演説が終わり、諸将が評定の間を出て行く。
秀吉は満足そうに評定の間を見渡して、退出していく。
最後まで残ったのは秀次、秀勝、家康、輝元、景勝、如水。
一様に、顔には疲労の色があった。
「奥州の者は使わん……蝦夷への入植と開発が始まった所だ。動かせん。奥州勢監視の意味で蒲生殿にも残ってもらう……異存はありませんな?」
秀次がそう言うと、皆が頷いた。
「兄上、私は……」
「秀勝、お主は大坂に残らねばならん。殿下に言われただろう、大坂で天下政道を治めよ。最上と蒲生を通じて奥州勢の動向は掴んでおけよ」
「分かりました……前田殿も残って下さるとの事、何かあれば利家様に相談致します」
秀次は秀勝を名護屋城に入れ、秀吉には大坂城に居て貰おうと思っていた。秀吉が大坂城に居れば、最前線からは遠くなる。
明まで攻め上る気のない秀次にしてみれば、秀吉は後ろに居て貰ったほうが都合が良い。名護屋城には秀勝が名代として入れば良いと思っていたのだが、秀吉がやる気を出している。
(……しょうがねぇ、か。叔父上の説得すら耳を貸さなかったのだから……くそ、叔父上の命を賭した説得すら蹴ったのかよ。秀吉……大丈夫だよな? まだ秀頼は生まれてない、今の秀吉は子を失った悲しみから唐入りという白昼夢を見てるだけのはず……とにかくやるしかない、か。秀頼が生まれた時を見計らって一気に講和して全力で退く。それ以外にないか……)
「徳川殿、毛利殿、上杉殿、あなたたちは大隊を率いてください」
「大隊? 秀次殿、それは……?」
輝元の疑問に秀次はすぐに答えた。
「渡海する軍勢の総大将は私が。これは一族の者として、関八州を預かる者として、自然とそうなるでしょう。
が、諸将が渡海した後に勝手に戦っては効率が悪い。今のうちに命令系統を決めておこうと思いまして。徳川殿を一番隊に、毛利殿が二番隊、上杉殿が三番隊……それぞれに清正や正則などの各大名を付けます。勝手に戦い、勝手に領土を主張されるよりはよほど良いでしょう。
さらに軍目付として、如水殿に同行願います」
「ふむ、目付の件は承知いたした。兵は長政に預けましょう。黒田家の当主は既に長政。十分に働けるでしょうからな」
如水が軍目付の件を受けると、次に家康と輝元が発言した。
「名護屋城が完成すると同時に渡海、それまでに渡海する者を集めましょう。婿殿、この老骨にお任せあれ」
「小早川と吉川も投入するしかないですね。私も渡海しましょう。水軍として船の供出も出来ます。主力は大帆船でしょうが、それだけでは運搬能力が足りぬでしょう」
家康と輝元も覚悟を決めて、秀次の案を受けた。
「……陸での戦いはお任せを。兵站さえ維持できる限り、毘沙門天の加護は絶えますまい」
景勝がそう答えた事によって、評定の間に残った者達の腹は決まった。
各大名が領地へと戻った頃。
対馬の宋氏、改易の沙汰が降る。ここに至って朝鮮と日本の二股掛けが発覚したためである。
対馬は一時天領として豊臣家が没収。秀保が名代として対馬に入る事が決定した。
なお、宋氏を見張っていたのは風魔である。秀次にしてみればこんな序盤でつまづく要素なんぞ、取り除くに限ると思っている。
実際に二股掛けが発覚したから改易したが、最悪の場合、風魔による宋氏暗殺まで考えていた。
九州の大名は名護屋城の建築に取り掛かった。主に担当したのは加藤清正。城造りの名人と呼ばれる男である。
黒田長政、小西行長、島津義弘らの助力により急ピッチで進む建造。
同時に秀保が壱岐・対馬の港を整備に入る。
これらの手配をしたのは秀勝である。秀保を頭にして港の整備に必要な人材を送り込み、多くの銭を持たせて急ぎ工事させた。
名護屋城の主担当を命ぜられた清正には「名護屋城普請奉行職」として追加で俸禄を出す事により、援助している。
これらの働きぶりを見た秀吉は、秀勝の評価を改めた。
(ほう、秀次ばかりに眼が行っていたが、秀勝もなかなか。戦働きは秀次ほどは期待できぬかも知れぬが、それはしっかりとした軍師をつけてやればよかろう……大坂に残すのは多少の不安もあったが、この分であれば利家と相談しながら進めれば大きな事は起こるまい。ふむ、それには官位がちと足りぬな……儂が明攻めの総大将としてここを離れるのだ。この際……)
文禄元年、正月。
