忍城攻防戦
秀吉からの命令が書状で届いた日、三成は全軍に堤防の再度の点検を命じた。同時に各将に「しばらく動く事はならん」と命じた。
二万一千の兵は忍城の背後に木根川を見る位置で、半月上に布陣している。堤防さえ崩れなければすでに包囲は半ば完成していると言える。
忍城を囲む各将はこれに同意。軍議はすぐに解散となった。
「やっかいな城だ」
榊原康政の呟きが現状を最も的確に言い表していた。
(忍城攻撃に選ばれた時は、少々憂鬱だったが今はもっとだな。総大将は関白子飼いの石田三成、他の将もそうだ。秀次様の配下である木下殿もおられるが、積極的に動こうとはしないお人のようだ。私がでしゃばるわけにもいくまい。徳川家の将が口を挟めば何かと軋轢を生みかねん。それでもこの堤による包囲には反対しておくべきだったか? うまく行くとはとても思えなかったが……何やらあの石田三成、妙に焦っておるな。大方、家内の出世争いであろうが、見るべきものが見えなくなっておる。兵が憐れよ)
奇襲を受けた時、榊原の部隊は後方にいた。それゆえに彼の部隊に損害はない。闇夜に堤が崩れ、その混乱の中で受けた奇襲である。いくら歴戦の榊原でも本隊の救援に向かう事は出来なかった。その意志も無かったが……。
(ふむ、我が殿ならどうしたかな? 中々に難しい城ではあるが……)
榊原はふとそう考えた。自らの主君、徳川家康がもしこの城の攻撃指揮官だったら、と。
(外から圧力を加えつつ、内応を促すか? 結束の固い城であろうとも、どこからの援軍もない状況ではいつまでも士気は維持できまい……そういえば、忍城は妙に士気が高いな。少し異常なようにも感じるが)
自陣へと馬を歩かせながら、榊原はゆっくりと思考を纏めていく。別に彼が城を落とす手段を考え、石田三成に献策する義理はないのだが、長く戦場にいる武将としてのクセであろうか。彼は色々と考え始めていた。
(忍城を囲んだ軍勢は二万を超える。対して城の人数はどれくらいだ? あの城の規模からして一万という事はないな。五千、いや、三千そこそこか。それだけの戦力差に囲まれると中々に士気は維持できないものだが。まして援軍が来る見込みはまるでない。何があの城を支えている? 攻めにくい城ではある、攻撃箇所は限定される上に、足場が悪い。まあ、足場はあの石田殿のおかげでさらに悪くなったが……それでも、城の防御力だけが心の拠り所としてここまで戦えるものか? 他に何かある、士気が落ちぬ要因は他にある。それを知らぬ限り、手を出すべきではない。)
調べるか、榊原はそう思ったが、すぐに苦笑した。
(調べてどうするのだ。何かわかったとして、それをもとに策を練り、敵を打ち破っても私の功績が大きくなりすぎる。徳川家から来ている客将が城一つを、それも豊臣家子飼いの総大将を置いて落とすわけにはいかん。いらぬ軋轢は生まぬこと。殿からもそう仰せつかっておる。私が積極的に動く事は出来ないな。さて、そうなると石田殿がどうするかだが……あの御仁、焦りが見える。戦場では外に激情を放っても、心は冷静にならねばならん。それが指揮官の仕事なのだが、分かっておるかな?)
自陣に到着した榊原康政は、軍議の内容を聞いてくる部下の将に対して、簡潔に答えた。
「このままだ。しばらく動かずに囲むのみ」
(あまりおもしろくない戦になった。指揮官があの石田三成ではな。優秀なのだろうが、それは戦場のそれではない。まあいい、我らは後詰め。しばらくは言われた通り、おとなしくしておくに限る)
榊原の考えはほぼ当たっている。
忍城には兵は3千を超える程度しかおらず、援軍の当てもなかった。周囲の城が落ちた事も知っており、肝心の小田原城が大軍に囲まれている事も知っている。
それでも彼らは戦う事を選択した。正確には、兵達に戦う事を選択させた者がいた。
一人は城主、成田長親。のんびりとした印象を人に与える若き殿様で、戦が始まる前までは領民から慕われてはいたが、それは民に優しい、気さくなお殿様という評価でしかなかった。
豊臣方が大軍で関東に攻め寄せた時、自分達も戦おうと思った。だが、相手は一瞬で小田原城を囲み、補給を遮断。二十万を超える兵に囲まれた小田原城は、時をかけて飢えていく。それは明白であった。他の支城には上杉、前田、真田など名将達が北から支城を踏み潰すような勢いで進軍してきた。誰が見てもこの忍城一つが玉砕覚悟で戦ったとしても戦局に影響を与える事はないと思っていた。
しかし、彼の考えは違った。この戦は北条の敗けだ。しかし、大軍に攻め寄せられながらも跳ね返した城が一つでもあれば、豊臣にとっての完勝はなくなる。負い目が生まれる。少ないかもしれないが、北条の名を残せる可能性はある。
(命を賭ける価値はある)
成田長親はそう判断した。
