領地経営
四ヵ国を拝領し、押しも押されもせぬ大大名となった秀次。
朝廷から関白位を賜った秀吉は姓を「豊臣」に変えて豊臣秀吉、と名乗りを変えていたが秀次は秀吉の養子とはいえ甥であることを考慮し、まだ羽柴姓を使っていた。
秀吉からは豊臣性に変えるべきではないか、と言われたが秀次は甥である自分は分家の一つとしてしばらく羽柴姓を持っておくべきだと秀吉に語る。
豊臣姓は秀吉と秀長が名乗る。その分家として羽柴の名を残す事によって、たとえば今後の九州征伐などで新たに臣下が増えた場合、羽柴に縁組すれば分家の一員として厚遇されていると思うだろうし、豊臣姓は朝廷より賜った正式な姓であるので、これにより貴重な価値を付随させるためにも、羽柴姓を残してはどうか、と提案したのだ。
この提案を聞いた秀吉は喜び、今後は羽柴の家長としての働きを期待しておる、と上機嫌に告げた。
秀次は切腹を避けるために、豊臣秀次って名前にならなければひょっとして切腹しなくてすむかも、というなんとも自己保身ともいえぬ低い次元での豊臣姓辞退だったのだが……。
四ヵ国を貰った秀次はその本拠地を尾張の清洲城に定めた。これは信雄が使っていた城であるが、戦火にさらされていない事、元からかなりの規模を持つ城であった事、単純に秀次が有名な城を自分の居城にしたかったなどの理由が入り混じっての決定である。
さしあたって秀次には当面の課題があった。
領土は増えたのだが、家臣が増えていないのである。
(舞兵庫と田中吉政に五十万石ずつ与えて俺は何もしなくていい……ってのは無理があるな、さすがに)
そんな事を考えながらも、伝手を頼って広く人材を求める事にした秀次。
とりあえず、舞兵庫の義父である前野長康とその子前野景定を家老として召し抱えた。
さらに史実では長久手の戦いで戦死していたはずの木下祐久と木下利匡を家老にし、相談役として秀吉の御伽衆から宮部継潤と三好康長を迎えた。元養父二人は高齢だったが、秀次からの嘆願に快く頷いてくれたので、筆頭家老とした田中吉政の補佐役をよく務めてくれるだろうと秀次も期待している。
三好康長の紹介で牧野成里、森九兵衛、安井喜内、高野越中、大山伯耆などが新たに家臣団に加わり、舞兵庫には十万石を与えて戦場では采をまかせる、と軍事関係に関して丸投げした。
(半年後くらいには九州に出発か。内々に別働隊の大将に決まってしまったからには行かないわけにはいかんけど、薩摩とやんのか……あの化物集団とガチで真正面からやりあうなんて真っ平ごめんだ。ま、それは後で考えよう。とりあえず新領土での内政だ。秀吉が茶々の元に通い始めたらしいし、いよいよ俺の死のカウントダウンも始まってるかもしれん……史実より功績を上げているからそう簡単には排除されんと思うけど、油断はできん)
考える事は多いが、秀次の目の前には領地経営と言う難題が横たわっている。
まず、彼は領地の他に秀吉から論功行賞で賜った金銀や名器、名刀などを財源として領地改革を始めた。
名器など見てもよくわからなかったし、名刀も自分で振れないからいいや、と手元に部下の褒賞用として少し残して京の豪商を通して売り払った。
家臣団をある程度形にした秀次は、領地経営に取り掛かる。
まず彼は伊賀の道を整備する。秀長の大和国との交通の便を大幅に向上させ、尾張~大坂間の移動時間を短縮したのだ。
この道は商業的にも大いに役立つ事となる。
同時に伊勢・尾張の港を拡張。この時代は、港によって商業規模が決まるのでこれは重要であった。
さらに尾張に京や堺から招いた鉄砲鍛冶、船大工、刀鍛冶、窯大将などを集めた工業都市と言うべき街を造る。
これは単純に作って運んで売る事を目的に津島港に隣接するように作られた。
また津島の港は拡張され大規模な造船所が造られる事になる。秀次は単純に水軍が欲しかったのである。
大名である九鬼嘉隆の協力を得て、軍船の建造ができる技術者を移住させてもらったのだ。
安宅船のほかに、彼はバテレンの船を検分させガレオン船を造る事を命じる。
仙台の伊達政宗が慶長遣欧使節を江戸幕府初期に行っている事を思い出したため、たぶん作れるだろうとの目論見である。
最も、秀次はガレオン船を造っても何に使うか考えていなかったが……。
検地も順調に進み、清洲城の改築工事も始まった。領内は可児才蔵に新たに信雄浪人の中から腕の立つ者を集めて自警団を組織させた。領内の治安維持を目的とし、有事の際には共に出兵する役割を持つ集団である。
可児才蔵は長久手の戦いでの恩賞として五千石を与えようと秀次から言われたが、前線で戦えるほうがいい、自分は千石でいい、と言って断っている。
代わりに秀次より「名刀・二つ銘則宗」を賜っている。
秀次は名刀だから喜ぶだろう、くらいの気持ちで与えたのだが、愛宕神社に奉納してあった刀なので愛宕権現の厚い信仰者である可児は落涙するほど喜び、この殿のためならいつでも死ねる、と朋輩に語ったと言う。
新しい家臣団も三好・宮部の両相談役が調整役を買って出てくれており、うまく機能している。
忙しく領地経営をしつつ、九州征伐への出兵準備も整えなければならなかったが、こちらは舞兵庫に丸投げしていた。
(あ、戸次川の戦い忘れてた……いや、史実より早いから気にしなくていいか?)
どちらにせよ、秀次が戸次川の戦いを思い出したのが天正十三年になってからであり、既に先遣隊として仙石秀久を軍監として派遣する事が決定されていた。
(ま、まあ史実より早く九州征伐が起きているし、ひょっとしたら戦闘にならない可能性もあるよね?)
とりあえず自分にできる事はないな、と割り切って別働隊指揮官として出陣する秀次。
秀吉本隊が十二万、秀次の別働隊が九万、総勢二十一万の軍勢が九州へと出発した。
ちなみに秀次は「島津と正面からぶつかるのはやだ」と舞兵庫に言っており、兵庫を呆れさせていた。
鬼とか西国最強とか言われる島津の兵と戦うのが怖かったのである。
逆に可児才蔵は新たな強敵とまみえる予感に胸躍らせていた。




