5-1.エルベの風
この物語にでてくる薬名、治療法、一部の病名、一部の物理法則はフィクションです。
年が明け、3学期が始まった。
あの日以来、舞は元気がない。学校には行っているが、やはりボーっとしていることが多いらしい。給食も大分残しているようだ。担任の先生も心配している。学校も休ませようかと考えたが、草薙先生と電話で相談して学校は行かせたほうが良いとおっしゃっており、そのまま行かせている。
家でも、ボーっとしていることが多く、何か誘っても乗り気ではない。
舞:「ひとりにさせて」
そういって、家でボーっとしている。冬子がべったりくっついて慰めているが、前のように自分から抱っこしてもらうようなこともなく冬子が抱きつくのをなすがままにしている。
冬子が腕によりをかけて料理を作るが、食欲がないといって、残すことが多い。今まででは考えられないことだ。
そんな中、俺と冬子は久しぶりに草薙先生に呼ばれた。舞は祐美子さんに見てもらっている。
俺達だけで呼ばれるのは一年半ぶりじゃないだろうか。あの時とは病気が違うのは俺達は良くわかっている。だけど、気が重いことには変わりない。
草薙 :「舞ちゃんは軽い鬱ですね。」
あきら:「やっぱりそうですか。」
草薙 :「ええ、かのんちゃんの死が相当こたえています。2年つづけてですからね。仲の良かった友達が天国行くのは。2年生にショックを受けるなって言うほうが無理があります。」
舞はかのんちゃんが亡くなってからすっかり元気をなくし、ふさぎこんでいる。なんとか元気づけようと冬子と二人で頑張ったが、駄目だった。
冬子 :「あの、美鈴ちゃんは?」
草薙 :「美鈴ちゃんは思ったほどひどくはないです。もっとも、見かけだけかもしれませんが」
冬子 :「仲良し3人組でした。」
草薙 :「はい。」
冬子 :「どうしたらいいのでしょうか?」
草薙 :「難しいです。時間をかけるしかないですね。とりあえず、我慢しろとか頑張れとか忘れろとか無理強いするのはダメですね。今までと違う別の楽しみとか新しいお友達にぐいぐい引っ張ってってもらうのがいいです。」
あきら:「あいつの楽しみといったらこの病院だからな~」
草薙 :「でも、この病院から少し離れたほうがいいです。ここは思い出がいっぱいあり、死が日常茶飯事の世界です。舞ちゃんはここに居る限り、思い出しショックを受けつづけます。」
冬子 :「それは院内学級のボランティアを止めろということですか。」
草薙 :「当分はボランティアをするより治療に専念すべきです。2年生らしく、外で遊んだり、おままごと遊びしたりするのがいいでしょう。」
あきら:「じゃあ、どこか気晴らしにでも旅行に連れて行きますよ。」
草薙 :「それもいいですが、無理強いは逆効果です。ゆっくり休息するのが一番です。この2年舞ちゃんは忙しすぎました。たまには休息するのも必要です。」
確かに、2年半前に病気になり一昨年の正月からこの病院で治るのを目指して頑張っていた。そして退院してからもずっとこの病院でボランティアをしている。舞にとって、小学校とこの病院こそが世界だった。でも、病気でもないのに病院に入り浸るのは確かに変だ。こんなときくらい病院から離れるべきだ。でも、舞は納得するだろうか。
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舞 :「やだ。病院行く。」
舞はすぐにそう言った。
あきら:「舞、何もず~っといくなって言ってるんじゃない。少し休もうといってるんだ。」
冬子 :「舞ちゃんは今、風邪を引いてるんです。心の風邪です。だから家で大人しくしてましょう。」
舞 :「病気なんだったらなおさら病院行かなきゃ。病気だから病院に行っちゃいけないっておかしい。」
あきら:「でも、草薙先生が来てはダメだって言うんだ。草薙先生の言うことは聞かなきゃだめだろう? 一昨年、聞かないで 大変な思いしたの覚えてるだろう。」
舞 :「覚えてる。」
一昨年、薬を飲まないで、病気が一気に悪くなったことを舞は思い出した。
舞 :「でも...」
あきらと冬子が真剣な顔で舞を見る。
舞 :「わかった。パパ、ママ。」
舞はそういうしかなかった。
あきら:「うん。」
冬子 :「少しの辛抱です。」
二人がにっこり微笑む。
