始まりの章
近江国、賤ヶ岳。
この山深い地に二つの勢力が陣を張っていた。
一つは柴田勝家。
織田家の筆頭家老にして、古参の重臣。越前を所領として、越後の上杉家と争っていた、織田の北方司令官。
織田信長亡き後、信長の三男・織田信孝を推して秀吉に対抗した男。
元織田家臣の中で最強と呼ばれる武辺の男でもある。
妻は信長の妹であるお市。このことから見ても、天下を狙うに十分な資格のある男と言える。
一つは羽柴秀吉。
信長の草履取りから立身出世。信長が本能寺で亡き者となるときに、中国方面司令官として毛利と交戦中であった。
史実に有名な「高松城水攻め」において清水宗治を自刃させ、毛利と和睦を結ぶやいなや、反転。
「中国大返し」と呼ばれる大移動によって山崎に布陣。
主の仇、明智光秀を討ち取った男である。
対陣から既にかなりの時が流れている。
互いに自らの篭る山々を要塞化し、いたるところに旗が翻っているのが見て取れる。
睨みあったまま、完全に膠着している状態である。
(まあ、勝家のおっさんは負けるんだどね)
秀吉の本陣より遥か向こうの山を眺めていた青年は心中そう呟いた。
(佐久間盛政が中入りして秀吉がいない間に本陣落とす!って意気込んで来るんだよな。
で、引き際間違えて秀吉本隊が引き返してきてやられる、と)
史上でも有名な賤ヶ岳の戦い。十分に覚えていた。
(まあ、俺は馬周りだし。端っこのほうでこそこそしておこう。
周囲は手柄を立てる絶好の機会ぞ! とか盛り上がってるが、俺はここは無難に怪我しないことを考えよう・・・)
彼の名は羽柴秀次。
秀吉の甥である。
ある朝、目覚めたらなんか今にも崩れそうな藁葺きの家にいた。
どうにも、戦国時代であるようだ。
昨日まで中小企業のサラリーマン(係長補佐)だったのに。
少し酒飲んで帰って、友人と給料の少なさ、仕事にやる気がでないことなどを愚痴って帰っただけなのに。
なんで? いきなり戦国時代??
混乱した。パニックにもなった。
が、現実としてこれは受け止めざるを得なかった。
一年ほども畑を耕したり他の家の収穫を手伝いにいったりして、それなりにまったり暮らしていた。
このまま農民で一生を終えるのもいい・・・そう考えていた時期が僕にもありました。
きっかけは家族、主に母の話である。
「わしの弟は武士になんぞなりおってな・・・」
武士。侍である。
この時代なら腕に自身があるものなら誰でもなれるものである。
無論、最初から郎党を率いている筋目正しい者もいるが、あぶれ者なども大名の傘下で戦い、それなりに功を上げれば
知行取りになることも夢ではない。
しかし、叔父にあたる人が武士とは初耳だ。見たこともないぞ。
「言ってなかったかぇ? ほれ、最近世間を騒がしとる、織田様のとこよ」
何とぉ! 織田ですか! この時代ならもろ信長! 織田信長だよ!
日本史上、最も高名な人といって過言ではない!
「なんじゃ、でかい声だしてからに。その信長様のとこで働いとるわ」
驚いたな。叔父は信長の家臣なのか・・・有名人か?
・・・違うな。実家が農家だし。足軽ってとこか?
「まったく、大人しく畑でも耕してりゃーよ、今頃お前に分ける田畑くらいあったもしれねーのによ。籐吉郎め」
・・・おや?
母上殿、叔父の名はなんとおっしゃいましたかな?
「籐吉郎じゃが?」
え、と。籐吉郎さんってのは、猿っぽいっていうか、鼠っぽいっていうか、そんな風貌してたりします?
「猿じゃな」
ほほう。
織田家の者で籐吉郎・・・ね。
「木下籐吉郎、とか名乗っ取ったわ。まったく、ごんたくれもいいとこじゃ」
木下籐吉郎・・・羽柴筑前守・・・豊臣秀吉!!
後の天下人じゃねーか! ってことは俺は天下人の甥! 超パワーエリート確定!
天下人、つまり日本国の頂点が叔父! 栄華を極めて最高の生活が送れること間違いなしか!
・・・果て、秀吉の甥ってどんな奴いたっけ?
歴史小説は学生時代から読み漁っている。
信○の野望は前作やりこんだ派だ。
秀長・・・は父違いの秀吉の弟か。
秀秋・・・はねねの兄の子だったはず。後の小早川。
秀勝・・・は信長の子の一人を養子にしていたはず。
秀次・・・秀吉の姉の子だ。最期は切腹されられる可愛そうな奴だな、うん。
俺だ。
こいつはお先真っ暗だ。