第86話 砂漠の果てで
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■1.砂が、変わる
三日目の、朝だった。
鍵は、目を、開けた。天幕の布が、微かに、揺れていた。風の音が、外から、聞こえた。乾いていない風だった。昨日まで三日間、砂漠の風はずっと乾いていた。だから今朝の違いが、すぐに、わかった。
天幕の布に、指を、触れた。乾ききった砂漠の三日間で、その布は、ざらついて、固くなっていた。しかし今朝は、指先に、わずかな湿りが、あった。朝露ではない。空気の湿気が、布の繊維に、しみ込んでいた。こんな感触は、砂漠に入ってから、一度も、なかった。地平線が、赤みを帯びていた。砂漠の朝日は、いつも黄金色だった。しかし今朝は、その赤が、いつもより、濃かった。土の粒子が、空気の中に、混じっているから、だろうと、鍵は思った。風が、音を、変えた。砂を叩く乾いた音ではなく、何かをなでるような、柔らかい音に、なっていた。
起き上がり、天幕の口を、めくった。冷たい空気が、顔に当たった。砂漠の朝は、いつも寒い。しかしその寒さの中に、何か別のものが、混じっていた。湿気だった。砂漠の空気に、湿気はなかった。三日間、ずっと、なかった。
足を、踏み出した。地面が、昨日より、少し固かった。砂が柔らかく沈む感触が、薄れていた。目を細めて、遠くを見た。地平線が、黄金色ではなく、赤褐色に見えた。
「気づきましたか」
声が、した。クロードが、すでに外に立っていた。その目が、静かに、地平線を、見ていた。
「土が、混じってきています。砂漠の、北端です」
鍵は、ゆっくりと、歩いた。足元を、見た。砂の中に、細かな土の粒が、紛れ込んでいた。砂丘の形も、昨日より低かった。風が運ぶ砂の量が、減っていた。そして足元に、草の芽が一本、生えていた。細く、弱々しく、しかし確かに、そこに、あった。
「もうすぐ草原に、なる」
「はい。地図によれば、あと半日ほどで、砂と草の境界線に、着きます」
後ろから、天幕の布がめくれる音がした。ミナが、出てきた。寝癖が横に跳ねていた。目をこすりながら、空を見上げた。
「今日は何か、違う感じが、します」
「土が出てきています」とクロードが、言った。「草原が、近いです」
「草原」ミナが、その言葉を、静かに繰り返した。
アリアが続いて、天幕から出てきた。ヴェンツェルは、すでに荷物の点検を、始めていた。セリアが最後に、手帳を胸に抱えて、姿を見せた。いつも手帳が先に来る、と鍵は思った。
「出発は」とアリアが、聞いた。
「一刻後に」とヴェンツェルが、荷を縛りながら、答えた。
朝食の準備が、始まった。乾燥した豆と、干した肉を煮た。シャムールで補給した水が、まだ十分に、あった。砂漠を越える、最後の朝食だ、と鍵は思った。火の周りに座り、器を両手で、持った。お湯が、指先に、温かかった。
■2.光符牒
食事を終えた頃、鍵の胸元が、淡く、光った。
懐から、光符牒を、取り出した。クルトから送られてきた、最初の連絡だった。薄い光の板に、細い文字が、浮かんでいた。
「帝都で氷の記録を巡る動きがある。北の某都市の物資記録が帝国の管理外で動いている。日付は先月から。量は少量だが、継続的だ」
鍵は、それを二度、読んだ。三度目を読もうとして、止めた。同じ文字を繰り返し読んでも、内容は変わらない。
『動きが、ある』
クルトは約束を、守った。同盟を結んだ翌朝に、もう情報を、送ってきた。帝国の調査官として、得られる情報の質と速度が、違った。自分たちが砂漠を歩いている間にも、帝都では何かが、静かに、動いていた。
鞄から、ノートを取り出した。これまでの旅で集めた情報を、書き留めてきたノートだった。水の座の記録、管理者の姉妹の話、地図に書き込んだ管理者の痕跡、シャムールの歴史。その最後のページに、新しい行を、加えた。
「北の都市・物資記録・管理外・先月から・少量かつ継続的」