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草薙 :「だめだ。帰りなさい。」
つかさ:「舞ちゃん、いうこと聞きましょう。」
舞はパパや冬ちゃんに分かったといっておきながら結局、病院に押しかけた。でも、6階西棟入り口で草薙先生とつかささんに見つかってしまった。
舞 :「なんで? 西棟にかのんが待ってるよ。一緒にお話ししてあげないと。物語読んで、タロット占いやって。そうだ、夜になったら一緒に星を見ないと。」
草薙 :「ふぅ。」
つかさ:「舞ちゃん、かのんちゃんは死んだんです。ここにはいません。」
舞 :「そんなことないよ。かのんはまだここにいる。ちゃんと戻ってきている。」
つかさ:「舞ちゃん!」
つかさが舞の両腕をつかみ、「しっかりして」と言わんばかりに腕をゆすろうとするのを草薙が止める。
草薙 :「(今の舞ちゃんはかのんちゃんの死を受け入れていない)」
そう舞に聞こえないようにつぶやき、首を振る。
つかさ:「今の舞ちゃんには休息が必要です。ゆっくり休んでください。たまには思いっきりパパや冬ちゃんに甘えてください。」
草薙 :「少し休んで元気になればまたくれば良い。そのためにも今は休め。」
ふたりともあきらや冬子と同じことを言った。
結局、入れてもらえないので舞はしょうがないけど帰ることにした。
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私は病院にも行けず、でも家にいても気分が晴れなかった。それで、仕方なしに、不思議な風景の世界に入り浸っていた。「しおんの部屋」を抜け出し、丘の上で、ぼーと海を見て過ごしていた。
ただひたすら、波が浜辺に打ち寄せては返す。そんなことの繰り返しを見ていた。
この世界には私しかいない。鳥も虫もいない世界。ただ静かに時間が流れる。ゆっくりと時間だけが過ぎていく。だんだんと日が暮れていきあたりが暗くなっていく。でも、私はその場に座り込んで膝を抱えて海を見ていた。
どれくらい時間が立った時だろうか。遠くから人が来る足音が聞こえる。足音はゆっくりと近づいてくる。この世界には人間はだれもいない。だから、近づいてくるのは、きっと、かのんだ。神様が私の願いにこたえてくれたんだ。
舞 :「ほら、かのん、一緒に見ようって言ってた『冬のダイヤモンド』が登ってきたよ。すごいきれい。かのんにも見えるよね。」
私は空を見ながらつぶやいた。足音は私の横でとまった。
女の子:「本当きれいね。でも、いくらαベクトル空間だからといっても、このままいると風邪をひいちゃうよ。」
声をかけられた。
女の子:「でも、いつもここは春だよね。冬になっても寒くない。いつまでもいたい気がする。」
本当はその子がかのんじゃないことを知っている。心の底でその子が来るのを待っていたかもしれない。そして私は、ゆっくりと振り返る。
その女の子はよく知っている姿をしていた。そう、鏡で見た私と同じ姿。
舞 :「詩音」
詩音はにっこりほほ笑んだ。
舞 :「ほっといてよ。一人でいたいの。」
詩音は黙って私の隣に座った。そして、何かしゃべるわけでもなく一緒に座っていた。そのうち、日が沈み、星が出始めた。
詩音が星を見て話し始めた。
詩音 :「この時期だと夕方にはもうオリオン座が登ってるのよね。左上の赤い星がベテルギウス。地球から500光年離れた星。もう超新星爆発を起こしてるかもしれない赤色超巨星。」
詩音 :「隣がおおいぬ座のシリウス。全天で一番明るい星。地球から8.6光年しか離れていない星。ここから肉眼で見える星で一番地球に近い星。」
私は詩音の話を聞きながら入院していた時のことを思い出していた。あのころはかのんと病院の窓からこうやってオリオン座や冬の大三角形を見ていた。
詩音が歌い出す。
詩音 :「アンドロメダのくもは。さかなのくちのかたち。大ぐまのあしをきたに。五つのばしたところ。小熊のひたいのうへは。そらのめぐりのめあて。」
それは、かのんがよく歌っていた星めぐりの歌だった。
舞 :「かのん。」
思わず口に出てしまった。そうしたら、もう涙が止まらなかった。そして、感情がほとばしってきた。
