婚姻準備
思わず小松姫のほうをまじまじと見てしまう秀次。視線があっても小松姫はじっと秀次を見つめたままだった。
「私には娘が幾人かおりますが、あいにく歳が幼いか、妙齢の者は嫁いでおります、と申し上げたのですが、なんの徳川殿とわしの仲ぞ、だれぞ家中の者より良き娘を養子としてもよいとのおおせにて」
(え、さすがに秀吉、それはどうなの?)
養女に迎えたとはいえ、実の娘ではないのだから、血縁関係はない。秀吉からすれば家臣の一人である家康の、ましてや養女を自分の甥と結婚させようと言うのだ。
(一応、関白であり天下人を謳っているのに、甥に家康の養女? 待てよ、徳川殿は、今は臣従しているとはいえ、天下を狙っていた御仁。未だに、何かまた変が起きれば……たとえば本能寺のような……最も天下に近い人と言える。その徳川殿と甥を親戚にする事でより深く繋ぎとめ、なおかつ養女を嫁に取らせる事によって相手にこれだけ信用していると見せると共に、甥には嫁とはいえ養女を、それほど深入りさせないつもりか)
秀吉の考えをほぼ正確に読んだ秀次であるが、ため息をつきたい思いだった。
(考えたつもりなんだろうけど、墓穴掘っているような気がするぞ秀吉……まあ、悪い考えじゃないと思うけど、ちょっと家康に遠慮しすぎな感があるな。いや、俺も家康は怖いけどさ)
「仰々しく対面させるより、こういった場のほうがよいと思いましてな。寧々様と古田殿にお願いした次第」
家康が笑顔を絶やさずに秀次に語りかける。
(寧々様も笑いながらこっちを見てるって事は、俺に選択権はないってことだな……)
「な、なにぶん急な事で驚きましたが、家康殿を父とお呼び致したいと思います」
(二十歳前で人生の墓場かよ。いや、この時代だと俺は十分に独身貫いたほうだけど。しかし結婚か……何も考えてなかったな。あ、やっぱ俺が悪いのか……)
常識的に考えても天下人の甥がいつまでも独身でいるのはおかしい。
「おお、お受けくださるか。いやこの家康、秀次殿のような俊英を息子に持てること、存外の極みですぞ」
(嘘つけ、この狸爺!)
絶対単純に喜んでるわけねーだろ、と思ったがやっぱり口には出せなかった秀次。
こうして精神をすり減らしまくった茶会が終わり、秀次は大坂の屋敷へ戻った。
(戻ってきたら田中吉政と家康の重臣である井伊直政が婚礼の日取り決めとかやってやがった……。色々考えるのは明日にしよう。それがいい)
そう自分に言い聞かせながら秀次はその日、ふて寝した。
尾張・美濃・伊賀・伊勢の四ヵ国を治める秀次の治世は天正十四年より本格的に始まった。
史実での北条征伐は天正十八年。それまでは大きな戦はない。
「とりあえず小松姫との婚礼はまかした! 俺はしばらく食って寝て暮らす!」
清洲城でそう高らかに宣言する秀次。
「まず、現在の領内の復興状況ですが……」
筆頭家老である田中吉政に華麗にスルーされても泣かなかったそうな。
天正大地震の復興を、九州征伐で得た恩賞と名器を売り払った金で凌いだ秀次。
他の地域は地震の被害があっても堂々と年貢を取り立てていたが、秀次は一年の年貢免除を打ち出して復興を優先する。
この時代、天災があっても領主は年貢を取り立てる。戦費が重んだあとなら当然である。それが領主の権利なのだから。
しかし秀次はそれをしなかった。あまりにも現代の感覚で普通に災害の後は税免除しなきゃ、と思ったからだ。
領民の秀次に対する評価はこれで極まったと言っていい。
復興が順調に進むとそれまで手をつけていた事業も成果を見せるようになっていった。
まずは伊賀街道整備。山に囲まれ「隠れ国」と呼ばれた伊賀。秀次はここに大和に通じる街道を敷設した。
美濃経由ではなくなぜ山国の伊賀に? と皆がその理由を図りかねた。
