九華
約束の時間に俺は菖蒲の部屋を訪れた。
昨日とそう変わらない着流し姿だ。
「さて、改めて何かわからないところはあるか?」
実際にやってみるとわからなくなることも少なくない。
「いえ、うまくいってます。すらすらとイメージができてるので、今日でデッサンは終わりにできますよ」
「そうか、それは完成が楽しみだな」
そう言って俺は暇をつぶすために盃を傾け始めた。
しばらくすると菖蒲が話しかけてきた。
「遠藤様と藤里様はどのようなご関係なんですか?
学校の先輩後輩の関係かと思っていましたが、まさかそんなに年が離れていらっしゃったんですから…」
「あぁ、似たようなものだ。兄弟って言った方が感覚は近いか。
俺は露宮の生まれなんだよ。だからまだ花街から出たことのなかったあいつにいろんな事を教えてやってたのさ」
あっさりと言った俺に対して菖蒲は驚いたようであった。
「遠藤様は…露宮のご出身なのですか?と、言うことはお母様は…」
「遊女だった。珍しいだろ?今もだが、昔も遊女の子なんて数も少ないし、みんな花街の仕事についているからな」
露宮でもある年齢までは学校に通うが卒業後はたいていお世話になっていた見世で働く。
学校に通っている間は花街から出ることは許さないことが原因だろう。
また遊女の子供は花街の中でもあまり風当たりがいいとは言えない。
「それはご苦労をされたのですね。話にくい事を失礼しました」
「別にいいさ。それに俺は苦労していないんだ。学校は『外』に行っていたしな。だから藤里にいろいろ教えていたのさ」
藤里の父親はもちろん紅伽楼の先代主人。たった1人の跡継ぎを『外』に出すのを極端に嫌がっていた。
そんな藤里に俺は勉強以外の、花街ではない世界を教えていた。
「だから仲がよろしいのですね」
「まぁな。…言いたくなければいいが、お前はいつ頃ここへ?」
花街の遊女となる理由は様々だが、多くの場合は大人の都合で売られてくる。
「私がこの露宮に来たのは12歳の時でした。小さな頃に両親を亡くして身寄りがなく、小学校を卒業してこの世界に自分から入ったのです。
」
菖蒲は淡々と話した。
「へぇ、12歳ねぇ…最初から紅伽楼にいたのか?
それにしては見覚えがないんだが」
俺は昔から紅伽楼をよく訪れていた。しかし、菖蒲を見た覚えは最近までない。
「初めはここのような奥まった所ではなく、もっと大門に近い所にいました。
紅伽楼に来たのはお客をとるようになった時…17歳の時です」
花街では唯一『外』へ繋がる大門。
大門に近い見世ほど安く敷居が低くなっている。
「4年前か、俺は禿とは話したりするが遊女とは関わりがないからな…
それにしても、紅伽楼に引き抜かれてよかったな。ちゃんとした見世の方が客も常識的だから」
紅伽楼は露宮のなかで最高級と噂されている遊廓の一つである。
そのため客の社会的地位高くマナーがいいのだ。
菖蒲と俺はデッサンを続けながら様々な話をした。
菖蒲は禿時代に藤里が目をつけて高値で買い取られたらしい。
年季があけたら画家になりたいこと、旦那たちのあれこれなどを話しているうちに夕方になった。
「そろそろタイムリミットだが、デッサンは終わったか?」
デッサンさえ終われば毎回モデルがいる必要はない。
「はい…でも、明日までいらっしゃるのですよね?
でしたら明日も付き合って頂けません?」
菖蒲が不安そうに尋ねてきた。
「別にいいぞ。明日の夕方まではあいてるから、また呼んでくれ。じゃあ大変だろうが絵も仕事も頑張れよ」
そう言って俺は部屋を後にした。
その時の菖蒲のなんとも言えない表情は今となっては俺の言葉に傷ついたんだとわかる。