ペンを走らせながら、鍵は考えた。物資が管理外で動く、ということは、誰かが意図的に記録から外している、ということだった。水の管理者の姉妹がそうだったように。いや、あの姉妹は、外からの侵入を防ぐために、記録を閉じた。妹は、都市を守るために、自分の記憶と感覚を、削り続けた。今度の動きは、何のための、隠蔽だろう。
可能性は、ふたつあった。ひとつは、氷の座の管理者が、何かを準備している、ということだ。先月から、というのは、タイミングが、良すぎる。シャムールで問題が表面化したのと、ほぼ同じ頃だった。水の問題が広がり始めた頃に、氷の側が動き始めた。それは偶然ではない、かもしれない。もうひとつは、管理者ではない別の誰かが、北の都市を使って動いている、という可能性だった。シャムールの貯水池は、管理者の姉妹が意図して隠した。しかし氷の都市の動きは、管理者の意思によるものとは、限らない。外から入り込んだ誰かが、記録の空白を、利用しているという形も、あり得た。
クロードが、隣で、静かに、立っていた。
「鍵さん、情報を共有してもいいですか」
「読んでいたの」
「読んでいません。ただ、あなたの顔が、少し、固くなったので」
鍵は、光符牒の文面を、クロードに見せた。クロードは、静かに、文字を、辿った。
「先月から、ということは、シャムールの問題が表面化した頃と、重なります」
「そう思った」
「氷の座の管理者が何かを準備している。あるいは、管理者ではない別の誰かが、北の都市を使って動いている、という可能性も、あります」
「どちらだと、思う」
クロードは、少し間を、置いた。
「まだ、わかりません。でも、どちらだとしても、私たちが北に向かうことは、正しいと思います。行かなければ、何もわからない」
鍵は、ノートを閉じた。革の表紙が、朝の光を、静かに吸った。ヴェンツェルが「出発の時間です」と、言った。
■3.草と風
昼を過ぎた頃、地面が、変わった。
砂が、消えた。正確には、砂の中に土が混ざり始め、やがて土が砂を追い出した。足元が、締まった。靴底に、硬さが、戻ってきた。草が、生えていた。最初は一本、次に三本、そして気づけば、地平線まで薄緑の絨毯が広がっていた。
アリアが、走り出した。草の中を、両手を広げて、駆け抜けた。
「草だ。本物の草が、ある」
声が、弾んでいた。砂漠の三日間で、あれほど声が弾むのを、聞いていなかった。ミナが、微笑んだ。ヴェンツェルが、地図を確認した。セリアが手帳を開いて、何かを、素早く、書いた。
鍵は、立ち止まって、振り返った。砂漠が、後ろにあった。黄金色の砂丘が、遠く、続いていた。シャムールは、もう、見えなかった。あの都市で何があったか、誰が眠ったか、何が変わったか。すべては砂の中に、置いてきた。
タラは、今頃、まだ水を送っているだろうか、と鍵は、思った。記憶と感覚を削りながら、それでも街を守り続けているだろうか。あの妹の静かな強さが、砂漠の向こうに、今も、あるはずだった。
『前を向く、しかない』
風が、北から来た。冷たかった。砂漠の乾いた熱とは、全く違う温度だった。草が、波のように、揺れた。その向こうに、まだ見えないが、氷の座がある、と鍵は知っていた。
クルトの情報が、また頭の中で、繰り返された。物資が動いている。記録の外で。先月から。
水の姉妹は、外の世界から来る者を、静かに、しかし確かに、待っていた。氷の管理者は、どうだろう。待っているだろうか。それとも、こちらの動きを、知っているだろうか。
クロードが、追いついてきた。
「草原の風は、砂の風より、よく冷えます。夜は急に、寒くなります」
「準備する」
「ヴェンツェルさんが、すでに毛布の配分を、計算していました」
鍵は、少し、笑った。ヴェンツェルは、いつも先に、準備している。シャムールを出る前にも、水の量を一人ずつ計算して、三日分の配分を、すでに分けていた。言葉は少ないが、必要なことを、必要な時に、確実に、やる人だった。
