小牧・長久手始末 その2
秀吉は小牧山を占拠し勝鬨をあげるとそのまま手勢六万を率いて尾張へと向かった。
秀次は秀長と共に大坂へと帰還。秀長を城代としてその補佐を秀次が任された。
大坂に戻った二人はまず毛利との交渉を本格化。
来る四国、九州への遠征には毛利との連携が不可欠であり、密に打ち合わせる必要があった。
毛利との交渉は主に秀長が行い、秀次はその他の懸念事項を片付ける仕事にかかる。
(この仕事が多いんだよな、また……)
まず、家康と組んで大坂を脅かす気配を見せていた雑賀。
家康が撤退してなお、抵抗する構えを崩していなかった。
元々、雑賀は独立独歩の気風が強い。
信長時代ですら、その下風に立つ事を良しとしなかった。
秀次は、交渉は無駄とみて、大坂に残している六万の兵の半数を雑賀へと差し向ける。
総大将に堀秀政を指名し、雑賀の抑えに配していた中村一氏、藤堂高虎と共に討伐を命じた。
雑賀衆の中で恭順の意を示した者は所領安堵の上、官職を与えて遇するが、あくまで独立独歩を望む勢力は全て各個撃破し、攻め潰した。
名人久太郎と呼ばれたほどの戦争の名手は与えられた兵力を存分に活用し一月ほどで雑賀平定に成功。
これにより秀吉の本拠地である大坂は南からの圧力を完全に排除した事になる。
雑賀衆と並ぶ鉄砲傭兵集団である根来衆。
彼らは雑賀ほど独立気風が強いわけではない。より現実の利を重視する集団である。
秀次は根来衆に対して使者を立て、抵抗を辞めれば寺領を安堵し、今後は鉄砲隊として継続して雇う事を通達。
「雑賀と同じように平定しないのか?」
そう秀長に聞かれたが、秀次は明確に答えた。
「雑賀は独立独歩の気風が強すぎます。それでも、こちらについたほうが利があると恭順する者もいますが、大多数は逆らい続けるでしょう。兵力を見せて平定するしかありません。対して根来衆はより純粋な鉄砲傭兵。今後の戦では鉄砲の数はさらに重要となります。その専門家たちを纏めて雇っておく事は、他の勢力に彼らを使われないという利点があります。それに、根来衆は既に徳川殿が三河へ戻られたのを知っておりましょう。金払いがなくなった雇い主に忠節をつくす集団ではありますまい。佐々の件もあります。ここは取り込むべきでしょう」
その答えを聞いた秀長は深く頷いて、「ではその件はそちにまかす。佐々への対応も考えてくれ」と言って自分の仕事に戻って行った。
(佐々成政か…織田重臣達の中でも秀吉嫌いの筆頭って感じだよな。後世の創作かと思っていたよ。実際にめちゃめちゃ嫌ってるな。一応使者は出したけど、ほとんど中身も見ずに破り捨てて「人が猿に頭を下げるなどという事があるか!」との捨て台詞を吐いたらしいし。なんなんだ、この佐々って人。こっちが小牧まで出兵している間に、きっちり上杉と前田に抑え込まれて何も出来なかったくせに……ああ、もう、面倒だ。手元には三万ほど兵力が残ってるけど、これを動かして討伐ってなると、俺が総大将で行く事になるから、それはパスだ)
暫し他の報告に目を通しながら考える秀次。
(てか、佐々の領土ってそんなにでかくないのに……援軍もどっからも来ないのに、何を意地になってるのかわからんかったが、どうやら本気で秀吉が嫌いなだけか? ほっとくと家康に再起を促したり、信雄にも同じように再起を促すんだよな。そこまでして対抗したいかね? あ、徳川に渡りをつけられると後々面倒かも。家康が臣従するときに自分は家康と組んで抗したんだから、家康が本領安堵とかだと自分も、とか言い出しかねんな)
史実では最終的に十万の兵を率いた秀吉が越中に進軍し、ようやく降伏するのだが、小牧・長久手の戦いの結果が史実と違ってしまっている。
