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小田原会談


「茶は儂がいれよう、利休、下がってよい」

秀吉がそう言うと、千利休は静かに茶室を出て行った。

「殿下に茶を頂くとは、光栄の極みでありますな」

柔らかい笑顔で秀吉に語りかける家康。

どこからどうみても「主君に忠実な家臣」にしか見えない。

邪気も深謀遠慮も見えない、それでいて決して侮られるような事のない笑顔であった。

秀吉は家康を見ずに茶の支度をしている。その顔にも穏やかな笑みがある。

どこか無邪気さを思わす、人誑しの笑顔が。

「まあ、ここは身内しかいない場ですから、ゆるりと過ごしてください」

秀次が家康と忠勝を見ながら言った。

彼の場合、本気で何も考えていない笑顔である。秀次はこの茶会は自分と妻の家族の憩いの席、と本気でそう思っている。

まさかこの茶会で北条征伐後の、つまりは天下統一後の国分けや統治方法が決まるとは露にも思っていなかった。


「……ま、そうじゃの。今日は家族団らんの場よ。肩肘を張ったような茶にはせず、ゆっくりと楽しもうぞ」

初めて家康の顔を見ながらそう言った秀吉は、出来上がった茶を家康の前にそっと置いた。

「そう言って頂けると、真に秀次公との縁あったこと、この家康にとってありがたき幸せに存じます」

出された茶をそのままゆっくりと落ち着いた動作で飲む家康。

そこに一片の緊張も感じられないのが、家康の凄味であろう。

次に忠勝の前に茶が出される。

「ありがとうございます」

実に落ち着いた声で答えた忠勝もまた、ゆっくりと茶を飲んだ。

器を置くと、いつもの口調で娘に語りかけた。

「息災のようだな、稲よ」

「はい。旦那様には本当に良くして頂いております」

そう言って頭を下げる稲姫。

「いや、良くしてもらっているのは私のほうです。本当に稲は出来た嫁でして。私にはもったいないほどです」

照れながらのろける秀次。

「まあ旦那様……」

稲姫も頬を赤くしながらうつむいてしまった。

それを見て家康も忠勝も微笑んでいた。


(忠勝の娘とは本当にうまくいっているようだな。子が出来るのも近いとなると、やはり……)

(我が娘ながら、この俊英をここまで惚れさせるとは。あっぱれよ)


「お主らは結婚した時から変わらんのぅ。ま、稲はよいおなごじゃ。寧々には負けるがのぅ」

秀吉も秀次と稲の仲を茶かす。

ますます赤くなってしまう稲姫と、苦笑しながら「義母上にはかないませぬからな」と返す秀次。



(……これほど相性が良いとはの。いかに義理の娘とはいえ、徳川の女にのみこうも傾倒するのは良くないの。

 北条が片付いたら側室を持たせねばならんの)


この時代、大名となれば正室と側室がいて当然である。

秀吉のように側室の数が際限なく増えていくのは例外としても、秀次のような立場の者なら側室を持つ事がむしろ当然であった。


(まあ、その事は後だ。誰ぞ儂が見繕ってやればよいだけの事。それよりも、だ)


