一華
からん…ころん…
日が落ち、賑わい始める花街。高級娼館『紅伽楼』でも、見世の準備がせわしなく行われていた。
そんな喧騒はどこ吹く風、とばかりに、その広い中庭で一人の遊女が散歩をしていた。
年の頃は二十歳に届いた位だろうか。しっとりと濡れたように輝く長い黒髪を背に下ろしたまま、鮮やかな深紅の布地に金の刺繍の入った着物を纏っていた。
下駄を軽やかに鳴らしながら、まわりを気にするでもなくゆっくりと歩き、時たま咲き誇っている花ばなに視線を落としている。
「見ない顔だな…」
その姿を楼の2階から見下ろしながら呟くと、それに気付いたここの主人である藤里が庭に目を向けた。
「あぁ、菖蒲ですよ。あの子が外に出ているなんて珍しい。今日は客をとらないつもりなのかな?」
優美な着物は花魁の証。だが、この時間にゆっくりしているということは、どこかの旦那が彼女の時間を買い占めているか、今日は見世に出ないかどちらかだ。
「菖蒲は昼でもあまり外に出ないから今まで会わなかったのでしょう。よく働くし、旦那もたくさんついてる家の売れっ子ですよ」
「ふぅん…」
遠目だが、高級娼婦にふさわしい、美しい顔立ちをしているのがわかる。
パチン…
「王手」
しばらくぼんやりと女の姿を眺めていたが、その声で視線を将棋盤に戻す。今は賭け将棋の真っ最中であったのだ。
「…お前、俺が見てない間に駒を動かしただろ。」
「そんなわけないですよ。さぁ、早く打ってください」
一手前までは優勢だと思っていた盤上は、藤里の一手で絶望的な状況になっていた。悩む俺に対して、藤里はいつもと変わらずにニコニコしながら急かしてくる。
「だめだな、俺の負けだ。ちっ…」
俺はしばらく悩んだが逃げ道がないことがわかりあっさりと投げ出した。だめなものは粘ってもし彼方ない。負けた俺は流儀にならって、盃の酒を一気に飲みほした。
「さて…これで3勝0敗。まさか盃3杯で酔いがまわりはしませんよね?もうひと勝負といきましょう。」
日が落ちて、もう一刻もしないうちに見世を開ける時刻だというのに藤里は気にもとめない様子で言う。
「ったく…見世はいいのか?将棋なんてしてないで仕事しろよ」
そう言いつつも一度も勝てずに終わりにするのは癪なので盤に駒を並べなおす。
ふと中庭を見るともうそこに菖蒲の姿はなかった。