(家康は史実みたいな臣従の引き延ばしはできないだろう。本領安堵くらいが落としどころになるだろうって秀長さんが言ってたしな。佐々は……もういいや、前田と上杉にやらせよう。奪い取った領土をそのまま前田と上杉のものにするお墨付きを与えておけばやる気もでるだろ)
この時期、佐々陣営は重臣の離反が相次いでいた。
佐々成政は血気盛んだが、その重臣たちはそうでもない。
圧倒的な国力差、周囲は敵だらけ、さらに秀吉はほぼ東の面倒事を片付けつつある。
どう考えても尾張に攻め込んでいる秀吉軍か大坂に残っている残留部隊がいつか自分達を攻めて来るとしか思えないのだろう。
勝てない戦いに固執する主君より、前田か上杉に一族郎党ごと逃げ込んで、情報提供や兵力として自分たちを売り込む事によって取り成しを頼むほうが生き残れる可能性は高い。
逃げ込んだ重臣たちにとって、秀吉から「越中から切り取った領土の安堵」は渡りに船だろう。逃げ出した重臣に領地はないのだから。
結果、秀次が起案し秀長の名で出された「越中切取」の命により、前田、上杉の両家は佐々成政が籠る越中へと進軍を開始。一月ほどで富山城を囲み、佐々成政は降伏した。
その後、佐々成政は秀吉に許され、御伽衆の一人として召し抱えられた。
無論、捨て扶持が与えられただけであり、実権など何もない職である。
彼にとっては屈辱だったであろうが、本来なら首をはねられていてもおかしくはなかった。
あれだけ秀吉に敵対した佐々成政でも許される、そう周囲に印象付ける事が秀吉の狙いであり、それは完全に成功した。
佐々成政に対して前田、上杉をけしかけた頃、大坂城の一角にある茶室。
「よう無事に帰ってきなさいましたな、秀次殿。心配しておりました」
そう言いながら茶の支度をしているふくよかな女性。
「さ、どうぞ」
俺の前に茶が出てくる。それをぐっと飲み干す。
「結構なお点前で……」
とりあえず、作法らしいものをなんとかこなす。てか、これで合っていたはず……。
まあ、身内しかいないこの茶会で特に作法などに拘る必要はないのだが。
「なんとか戻りましたよ、寧々様」
寧々。
秀吉の正室にて、秀吉の奥向きの事を差配する女性である。
かなりの女傑で、政治センスもある。情に厚く、特に尾張からずっと秀吉に従ってきた者たちを我が子のように可愛がっている。
……あるいは、ご自身に御子がないからかな……。
俺、つまり羽柴秀次にとっては養母である。実際の血縁で言えば、俺は秀吉の姉の子なので寧々様との血の繋がりはない。
「上様は尾張をほぼ平定したとのこと。もうすぐ戻れると文にありました」
はえー。小牧で別れてから一月くらいだぞ、まだ。率いる兵力が圧倒的と言っても、それにしても早いな。
まあ、秀吉は神速の行軍で知られた織田家の武将だったんだ。清洲城に籠った信雄なんぞ、一蹴したか。
史実では経済封鎖のような形に持って行ってから降伏させたんだっけ。史実より有利な状況の今、そんな搦め手を使う必要もなかったって事か。
つーか秀吉、寧々様にはマメだよな。戦場からでも可能な限り文を送るし。
「さすがですね、上様は」
出された茶菓子を食べながらそう言った。
「秀次殿も大いに働いているではありませんか。戻ってすぐに雑賀、根来を平定したのですから。それに今回の戦、徳川殿の軍勢を退けた功、天下に鳴り響いていますよ?」
「たまたまです。二度は無理ですね」
きっぱり、はっきりと否定しておく。
あんなもん、奇襲みたいなものだ。奇襲の上に博打だった。
もし本陣に突入した部隊が瞬く間に殲滅されていたら?
そもそも鉄砲の一斉射撃で本陣の前が思ったより崩れなかったら?