草原の風が、また吹いた。鍵の髪が、横に、流れた。北の空は、砂漠の空より、青が深かった。雲が少なく、遠くまで、澄んでいた。
■4.暖かさ、という答え
夜営は、草の平原に、設けた。
焚き火が、明るく燃えた。砂漠では燃料が少なく、火を小さく保っていた。草原には枯れ草があった。ヴェンツェルが集めた枯れ草が、よく燃えた。炎が、大きく、揺れた。六人が、その周りに、輪になって、座った。
しばらく、誰も話さなかった。炎の音と、草原を渡る風の音だけが、あった。鍵は、空を見上げた。星が、多かった。砂漠でも星は多かった。しかし草原の夜空は、湿気があった分、少し霞んで、それがかえって柔らかく、見えた。
アリアが、炎を見ながら、口を開いた。
「ねえ、次の相手は、何だろう」
誰も、すぐには、答えなかった。
「水の姉妹の時は、渇きだった。砂漠の渇きを、あの人たちが、長い時間、抱えていた。じゃあ氷の座の管理者は、何を、抱えているんだろう」
ミナが、焚き火の枝を、少し動かした。炎が、揺れた。ヴェンツェルが、腕を組んだ。セリアの手が、手帳に、伸びた。ペンを持つ気配が、あった。
クロードが、静かに、言った。
「暖かさ、だと思います」
アリアが、顔を上げた。
「暖かさ?」
「氷の中にいる者は、何が足りないか、と考えました。水の中にいた姉妹には、流れが足りなかった。砂漠の都市には、外との接続が、足りなかった。氷の座の管理者には、暖かさが、足りないのではないか、と思います」
「氷だから、冷たいのは、当たり前じゃない?」
「当たり前だから、こそです」
クロードの声は、穏やかだった。押しつけない、柔らかさが、あった。
「ずっと氷の中にいれば、暖かさが何かを、忘れます。忘れることに、慣れます。でも、忘れたからといって、必要でなくなるわけでは、ありません。渇いた者が水を忘れることが、できないように」
ヴェンツェルが、腕を組んだまま、炎を見た。静かに、しかし確かな声で、言った。
「帝国では、暖かさは、弱さだと、教わった。感情に頼る者は、判断を誤る、と」
炎が、揺れた。ヴェンツェルの目が、少し、遠くを、向いた。
「だから、氷の中の者が、暖かさを必要としているとしたら、それは、帝国の外で育った者か、あるいは、帝国の教えから、外れた者だ」
「その可能性は、あります」とクロードが、答えた。「帝国の冷たさが届かない場所に、別の原理で動く何かがある、とすれば」
ヴェンツェルは、それ以上、言わなかった。腕を組み直して、炎を、また、見た。その沈黙は、否定ではなかった。
鍵は、炎を、見た。
『水の姉妹は、孤独だった。閉じた世界の中で、ふたりきりで、同じことを繰り返していた。それが、自分たちにできる最善だと、信じながら』
氷の管理者は、どうだ。一人かもしれない。ずっと、冷たい場所に、いたのかもしれない。暖かさを必要としながら、持てなかった者。あるいは、かつて持っていて、失った者。
セリアが、手帳に何かを書き終えて、顔を上げた。
「書きました。暖かさ、クロード談」
クロードが、小さく、頷いた。アリアが、笑った。ミナが「正式な記録ですね」と、言った。ヴェンツェルが、鼻から息を、抜いた。それがヴェンツェル流の、笑い方だった。
鍵は、ノートを、開いた。クルトの情報の隣に、一行を、加えた。
「氷の管理者に必要なもの:暖かさ(クロード)」
炎が、揺れた。北からの風が、草を撫でた。遠くで、何かが鳴いた。砂漠では聞こえなかった音だった。草原に生きる、何かの声だった。
草原の夜は、深くなっていった。六人は、それぞれの沈黙の中で、明日の先を、思っていた。氷の座は、まだ遠い。しかし方向は、定まっていた。
暖かさを、届けに行く。それがこの旅の、次の答えだ、と鍵は、静かに、決めた。炎が小さくなっても、その確信は、揺れなかった。
(第87話へつづく)
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