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お見合い

九州征伐が終わり、論功行賞が行われた。

七本槍の中では加藤清正が肥後半国を、福島正則は仙石秀久が蟄居させられたため空になった讃岐を拝領した。

加藤嘉明、小西行長らも躍進。脇坂安治や片桐且元、糟屋武則も一万石ながら大名に列した。平野長泰は史実通り大名になれなかった。

ふと他に差をつけられた平野を憐れんだ秀吉は彼を秀次の下へとつけた。秀次は「まあ、腕は確かみたいだからいいか」と気軽に引き受けた。これにより平野長泰は、今後は秀次の配下として働く事になる。


豊臣秀長の病状は落ち着いている。それでもやはり起き上がるのがつらい日があったり咳が止まらない事もある。秀次は史実で彼の寿命が長くはない事を知っている。

九州征伐に参加しなかった事で病状の進行は遅れたかもしれないが、決して良くなっているわけではなかった事から、やはり史実通り死病にかかっていると判断せざるを得なかった。

見舞いの品を送ったり時には大坂と尾張の往復の間に大和へと立ち寄って病床の秀長を見舞ったりしていたが、やはり緩やかに病状は進行しているとしか思えなかった。

何かと世話になった人であるしその人柄を失うのは惜しかったが、秀次にできる事は少なかった。


秀次は秀次で領地経営に忙しい。

九州征伐でかかった戦費はそれなりだったが、今回の論功行賞で秀次は新領地がもらえたわけではなく、金子や名物によって褒賞を受け取っていた。

戦費は賄えたのだが、領地経営に手を抜くわけにはいかず、筆頭家老の田中吉政などと協力しながら内政に精を出していたのだが、彼は史実の大きなイベントを忘れていた。


天正大地震である。


結果、史実通りに甚大な被害を領地に被り、彼が秀吉から貰った恩賞は復興資金として全て消えた。

これにはさすがに落ち込んだ秀次であるが、すぐさま恩賞として賜った名物を金子(きんす)に変え、復興資金とした。

さらに領内の今年の年貢を全て免除するとの布告を出した。

さすがにこれには重臣が反対するが、「復興を優先しなければ来年の年貢も取れん」と秀次が押し切った。

これらの手を打ちつつ、京の豪商、津田宗及に名物を売ったりしながらなんとか財政を維持していた。

ちなみにこの地震で山内一豊の一女、与祢が亡くなっている。彼は長浜城の城代にはなっていなかったが、歴史の修正力なのか、屋敷が潰れ与祢がその犠牲となったのだ。

秀次は一豊と千代のために比叡山の高僧を呼んでやり、与祢の供養を手伝った。


年が明けて天正十四年。新年の祝賀に諸大名は全て大坂に集まっていた。

秀吉の前に並ぶ諸侯には席次が決められており、中でも特に先頭に座る五人は家中で重い地位を持つ者と言える。

順に、豊臣秀長(大納言)、前田利家(権大納言)、徳川家康(中納言)、羽柴秀次(権中納言)、毛利輝元(権中納言)。

次列に小早川隆景、上杉景勝、宇喜多秀家、黒田考高、豊臣秀勝、豊臣秀康、細川忠興。

さらに次列に大友宗麟、堀尾吉晴、中村一氏、生駒正親、小西行長、島津義久、加藤清正、福島正則、加藤嘉明。

その後ろに小身の石田三成、増田長盛、長束正家、山内一豊、大谷吉継などがずらずらと続く。

関白たる秀吉を迎えるにあたって、壮観な眺めと言っていい。秀吉は満足げに「皆の者、大義である」と声をかけていた。


一通りの儀式が終わると、最前列に並ぶ五人以外は退出して行く。

残った五人に対し、秀吉は布告を出す事を宣言し、一枚の紙を渡す。

その内容は伴天連の追放令公布、刀狩り、検地、大名同士の婚姻は事前に公儀へと届け出る事の法令化、そして聚楽第の建設であった。

伴天連の追放令は民が自主的に改宗する場合には黙認する、大名が改宗する場合は公儀へと届け出を行った上で秀吉が判断する、と言う布告である。

九州征伐において、一部の宣教師と称する者たちが日本国民を奴隷として売っていた実態を見た秀吉は伴天連追放令を出す事によって、これを完全に駆逐しようと考えていたが、一部のキリシタン大名より本物の宣教師まで追い出すのはやめてほしい、との懇願が出てきたので一般大衆がその教えを信じるのは認めるが、今後は国内での活動を制限し、奴隷貿易などの罪状明らかな者を追放したのである。


刀狩り、検地に関しては史実通りであり、兵農分離政策の一層の推進である。


また、大名同士の婚姻の届け出制は各々が勝手に結びつきを強めるのを防ぐ

ための策であった。

実際にこの触れを全国へ展開し、守らせるのは石田三成や増田長盛などの文吏の仕事である。彼ら五人は三成、長盛を別室へ呼び布告のための準備と実作業を命じた。


その後、部屋を出たところで秀次は家康に呼び止められる。

「秀次殿、茶でもどうですかな」

突然の家康の茶席への誘いに、とても断る勇気など持っていなかった秀次はほいほいとついて行く。

実は、これは秀吉が家康に頼んでいた事であった。

そう、秀吉のおせっかいというか親心。

嫁取り話である。

大坂城には多くの茶室がある。その中でも大坂城の北、城の中程の森に作られた茶室に秀次は案内された。

すでに茶席の用意は古田織部が整えていた。

驚いた事に、そこには寧々がいた。


そしてもう一人。


幼いが気の強そうな、凛々しい美少女が一人。

なんだこれ、と思う間もなく、寧々が紹介する。

「こちらは家康殿の養女、小松姫です」

(小松姫? 誰だっけ、家康に小松姫なんて娘いたっけ? あれ、でも今養女って言ったよな。小松、小松……思い出した! 本多忠勝の娘だ! 幼名稲姫!)

ようやく自分の知識からその名を掘り起こした秀次。でもなんで本多忠勝の娘がここに? と思ったがとりあえず挨拶する事にした。

「羽柴秀次です」

「……小松、と申します」

頭を下げながらじっと秀次を見る小松姫。ちょっと気圧された秀次は若干腰が引けていた。


(なんか微妙な間があった上に睨まれた! 美人が睨むと怖いね。つか、この時代の姫には珍しくほとんど化粧っけがないな)


とりあえず茶でも飲んで落ち着こう、と茶を飲んだ時、家康が朗らかに話しかけてきた。

「このたび、関白様よりお話がありましてな。我が娘を秀次殿と娶わせてはどうか、とのありがたい申し出でありました」

思わず茶を吹き出しそうになる秀次。



(娶わせるってことは俺、この娘と結婚すんの!?)

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