第27話 アリアの故郷、実は複雑な事情がある
■1.種明かし
翌朝、鍵は宿屋の一階にある食堂で朝食を取っていた。
パンと温かいスープ。それだけの食事だが、エルムの空気のせいか、不思議と落ち着く味がした。窓の外には昨日と同じ石畳の通りが続き、早朝から馬車が行き来している。活気のある町だ。商業都市として成熟しているのが、一目でわかる。
鍵はスープを飲みながら、昨晩クロードに整理させた資料を見直していた。商会連合から届いていた書面、加盟商会のリスト、各商会の規模と取扱品目——それが羊皮紙三枚にまとめられている。
「鍵さん」
椅子を引く音がして、アリアが向かいに座った。いつもの几帳面な仕草だが、今朝は少し違う。視線がテーブルの木目に向いたまま、なかなか上がらない。
「何かあるのか」
鍵は聞いた。遠回しに話す前置きを省いた。アリアが一瞬だけ眉を動かし、それから小さく息を吐いた。
「……実は、ここが私の故郷です」
「エルム?」
「はい」
今度は鍵が黙った。昨日、馬車の窓からエルムの入口を見たアリアが「変わってないな」と呟いたこと、鍵の問いかけに固まったこと——断片が繋がった。あの瞬間に何かあると思ったが、本人が話すまで待っていた。
「なぜ言わなかった」
「言いにくかったんです」アリアはようやく顔を上げた。「個人的な事情を仕事に持ち込むつもりはなかったので」
「持ち込んでいないとしても、私は情報として知っておくべきだった」
アリアは少し唇を結んだ。反論があるのか、それとも納得しているのか、判断しにくい顔だった。
「……すみません」
それだけ言った。鍵はパンをちぎって、もう一度口を開いた。
「もう一つ確認がある。今回の依頼主——商会連合の構成商会のリスト、昨晩クロードに整理させた」
「はい」
「その中に、ソル商会という名前がある」
今度の沈黙は長かった。アリアが、静かに目を閉じた。閉じたまま、ゆっくりと息を整えているのがわかった。
「父の商会です」
鍵はスープを一口飲んだ。テーブルの上に広げた羊皮紙の書面に視線を落としながら、言った。
「つまり、依頼主のひとりがお前の父親だ」
「そうなります」
「わかった」鍵は書面を畳んだ。「今日の打ち合わせの前に、話し合いたいことがある」
窓の外で馬車の車輪が石畳を叩く音がした。エルムの朝が、静かに動き始めていた。
■2.鍵の判断
宿屋の食堂を使って、鍵はクロードを展開した。
光の輪郭が安定し、クロードが静かに立った。食堂の他の客は、今は誰もいない。アリアがテーブルの端に座り、腕を組んでいた。
「整理する」鍵はノートを開いた。「今回の依頼主は商会連合。アリアの父親・ソルが代表を務めるソル商会も、その連合に含まれる。アリアは我々のスタッフだ——これは利益相反の可能性がある」
「利益相反」アリアが繰り返した。「私が仕事を感情で歪めるとおっしゃりたいんですか」
「可能性の話だ」
「私は仕事は仕事です」
「お前が感情を持ち込まない保証がない」
アリアの肩が、わずかに強張った。窓から差し込む朝の光の中で、その表情がはっきり見えた。拒絶でも怒りでもなく——証明できないことへの苛立ちに近い顔だった。
「……持ち込みません」
「ならば証明してみろ」
短い沈黙が落ちた。クロードがそれを静かに見ていた。鍵はノートに何かを書き込みながら続けた。
「お前を外すつもりはない。ただ、今回の案件でアリアは補佐に回れ。クライアントとの交渉、条件のすり合わせ——その場面では私が主導する。お前は情報整理と記録を担当しろ」
「それは……」
「嫌か?」
「嫌ではありませんが」アリアはゆっくりと言葉を選んだ。「私がいることで、父が——ソル商会が、何か有利になると思っているわけではありません」
「わかっている」鍵は顔を上げた。「お前を疑っているわけじゃない。ただ、透明性のない状態で仕事を進めるのは、後々誰かが損をする。それはクライアントかもしれないし、お前かもしれない」
アリアは少しの間、窓の外を見ていた。
エルムの通りに、見覚えのある何かがあるのかもしれなかった。あるいは、何もないところを見ていたのかもしれない。
「……わかりました」
「クロード、この件の記録に追記しておけ。『アリア・ソルは本案件において補佐業務を担当。クライアントとの直接交渉からは外れる。理由:クライアントとの関係性の申告を受けたため』」
「記録しました」クロードが静かに言った。「なお——」
「何だ」
「アリアさんの感情変数に、通常より高い振れが見られます。記録しておきますか」
アリアが眉を上げた。鍵は少し考えて、首を振った。
「それはいい。行くぞ。ソル商会の事務所は何時から開く」
「……朝の七つ鐘からです」アリアが、ほとんど感情を乗せない声で答えた。「もう少ししたら行けます」
■3.父・ソルとの対面
ソル商会の事務所は、エルムの中心街から一本入った通りにあった。
石造りの二階建てで、正面には商会の旗印——金色の天秤のマーク——が掲げてある。扉は重く、取っ手は磨き込まれて光っていた。長年の商売の時間が、この建物に積み重なっているのがわかる。看板の文字も彫りが深く、この商会が一代で築かれたものではないと感じさせた。
鍵が扉を押すと、すぐに番頭らしき男性が出てきた。「ご予約のAIカンパニー様ですね」と言って、奥の応接室へ案内する。廊下の両脇には棚が並び、帳簿や契約書の束が整然と収められていた。乱れがない。整理の行き届いた事務所だ。