秀吉、関白辞職。太政大臣如元。
以後、太閤と名乗る。
これに伴い、他の者の官位昇進が行われた。
主な人物は……
羽柴秀次、従二位内大臣宣下。
徳川家康、従二位権大納言宣下。
前田利家、従二位右大臣宣下。
毛利輝元、従三位権中納言宣下。
上杉景勝、従三位近衛中将宣下。
羽柴秀秋、従三位左衛門督宣下。
羽柴秀康、従四位下左近衛権少将宣下。
そして豊臣秀勝。従一位関白宣下。
大坂にて政務を執るために、秀吉が秀勝に用意した者は、関白という位であった。
秀吉は明攻めがうまく行く前提で考えている。
ゆえに、彼の頭の中では豊臣家の構造は、秀吉を頂点とし、その補佐役として秀勝を関白に置き、政治から一歩下がった位置、つまり関東に領地を持つ秀次が、天領を除いた場合の最大戦力として収まっている。そう考えていた。
関白職となった秀勝だが、当然のように豊臣家の全権は秀吉が握っている。
秀勝に割り振られる仕事は、公家との付き合い、豊臣家に持ち込まれる調停の処理、大坂を中心とした畿内の掌握といったところである。関白職の職手当が百万石。これに丹波・丹後を加えたものが秀勝が持つ全財産である。
とにかくこの日より、秀勝は関白となった。兄である秀次より位階は上になってしまったのである。
秀次は関東に移封させた事により、政治中枢である大坂からは自然と遠ざかる。ゆえに秀吉は秀長の代わりとして秀勝を選び、明攻めの間、政務を任せるために関白職を秀勝に譲った。同時に、秀吉は秀勝を跡目として考えている事を宣言したのだ。
本来であれば秀次が跡目として豊臣家を継ぐのが筋ではある。現在の豊臣家の最も歳上の男子なのだから。
が、秀吉は秀勝を跡目として関白職に付けた。一応、秀吉の見解はある。
秀勝の正室は江姫、織田市の娘であり、浅井家の血筋でもある。一方、秀次の正室は稲姫。徳川家康の養女であり、実際は徳川家家臣、本多忠勝の娘である。側室に最上の駒姫という清和源氏の血筋が入ったが、あくまで側室。
正室の格で言えば秀勝のほうが上に来る。さらに養女とはいえ稲姫は徳川家の人間。秀次を跡目として立てると、その子孫には徳川家の血を引く者が豊臣家の長となる事になる。それを嫌ったようである。
「まあ、たぶんそんなとこだ。あんまり気にすんな。禿るぞ?」
「兄上! 私は気にします! 兄上を差し置いて私が関白職など、誰が納得しましょうや!」
「いや、本命はお前というより、お前と江の間に生まれる男児、かな。茶々殿の妹だぞ、江姫は」
「……殿下の寵愛を受ける茶々様の妹、だからと言って……」
そこまで言ってから秀勝は声を潜めた。
気がついたのだ。元は豊臣と織田の血を引く者、鶴松が後継者だった。
(つまり、自分と江、その間から生まれた者は鶴松と同じく、豊臣と織田の血を引く者という事、か)
「納得したか? まあ、所謂、中継ぎというか、そういったもんだ。とりあえず関白としてお前を跡目として立てる。太閤殿下は明攻めの総大将として名護屋に赴く。その前に豊臣家内部の話は終わらせて置きたかったんだろうよ。それにな、秀勝」
秀次はすっと身を乗り出して秀勝に耳打ちした。
「殿下と茶々殿の間に新たな男子がお生まれになる可能性はある……そうなったらどうせお前も俺も豊臣家の一員という立場に戻る。正当な跡継ぎがいるなら、それに越した事はない。跡目争いとは無縁になるだろう?」
「……殿下の御歳をお考えになると、それは難しいのでは……いや、鶴松は確かに生まれてきた。茶々殿とは殿下は相性が良いのやも知れませぬな。そうなれば私も楽になるのですが」
はぁ、と溜息をついた秀勝だったが、頭を切り替えて秀次に言った。
「兄上、関白職は一時私がお預かりします。唐入りの件ですが」
「準備は進んでる。名護屋城が完成と同時に俺も出るよ。俺が率いるのは八万ってとこだ」
「……分かりました。朝鮮と明に関してはお任せします。その間、大坂はお任せください。利家殿もおりますゆえ、そう問題はないでしょうが」
「たぶん、朝鮮に渡る諸将から借金の申し込みがある。それは融通してやれ。金が絡むと碌な事にならん。貧すれば鈍ずとも言うしな。そこは任せるぞ」
「はっ! ……兄上、ご無事で。決して無理をなさいますな。頼みましたぞ」
こうして、文禄の役の幕が上がる。