大体、相手は徳川家康だ。
同じ手が通じる相手じゃない。鉄砲の集中運用、騎馬のみでの突撃部隊、どちらも家康ならさらに効果的に使ってきそうだ。
「あなたは昔から自分の事を誇りませんね。東海一の弓取りと名高い徳川様を打ち破った事、大坂でも大層評判ですよ?」
おかしそうに笑いながら言わないで下さい。
史実の偉人、二百年から続く幕府を作った人だぞ。本来俺なんか相手にならん。
「堀殿と兵庫の功ですよ。あの二人がいなければ私は死んでいたかもしれません」
心の底からそう思う。
あの二人の戦術指揮能力がなければあの勝利はありえなかっただろう。
両翼を閉じさせない、言うは易いが実行するには相手を完全に抑え込んでしまうだけの力量がいる。
相手が本陣に突入されている状態で浮足立っていたとしても、彼らの指揮能力がなければ勝利はなかった。
特に信雄を壊滅状態に追い込んだ舞兵庫、史実でも戦上手として名を残しているが、ここまで出来る奴だとは思わなかった。
「上様からの手紙、ほとんどはあなたの事でしたよ。よほど嬉しかったのでしょう、何度も何度も、秀次はわしらの子じゃ、わしらの子じゃ、と」
ふむ、秀吉が自分の心の中を明け透けに見せるのは寧々様くらい。その寧々様に宛てた手紙でそれほど嬉しそうに報告していたのか。
……ああ、そっか。
秀吉の縁者の中で誰からも敬われているのは、秀長さんだ。というか、秀長さんしかいなかった。これまでは。
年齢的に今の段階では俺が最も跡継ぎに近い。秀吉に実子がいないからだ。
その跡継ぎ(仮)があの徳川家康相手に勝ったんだ。嬉しくもなるか。
ついでに今回、突入部隊として本陣へかちこんだのは、秀吉子飼い七本槍と俺の部下である可児だ。
福島正則、加藤清正はあの乱戦で首を三つも取ってきた。他の七本槍もそれぞれ好敵手を見つけて、槍を合わせて討ち取っている。
若い子飼いの者たちに手柄をあげさせた。賤ヶ岳の七本槍、というがこれは秀吉陣営が宣伝に使った名だ。
秀吉の下にも剛の者がいる、そう世間へ宣伝するために作られた英雄。なんで七人なのかはさっぱりわからんが、その七人が今回の戦で徳川家康の本陣へ躍り込んで奮戦したと言う事実は秀吉に取っては重い。半ば作り物の英雄が真に武勇を発揮したのだ。
……実際に最も大きな手柄は本多忠勝を抑えた可児才蔵だろうけど。「すいませんね、本多忠勝の首、取れませんでした。ありゃ、なかなかの化け物ですな」そんな事を言ってたけど、本多忠勝と互角に戦うって、可児も十分化け物だよ。
「正則、清正らも明るい顔で挨拶に来ていましたよ。しきりにあと少しで徳川殿の首をこの槍にかける事ができたと笑っていました」
ま、確かにあのまま攻め続けていれば徳川本陣はさらに被害甚大だったかも知れない。
しかし、他の部隊が途中から援軍として現れた。戦力は拮抗した。その状況で長く留まれば、七本槍の何人かは戻ってこられなかった可能性がある。
というより、あれ以上は俺の精神状態が持たない。だから退いただけだ。
最も、後に「徳川と正面から野戦でぶつかり撤退に追い込んだ」としてあの戦い後、俺の評価は勝手に上がっていた。
おまけ程度と思っていた信雄の部隊が最も被害が多く、兵のほとんどを見捨てて逃げて行った事もあって秀吉からお褒めの手紙を貰っている。
この戦は信雄が秀吉に反旗を翻した、それに同盟者として徳川が答えた。
世間も武将たちも俺もみんな勘違いしていた事がある。この戦の主将は秀吉であり、信雄なのだ。
家康はあくまでも過去の誼によって組しただけであり、戦の主役は信雄と秀吉。
その信雄を命からがら逃げるほどに追い詰めた秀次の功は大きい。
と手紙に書いてあった。
……秀吉、戦前から状況が変わったから論点をずらしたな。
戦の前は信雄の挙兵に家康が手を貸す、しかし実際に戦場で相対するのは秀吉と家康。
秀吉は家康を叩いておき、配下に置きたい。
家康はある程度の勝利をもぎ取り、今後の交渉で優位に立ちたい。
信雄の事などほとんどの人間が眼中になかった。が、俺があの中入りで家康を退かせ、信雄を壊乱状態にしてしまった。
秀吉は思っただろう。家康は一度敗けた。この上は三河へ退き兵を整えるしかないと。それを叩いて完全に征服するには時がかかる。ならば、形だけとはいえ主将であった信雄が壊乱して尾張に逃げ込んでいるのだ。この信雄を叩き潰す。その上で三河へは手を出さない。
信雄が降伏してしまえば、家康に戦う理由はなくなる。
その上で家康には「不幸な行き違い」があった、とでも書状を送っておき、三河へ攻めるつもりがない事を匂わせる。
徳川家の中では連日のように「どこを落としどころとするか」が話し合われているであろう。
まあ、後は秀吉が決める事だ。俺は十分やった。そう、やったはずだ。たぶん……。