北条征伐へ
天正十七年。秀吉の側室、茶々が懐妊。
男子を産む。
鶴松と名付けられた。
茶々の懐妊を知った秀吉は上機嫌で「茶々に城をやろう。鶴松を大切に育てるための城を造るのだ」と言いだし、それを聞いた秀次は「淀城だな、史実通りじゃねぇか」と一人呟いた。
(どうにも、俺の死亡フラグはまっっったく消えてないな。鶴松はどうせ数年後には死んじゃうけど。くそ、密かに出産時に茶々が死なねーかなとか思っていたけど、まったくそんな事はなかったぜ。
やはり最大の敵は茶々か! ちっ、お市と浅井長政が草葉の陰で泣いているぞ。秀吉の側室になって子を産むとか。実際に会ったけど、まあ、美人は美人だけどちょっと派手なんだよ、あの女。秀吉もお市への憧憬がまだあんのか知らんけど、三姉妹の下二人は嫁がせたくせに……それとなーく茶々殿は誰に嫁がせるんですか? とか言ってた俺が馬鹿みたいじゃないか。というか、派手好きなんだよ、あの女! 淀城に黄金ふんだんに使った贅沢な作りしやがって! 着てる服とかもなんつーか派手! 夜の女かっつーの、名家の姫のくせに。俺の嫁さんのほうがよっぽど美人だしな! 大和撫子って感じで夫を立ててくれる出来た女だし! 十四歳だけど、結構胸も大きいんだぜ? ロリ巨乳ってやつか? なんつーか俺勝ち組! 今、俺は人生の主役! 小松って呼びにくいなぁって言ったら稲で結構ですよ、旦那様とかもう可愛いったら!
ロリコンじゃないよ? 俺はロリコンじゃないよ? でももうロリコンでもいいよ!
……いらんこと考えてないで、秀頼対策も本格的に考えないとな……。
あ、とりあえず寧々様に手紙でも書いておこう。何かあった時に寧々様を味方につけておく事はたぶん重要だ。
前略、寧々様へ。稲は素敵な嫁です、と……)
秀次と稲姫が幸せに暮らしながら、領民の暮らしも災害から立ち直り落ち着いて来た頃。
世間は動き出していた。
九州征伐を終え、聚楽第に帝を迎えた秀吉の出した「惣無事令」。
簡単に言ってしまえば、「勝手に戦争するな、帝の言う事に従え、従わないなら関白たるこの豊臣秀吉が相手だ」と言うお達しである。
この惣無事令を出した相手は東国の大大名、北条家である。
小田原を中心に関東八州を支配し、今もなお勢力を伸ばすべく佐竹家や結城家にちょっかいを出している。
秀吉は北条と同盟関係にある徳川家康に北条へ使者を出させる。
「上洛して秀吉に従うか、さもなくば督姫を離縁させて戦か」と言う使者である。
督姫、とは家康の実の娘であり、北条氏直に嫁いでいる。それを離縁して同盟を破棄、攻めつぶすと言うのである。
当然、北条では活発に議論が行われた。
戦か、臣従か。
臣従するのは業腹だが、戦をして勝てるか、と言われると難しい。
声高に戦を主張する者はなんの上方侍程度、我ら真の武士に勝てはせぬ、頼朝公の時代よりそうであったではないか、と主張する。
当主北条氏直は内心、今と鎌倉時代を比べるな、大体頼朝だって相手が数十万の大軍じゃなかっただろうが、と思ったが口には出さなかった。
北条氏直も悩んでいたのだ。関東八州を安堵してもらえるなら臣従すべきか? しかし、その保障はない。
それなら、戦いを選択して小田原の城に寄ってある程度の勝利を得て大幅な譲歩を引き出すか。
だが相手は大軍である。はたして「一定の勝利」が可能かどうかは怪しいところだ。
おそらく、戦となれば督姫を離縁した家康殿が先鋒として攻めて来るだろう……そこに情が入る事はない。
和睦――その考えが北条氏直を支配しかけているが、主戦派の将や親族が納得しまい。
北条氏直とて……一戦もせずに和睦・臣従への道は、はらわたが煮えくり返りそうになる。
しかし、彼は当主である。無理無謀な戦に家臣を道連れにはできない。
そこで、とりあえず一族の北条氏規を秀吉の下に派遣する。氏直と氏規は考えが近い。
秀吉に拝謁した北条氏規。彼は秀吉に上野沼田領を北条領土にして貰えれば、当主氏直が上洛する事を約束した。
上野沼田領。真田昌幸が領地である。
もともと、七年ほど前に北条と徳川が戦った際、和睦の条件として北条へ譲渡されるはずだった土地である。
しかし、真田は徳川家康が上野沼田に変わる代替地を指定しなかったため、これを拒否。当然家康は上野沼田に侵攻した。
大軍を持って真田を押し潰すつもりだった家康は真田昌幸の小勢に散々に敗れてしまった。
家康が、城攻めが苦手だった事、さらに指揮官の真田昌幸が卓越した戦術家であった事が敗因と言える。
家康の軍勢を破った後、真田昌幸は抜け目なく秀吉の庇護下に入った。家康も後に秀吉の配下となったのでもう互いに戦えない。
秀吉は真田昌幸の長男である信幸を家康の直臣とする事にし、この争いを収めたのだ。
余談だが、信幸は史実では秀次の正妻になっている小松姫の夫だった。今は徳川四天王の一人である榊原康政の側室の娘を娶っている。
さて、この上野沼田だが、秀吉は真田昌幸と会談。領土の三分の二を北条へ渡す事を約束させる。
上野沼田は先祖伝来の土地であるため、全領土を差し出す事は真田昌幸にも出来なかったのだ。無論、秀吉は真田昌幸に新たな領土と割譲分に相当する褒賞を約束した。
こうして、北条氏規は小田原に帰還し、後は当主氏直が上洛するだけとなったのだが……。
天正十七年、年の暮れ。
沼田の名胡桃城、北条勢に囲まれる。
その勢い激しく、城主鈴木主水が奮戦するも自刃。
この報を聞いた関白秀吉は激怒。
一度は北条氏規を派遣して、さらには秀吉の仲介によって上野沼田の三分の二を得て納得したはずである。
この状況で沼田を攻めたのは、明らかに挑発である。
関白など関係ない、弓矢を持って語ろうではないか。
そう満天下に宣言したと同義である。
秀吉は帝の下へ行き、勅命を得る。
北条討つべし。
秀吉は五箇条からなる弾劾状を勅命とともに北条へ叩きつけた。世に言う、小田原征伐はこんなややこしい事態によって始まった。