そしてもう一人。成田長親の姪、甲斐姫である。
成田長親は知略の限りを尽くして策を練り上げた。その間、甲斐姫は自らの髪を切り落とし、覚悟を持って戦闘指揮官へと名乗りを上げた。
敵は二万。指揮官は石田三成。配下に大谷吉継などがいるが、成田長親は榊原康政の名を見た時には眼を見開いた。
「徳川の宿将が来ているというのか……」
榊原康政が来ているなら、その配下の兵は精強な三河兵。これが主攻となって攻め寄せられれば苦戦は免れない。
成田長親の戦略では、敗けてはいけないが勝ちすぎてもいけない。彼はこの戦の目標をそう設定していた。
敗ければ城も自らの命も小田原以外の城が残ったという事実も何もかも失われる。
だが勝ち過ぎれば、万が一、関白がさらなる援軍をこの地に送り込んで来る事は考えられる。その場合、石田三成のような能吏として名を馳せた者ではなく、よほどの戦上手が来ることになるだろう。
(徳川家康、黒田官兵衛、豊臣秀次……さすがに関白が小田原から動く事はないだろうが……。
東海の覇王たる徳川家康、天才軍師の名を欲しいままにしている黒田官兵衛、かつて徳川家康を戦場で破った経歴を持つ豊臣家の重鎮である豊臣秀次……これらが兵を率いてくれば持たぬやも知れぬ)
さらなる援軍が来ては敗ける。それには敗けてはならぬが、勝ち過ぎてはならない、という微妙な采配が要求される。成田長親は今更に己に背負わされたものの大きさを実感していた。
豊臣方が忍城に姿を現し、戦は始まった。
三成も最初は数に任せて大いに城を攻め立てた。だが、忍城は周囲が沼や湿地に囲まれた防御に向いた城。自軍の損害ばかりが増えて、城には取り付ける隙が無かった。
最初の攻撃を撃退し、敵を追い払った事により忍城の士気はいよいよ上がった。それには最前線で兵と共に弓を取って戦う甲斐姫の姿があった事も大きいであろう。
最初の攻撃から数日後、成田長親は豊臣方が堤防を築きだしているのを見た。
(何をする気か)
不審に思ったが、すぐに理解した。水攻めであると。
成田長親は城に入っていた近隣の百姓に命じた。人足を募集しているはずだから、それに応じて堤防の事を見て来て欲しいと。
果たして、彼の予想は当たっていた。利根川を利用して、この城を水の中に沈める気であると。
成田長親は先に見に行って貰った者とは別に、百姓や足軽を近隣の村の住民として堤防工事に潜り込ませた。実際に彼らはこの地の人間である。
人足として雇われるのは容易かった。
その上で、堤防工事は可能な限り手を抜かせた。不審に思われてはならないが、地元の人間が「この辺りはよく地滑りがおきます」と言えばそこに堤防を造るのは躊躇われる。
足軽には堤防の一部を壊れやすくするように命じた。彼らは成田長親の期待に応えてくれた。
堤防が完成した後、褒美として出された兵糧は密かに忍城に運びこまれた。敵から糧食を差し入れてくれたようなものだ、と皆で笑った。
そして夕方から雨が降り始めた日の夜、甲斐姫は馬上の人となった。
壊れやすく造られた堤防は、この程度の雨で決壊する。そう聞いていた成田長親は、討って出る事を決めた。
(ただ城に篭っておれば良いという状況ではなくなった。敵が堤防を築き、この城を水に沈めようというなら、その意図を挫く。ここが正念場だ)
成田長親の決意の表情を見て、甲斐姫は自ら出撃する事を決めた。これにはさすがに反対も起きたが、甲斐姫は押し切った。
「私は皆と共に戦います。この戦、我らの誇りを敵に見せつけるためのもの。なればこそ、私が先陣を斬ります」
彼女は命を賭けてこの突撃を成功させる気でいた。
突如として堤防が崩壊し、濁流が自分達に向かって流れ込んでくる状況で、三成は忍城から出撃してきた部隊に大きな打撃を受けた。
死傷者、二千。三成はわずか千人ほどの突撃隊に、さんざんに翻弄され多くの兵を失った。
三成の敗北であった。
三成はすぐに、守備を固めつつ堤防の修復を命じた。
この命令を後で聞いた榊原康政は周囲にこう漏らした。
「せっかく敵のほうから出てきたのだ。三千でよいから、退く敵を追うべきだったな。うまく行けば城に入れたかも知れん。そこまでいかずとも、追撃を受けている部隊を城内に収容するのは難しいものだ。それなりの損害は与えられたかも知れぬ。何より、やられっぱなしでは士気に響くであろう」
この戦闘の結果は風魔の忍びによって秀吉と秀次の下に届けられた。
そして小田原城が落ちるまで囲んでいるように、との命令が関白秀吉より三成に届いたのだ。
三成は突貫工事で修復された堤防の上から忍城を見ていた。
そして、ついに彼は決心した。
「沼地と湿地、地元の者でもない限りそれを避けて城に近づく事は出来ぬ。ならば、私は道を造って見せる」