すっ、と秀吉は居住まいを正して家康に正対する。

それを見た家康も同じように秀吉に正対した。

「家康殿、少し昔語りをせぬか? 信長様にお仕えしていた儂と信長様の同盟者であった家康殿。様々な戦場を駆け巡ったものでござった」

「まことに、何やら遠い昔のような、されとて昨日の事のような気が致しまする」

「うむ、思えば長き道のりであった。桶狭間での信長様の勝利によって時代は開けた。戦国の世を終わらせ、新たな時代が開けると思った。

 儂はこのお方にどこまでもついていこうと思った……」

「はい。私もあの戦以来、今川から離れ、織田家につき申した」

「それから浅井、朝倉、本願寺、武田、上杉、毛利と長きに渡り戦い、ようやく天下布武がなると思われた時、あの本能寺が起きた……」

秀吉の眼には少し涙が浮かんでいた。演技ではなく、本当に哀しかったからだ。

気を取り直したように秀吉が言葉を繋ぐ。

「あの後、儂は明智を討った。そして信長様の意志を継ぐ事に決めた。信忠様までお亡くなりになったと知った時、織田は分解するであろうと思うた。

 案の定、柴田や滝川、信雄に信考と勝手な行動をとり始めた。三法師君を織田の当主とし盛り立てていかんと決めたあの清州での約束を忘れてな……」

実際のところ、三法師を当主に推しその後見人となって好き放題やっていたのは秀吉のほうである。

が、いつの時代も勝者が敗者を語る。その逆は誰の耳にも届かない。


「その後は信雄のせいで家康殿と一戦やるはめになってしもうたの」

「あの時は生きた心地がしませんでした。はからずも殿下の敵になってしまうとは……この家康、不覚でありました」

二人とも全てを信雄のせいで片付けてしまっているが、どちらも互いを明確に敵と認識して戦に臨んでいた。

実際に秀次率いる中入り部隊が家康本隊を敗走させたため、なかば秀吉が勝っていたのだが、秀吉も家康を滅ぼすよりも信雄に主力部隊を送り込み降伏させた。

内実はともかく、形式上は「信雄が秀吉の覇権を認めず、かつての同盟国であった徳川家を引き込んで起こした戦」であり決着も「秀吉に信雄が攻め落とされ降伏した」という戦であった。

この辺り、あまり突っ込んで話すと色々と両家にとってまずい事になるため、秀吉は軽く流した。


「じゃが、ようやく信長様が目指した世が、天下が治まる時が来た」

「はい。北条も長くは持ちますまい。奥州には伊達正宗がおりますが、北条が落ちる前に殿下に臣従を誓いにまいりましょう」

「ああ、奥州の伊達か。そのうち来るであろう。時期によってその処遇を決めれば良いだけの事じゃ。

 それでこれからの事じゃが」

茶菓子は何がいい、とでも言ったかのように軽い口調で秀吉は言った。

「このような場での話じゃ。忌憚のない意見を聞かせてほしいのじゃが、関東をどうしようかと思うての」

秀吉は体の力を抜いて茶飲み話のように語りかけているが、家康の表情や気配など、どんな事も見逃すまいとしている。

それに対して家康は、あるいは秀吉以上に穏やかで軽い口調で答えた。

「関東でございますか。何せ北条が抑えていたのは関八州ですからな。これの扱いとなりますと中々に難しい事とは思います」

答えたようで何も答えていない。

すると秀吉がすぐに被せてきた。

「わしはの、今回の家康殿の功に報いるために関東全てを差し上げようかと思うておった」

この発言には家康も幾分、体を緊張させたが、何も言わず先を促す。

「じゃが、家康殿は三河の名門にして源氏の流れを組むお方。先祖伝来の土地を離れて関東に行け、とはなんとも情のない話じゃ。

 無論、関東ではなく家康殿の近くに加増するゆえ安心してほしい」

そこまで聞いた家康は深々と頭を下げた。

「ありがたき幸せにございます。して、関東はいかがなりましょうや?」

「それよ。それを相談しようと思うての。なにせ広大な土地じゃ。どうするかと思うてのぅ」


秀吉は家康を抑え込める者を関東に移封するつもりである。

万が一、家康がこの豊臣政権に反旗を翻した場合、その背後をつく役目を負う者を。

譜代ではない上杉家や譜代でも家康に対抗できそうにない福島、加藤などは無理だ。

第一、家康を背後から抑えるには関東全てを手中に収めておく必要があると思っていた。


それに適任の者が一人だけいる。

かつて徳川を敗走させた、自らの最も信頼する親族が。



家康はまだ気を抜いていない。

「適任者が誰もいない。ならば自分が行きましょう」という言葉を秀吉が待っている可能性もあるのだ。

(秀吉の魂胆は知れている。この家康を、徳川を関東に追いやるか、関東に徳川を抑え込める者を持ってくる事だ。

 それをこの席で私に認めさせようとしている)


家康は関東に動く気はない。たとえ二百五十万石全てを貰っても、先祖伝来の土地を離れる事を嫌がるであろう家臣団の事や政治の中心である京、大坂から遠ざけられるのは御免である。

この問題は茶会を持ちかけられた時から重臣達と策を練っている。そして、謀将本多正信が一つの案を家康に伝えていた。

関東に徳川を抑え込める者を持ってきたい秀吉。しかも家康がそれを了承したという事実が欲しいのだと。

この状況を回避する方法はない。ならばあえて最も強大な選択肢を選ぶべきであると。



「これは賭けです。しかし、勝算は十分にある賭けです。今は最悪の一手に見えるやも知れませぬ。

 しかし殿が常に考えていた事、つまり、太閤殿下亡き後の時代においては最善の一手に変わる手であります」


本多正信はそう言って家康を説得した。

そしてこの一手は家康も賭ける価値があると判断した。




家康は答える。

「さて、私などの意見をお聞き下さる事、まことにありがたいことですが、何を迷う事がありましょう。

 殿下の御養子にして我が義理の息子でもある、秀次公がいらっしゃるではありませぬか」

 

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