宇都宮評定
下野国、宇都宮城。史実と同じく、ここから奥州仕置は始まった。
秀吉、秀次が宇都宮城で行った事は朱印状の発行である。
まず、常陸の佐竹。次いで陸奥北部に地盤を持つ南部らが朱印状を賜る事になる。
本来、同格であったはずの南部と九戸であるが、史実では南部を大名とし、九戸をその配下として扱った事により叛乱に繋がるのだが、既に秀次が九戸を自らの臣下として十万石で迎える事を通達している。九戸を奥州から引き剥がし、豊臣の陪臣にする事によって、奥州の複雑怪奇な情勢に少しでもメスを入れたかったのである。
そして津軽、秋田、相馬、戸沢は所領安堵。会津は蒲生氏郷が転封。
史実では葛西大崎が木村吉清が置かれているが、ここで一揆がおこる事は秀次も知っている。
一般的にこの葛西一揆の裏には、伊達政宗がいたとも言われるが、政宗は隙を与えなければ動かないと判断。
(木村吉清は、こういった調略戦に向いていない。他の奴を置くのもいいが、蒲生が史実通りの会津だと俺の背後を押さえるには少々足りん。伊達家に臣下の礼を取っていた葛西、大崎は手をつけんでもよかろう)
葛西、大崎が小田原に挨拶に来なかったのは、政宗の配下であり、その資格がなかったから。秀次は秀吉にそう報告。
秀吉は伊達政宗に対して、葛西、大崎の名がある士分台帳を提出させる事で公式に両名を政宗の陪臣と認めた。
肝心の伊達家は史実通り、陸奥出羽13群に減封。
石川家、江刺家、黒川家、田村家、白川家、和賀家、稗貫家は改易となった。
これら改易大名とそれに伴い生まれた浪人達は、秀次の命で蝦夷地へと送られる事になる。
所領安堵となった蠣崎氏を通じて蝦夷地の開発を命じたのだ。
(これ以上、無駄な浪人を国内で遊ばしておくべきではない。何をするか分からん。もう一度、一旗揚げるかと考えられるよりは、切り取れば大名に返り咲ける場所を用意してやるべきだ。蝦夷っつーか北海道には確か泥炭があったはず……あったよな? ま、まあ樺太まで辿り着ければうん、将来的には油田とか……今は使いようがないから無駄か。と、とにかくまとめて蝦夷地へ送り込む事だ)
そこまで考えて、最上ってどうなった? という疑問が秀次に湧いてきた。
史実では家康に取り成して貰っており、政宗よりも後から来たにも関わらずしっかりと本領安堵されている男である。
(史実では確か最上の姫様が俺の……側室というか、側室になりかけていただけで殺されているんだよなぁ)
「殿下、最上についてですが……」
秀次がそう聞くと、秀吉が満面に笑みを浮かべて言った。
「本領安堵じゃ」
「ほう……さようですか」
(遅れたけど、やっぱり家康殿の取り成しがあったって事か? でも今の徳川殿の取り成しで本領安堵まで貰えるとは思えないけど)
「不思議かの、秀次」
「はぁ、まぁ。伊達より遅参した事は事実。いささか、伊達との扱いに差があるような気が致しますが。徳川殿から取り成しがあったとも聞いていますが」
秀吉は軽く首を振った。
「ま、家康殿からは確かに取り成しはあった。が、それは領土を全ては取り上げないでくれ、という嘆願での。伊達の小僧と同じく、削ってやろうかと思っておったが……最上義光、人質を差し出してきおった」
「人質ですか。大名から取るのは至極当然のような気もしますが……」
くっくっく、と秀吉は人の悪い笑みを浮かべている。
「なかなかに張り込んだぞ、最上は。自らの娘をの、お主に嫁がせて欲しいそうじゃ」
「……はい?」
「駒姫、という名のようじゃ。もちろん、側室じゃぞ。徳川殿の養女を押しのけて正室などありえん。なかなかの器量良しのようじゃからの。それで本領安堵よ」
(俺の意志はどこへ……無視ですかそうですか)
「ま、最上の意を汲んでやる形での側室入りじゃ。問題はない。清和源氏の血が入ると思えば、最上の領土など安いものであろう。
ああ、まだ九歳らしいでの。手をつけるのはしばらく後にせいよ」
「当たり前でしょう! ……受けたのですね、その話」
「うむ、まあ、手元で養育した者を側に上げるなど、ありふれた話じゃ。気にする事もあるまい」
「……殿下には摩阿姫がおりましたな」
「あれは儂にとっては我慢したほうじゃぞ」
(胸張って言える事かよ……)
「ま、お主は立場上、側室は持たねばならん。この際だから言っておくが、徳川殿の養女だけが子を成せば良いというわけには行かぬからの。それでは徳川との縁が強くなりすぎるわ」
「……余り多くの側室を抱える気はありません。職責の範囲では努力しますが……」
「お主は儂に似ず、女色にはとんと疎いの。お主が婚姻を結ぶ事によって最上という家が我が一門に加わる。名家は数多くあれど、最上のように時勢を見て、成り上がりの我らに娘を側として送り込んで来るのは珍しい。伊達の減封が利いておる証拠でもある。しっかりと養育せい。我らには譜代の家臣や一族衆が少ない。側を取れるのはお主か儂しかおらん。秀長はまだ大和で療養中じゃでの……」
秀吉の顔に少し陰りが浮かんだ。弟である羽柴秀長は大和の居城で病に臥せっている。北条征伐中も何度も書状をやり取りしていたがあまり楽観はできないと、お抱えの薬師から秀吉の下に報告が来ている。
「まあ、お主のいう通り、改易した奥州大名は蠣崎を通じて蝦夷に送る。伊達の小僧に取りまとめさせれば良かろう。ふむ、蝦夷開発の件はお主が主導せよ。大坂まで報告に来るより、関東のほうが近かろう。がれおん、といったか、あの南蛮船はこれからも造り続けよ。交易だけでなく、他の船よりも足が速く、いろいろと使えるからの……」
(蝦夷開発にもガレオン船は使うべきだろうし、使わないと物資の運搬が陸路になって面倒になるな……江戸から石巻、そっから宇須岸までは今でも海路はあるか……函館、きちんとした港にさせるか。こっちが金出して整備してやれば蠣崎氏も蝦夷内部を開拓する者たちからの貿易拠点として旨みはかなりあるはず。港は整備してないとガレオン船も使えないからな。これは全国の港も同じか)
「その件は承りました。駒姫の件は……承りました。稲には私から説明します……」
「うむ、まあ、輿入れはお主の奥州検地が終わってからよ。その後は関東に戻り、関東八州、見事治めて見せよ。頼むぞ、秀次」
宇都宮城での評定後、秀次を主将とした奥州仕置の部隊が出立した。
総大将に羽柴秀次(正三位権中納言)。
副将に舞兵庫(従五位上相模守に内定)、同じく副将に立花宗茂(従五位下伊豆守に内定)。
将として初の正式参戦、風間小太郎(従四位下検非違使)。
会津に転封となる蒲生、道案内役として伊達、能吏として石田三成、増田長盛、浅野長政。
そして豊臣が奥州を粗略に扱わぬ、従えば厚遇するという事を見せるための最上義光。
さらに上杉、徳川から応援の兵力を入れて、総数五万。
北条征伐に持ってきていた糧食や物資を奥州仕置にそのまま持っていく形である。
田中吉政を代将として江戸に入れ、築城と港の整備を始めるよう命じ、稲姫も江戸へと送り出した秀次は、奥州仕置に出発した。
駒姫が側室入りです。