尾張~伊賀~大和の街道が出来上がると、これまで近畿圏ながら大坂の経済圏から外れていた伊賀にも商人たちが訪れるようになる。
荷を運べる道さえあれば、商魂たくましい商人たちはどこにでも行く。これによって伊賀も俄かに活気付く。大坂の経済圏に組み込まれたのだ。
それまで京の側でありながら片田舎だった伊賀を発展させ、さらなる利益を上げるとは、と周囲は秀次の先見性を褒め称えた。
実際は現代だと名古屋まで行くのに伊賀通ったほうが近いよね、と思ったから道を作っただけだが。
最も本人は想像以上に山道めんどくせ、とほとんど使わなかったが。
次に津島港拡張工事とでも言うべき事業である。尾張・津島の港はその規模を大幅に拡張した。
港には船大工達が秀次の援助により立てられた巨大な造船所に数百人働くようになり、その他の職人たちもこの街に集められた。
鉄砲鍛冶、刀鍛冶、大工、宮大工、薬師、窯大将、酒職人、織物職人、染師、鉄鍛冶などである。
街の中心部に市場があり、年中賑わう事になる。
大友宗麟より譲り受けた大筒「国崩し」を秀次は津島に持ち込んでおり、大砲の改良と製造を命じていた。
いつか誤射でまだ出来てない淀城に叩き込んでやる、と本気で思っていたのだ。
また、秀次の思いつきで建造が始まったガレオン船は足掛け四年を経て完成。
船体は白一色で統一され、帆は漆黒である。
「ほんとに出来たのかよ……さすが変態国家だな、日本」
秀次の呟きは幸いにも誰にも聞かれなかった。
「津島丸」と名付けられたその船を秀吉に見せようと堺の港まで持って行った秀次。
ガレオン船、つまり南蛮船を見た秀吉は眼を丸くして驚き、直後に歓声をあげて喜んだ。
もともと、目新しい物や巨大な物が好きな秀吉である。すぐさま秀次に金塊を渡して自分の船も造ってくれと依頼する。
かくして、天正十七年より津島の造船所で「豊臣丸」の建造が始まった。
そして美濃治水事業。
美濃は豊穣な土地である。しかし、河川の氾濫が古来より続く土地でもある。この河川の氾濫さえどうにかできれば安定した収穫が望める。
そのため、美濃の河川を調べ上げ堤防を築き時には河川の流れまで変えるほどの大事業を行った。
田中吉政が。
報告書に「美濃の治水事業完了に候」とあったのを見た秀次は覚えがなかった。
「こんなのいつ頼んだっけ?」と聞く秀次に田中吉政は「まさか忘れたのでは……」と返すと秀次は、「いや、覚えてるよ、うむ、ご苦労だったな吉政」と褒めまくった。
覚えていないのは当然で田中吉政がほとんど独断でやったのだが、怒られるのが怖かった秀次は覚えているふりを必死で続けていた。
どうやら、譜代の家臣は秀次の操作方法を覚えてきたらしい。
それ以外にも警察組織の整備を行ったり、奉行所を各街に建てたり、領内の盗賊団の討伐を可児才蔵とその配下の精鋭たちに命じたりと大忙しであった。
また、彼は徳政令禁止を打ち出す。秀次の領地では城主など権力を持つ者が商人から金を借りて徳政令を出しても無効、と決めた。
むしろ秀次にしてみればそれが未だにまかり通っているふしがあるだけで驚きだったのだが……。
こうして彼は内政に励みながら過ごしていく。
天正十五年。京に聚楽第が完成。秀吉が帝を迎える準備が整った。
秀吉に従う全ての大名が聚楽第に集い、帝を迎えた。そこで、秀吉は全ての大名に誓詞を書かせる。
以後、帝には逆らわない、と言う誓詞である。帝に逆らわないと言う事は、帝に代わって政治を行う関白にも逆らえない。
その誓詞を全ての大名が差し出し、秀吉からご覧の通り、今後身辺を騒がす者はこの者たちが成敗いたしましょう、と言上する。
秀吉の支配が今、始まったと言える瞬間であった。