応接室に入ると、男が立っていた。
五十代。大柄で、背筋が真っ直ぐだ。日焼けした顔に、深い皺が刻まれている。体格は商人よりも職人に近い印象だが、目が鋭い。長年、人と交渉で渡り合ってきた人間の目だ。ゆったりとした商人の服を着ているが、それが少し窮屈そうに見える。たぶん、もっと動き回る仕事の方が似合う人間なのだろうと、鍵は思った。
その視線が、一瞬だけアリアに止まるのを見た。
ほんのわずかな間だった。驚き、というより——何かを飲み込んだ、そういう止まり方だった。それからソルは鍵に向き直り、ゆっくりと頭を下げた。
「ソルと申します。商会連合を取りまとめております。このたびは遠路、ありがとうございます」
「鍵と申します。AIカンパニーの代表です」
「お噂はかねがね」ソルは椅子を示した。「まあ、お掛けください」
三人が席についた。アリアは鍵のやや後ろ、記録係の位置に座った。ソルはその位置を確認し、何も言わなかった。
しばらく、沈黙があった。
それは商談の前の沈黙ではなかった。空気が、重さを帯びていた。ソルがテーブルの上で指を組み、アリアの方向——アリアではなく、その方角——にわずかに目を向けた。アリアは視線を帳面に落としたまま、動かなかった。羽ペンを持つ手は、静止していた。
鍵は咳払いを一つして、口を開いた。
「今回の依頼内容について、確認させてください。商会連合としての課題、具体的にお聞かせいただけますか」
ソルが鍵に向き直った。
「帳簿管理の自動化と、商品在庫の可視化が主な要件です」静かで、よく通る声だった。「各商会が独自に管理しているデータを一元化したい。今は毎月、各商会の担当者が手作業で集計しているが、誤記や遅延が多い」
「誤記の発生率はどのくらいですか」
「月次の集計で、件数の約一割に何らかの記入ミスが見られます。金額への影響は小さいものが多いですが、それで損失が出たことも一度ではない」
鍵はノートに書き込んだ。「集計の締め日は?」
「毎月晦日の夕刻。翌朝に各商会に配布します」
「配布先は何商会?」
「現在、連合加盟は十二商会です」
鍵はさらに書き込んだ。横でクロードが静かに処理している気配がある。アリアが帳面に記録を取る、羽ペンの音がかすかに聞こえた。
ソルはその音で、わずかに目を細めた。アリアを見ているのか、あるいは見ていないのか、判断しにくい顔だった。
「質問があります」ソルが言った。「AIカンパニーのスタッフの方々は——これまでどういった仕事を」
「主に王都周辺での業務自動化です」鍵は答えた。「書記業務の効率化、物流の最適化、商会の在庫管理など。いくつか実績があります」
「実績の話を聞かせていただけますか」
それから一刻ほど、打ち合わせが続いた。
鍵が質問し、ソルが答える。アリアが記録を取る。クロードが情報を整理する。部屋の中に、仕事の流れができていた。アリアが一度だけ補足のために口を開いた——「六月の集計書の様式はこちらですか」と確認したとき——ソルが、少しだけ間を置いてから「そうだ」と答えた。その間が、ほんの少し長かった。
■4.第一印象
打ち合わせが終わり、鍵たちが立ち上がった。
ソルが扉まで見送りながら言った。
「仕事の詳細な話は、明日改めて。今日は概要の確認ということで」それから少し声のトーンを変えた。「——今夜、もしよければ食事でも。こちらで席を用意できますが」
アリアが言った。
「それには及びません」
声はいつもの仕事のそれだった。過不足がなく、感情が乗っていない。
ソルが、短く言った。
「……そうか」
それだけだった。それ以上何も言わなかった。引き止めもしなかった。扉を開けて、丁寧に頭を下げた。鍵が礼を返し、アリアが小さく会釈した。父親の目が、一瞬だけアリアの横顔を見た。何かを言いかけて、やめた、とわかる間だった。
表に出ると、エルムの昼の空気があった。
通りは人が増えていた。商人が声を出し、馬の蹄が石畳を叩く。昨日と同じ、活気のある光景だ。アリアはそれを見ていなかった。まっすぐ前を向いて、少し早い歩調で歩き始めた。
鍵はその隣に並んだ。しばらく何も言わなかった。
「仕事の話だけにしましょう」
アリアが言った。通りの喧騒の中で、声はよく通った。
「ソル商会との件も、商会連合の他の商会と同じ扱いで進めます。それ以外のことは——」
一瞬、止まった。言葉が続かなかった。
「それ以外のことは、関係ありません」
鍵は頷いた。余分なことは言わなかった。
クロードが静かに、二人の間に入るように歩きながら言った。
「感情変数が増えました」
アリアが、歩きながら少しだけ眉を上げた。
「……記録不要です」
「既に記録しました」
「消してください」
「管理者の許可が必要です」
アリアが鍵を見た。鍵は少し間を置いてから言った。
「残しておけ」
「鍵さん」
「データは捨てない主義だ」
アリアは一瞬だけ目を伏せ、それからまた前を向いた。石畳の続く通りを、三人で歩いていく。
エルムの昼は明るかった。それでも、アリアの横顔はどこか、光の当たらない場所にあるようだった。
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