舞 :「かのんがその歌歌ってくれた。かのんは私に星を教えてくれた。かのんは入院してた時も周りの人がじろじろ見る中で明るくふるまって、私に勇気を与えてくれた。かのんは私たちを引っ張ってってくれるお姉さんみたいな人だった。かのんは…」
舞 :「かのん、かのん、なんで死んだのよーーー。もっと、もっとお話ししたかったのにーーー。」
私は詩音ちゃんに抱きついて泣いた。詩音ちゃんは私をそのまま抱きしめ続けてくれた。そして一言いった。
詩音 :「ごめんね。かのんちゃん助けられなかった。」
私は大声ではばかることなく泣き続けた。お葬式でも泣けなかったのに。
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詩音 :「あらためまして。楠木詩音です。対世界の舞ちゃんになります。お見知りおきを。」
どれくらい時間がたったろうか。詩音が部屋に戻ろうといって連れてきてくれた。私はもう、落ち着いていた。
舞 :「楠木舞。えっと。」
詩音 :「とりあえず、聞きたいことが一杯ある顔してる。時間はたっぷりあるわ。なんでも質問して。」
舞 :「どうして、私が二人いるの?」
詩音 :「この世界は並行宇宙と言われていて似たような世界が無限にあるの。だから、自分と同じ人も何人もいるわ。」
舞 :「並行宇宙?」
詩音 :「うん、同じような世界。その中でも対になる世界があるの。無限にある世界の中で比較的近いところにある世界。それが『対世界』。つまり、私が住んでいる世界と舞ちゃんが住んでいる世界。この二つは距離的にすごく近いのよ。」
舞 :「どれくらい?」
詩音 :「一番近いところで7m68cm。そして一番近いところはこの部屋にある。この部屋には二つの世界の出入り口があるの。この距離はくるみちゃんの統一場の方程式の第15偏微分方程式を解けば、簡単に出てくるわ。」
舞 :「統一場の方程式? 第15偏微分方程式?」
詩音 :「うん、アインシュタイン方程式は知っているでしょ。あれはテンソルが4つなのよ。だから、10個の偏微分方程式に分かれるけど、くるみちゃんの統一場の理論はテンソルが5つなの。時間が2軸あるからね。だから15個の偏微分方程式に分解できるの。そして、その15番目が対世界を表す式。」
舞 :「ぜんぜんわかんない。」
詩音 :「え? えっとアインシュタイン方程式はわかるよね。」
私は首を振る。
詩音 :「フーリエ展開は?」
私は首を振る。
詩音 :「まさか、三角関数はわかるよね。」
私は首を振る。
詩音 :「えっと、ニュートン力学はわかるよね。運動量保存の法則とか。」
私は首を振る。
詩音 :「くるみちゃんに習わなかった?」
私は首を振る。
詩音 :「学校でならわなかった? て、習うわけないか。う~ん、ま、いっか。とりあえず、二つの世界があるって思ってればいいわ。他に質問は?」
舞 :「対世界の私って言うけど、遺伝子的には同じなの? 塩基配列とか一緒? 詩音は染色体異常とかそういうのなの? それともやっぱり脳下垂体の異常が見られるの? そのため、免疫抑制してラインベルグ症候群を抑えてるの?」
詩音 :「へ? 遺伝子はわかるけどその後の質問がわからない。」
舞 :「免疫過剰ってわかる?」
詩音は首を振る。
舞 :「高力価プログリンは?」
詩音は首を振る。
舞 :「まさかステロカイドは?」
詩音は首を振る。
舞 :「ラインベルグ症候群は? 自分の病気だよ。」
詩音 :「そういう名前だったんだ。」
舞 :「・・・・」
短い沈黙の後、私はおかしくて笑い出してしまった。
舞 :「おんなじ。」
詩音 :「おんなじ。でも、ちょっと違う。得意分野が違うんだね。舞ちゃんが医学、私が物理学。」
そう言って二人で笑いあった。おんなじなようでちょっと違う。まるで双子の姉妹。一人っ子の私に双子の姉妹ができたみたいだ。
舞 :「じゃあ、質問の続き。今度は簡単に説明して。この世界に詩音はどうやってきたの?」
詩音 :「『12音階の平均律による時間の調和理論』を使ってきたの。この定理はくるみちゃんの第三定理とか、Shion's Theoryつまり詩音の定理とか呼ばれてる理論。私の名前がついてるんだよ。かっこいいでしょ。」
舞 :「もう、もっとわかりやすく説明してよ。」
詩音 :「あ、ごめんごめん。そうね~。じゃあ、木箱を使ってここに来たの。」
舞 :「木箱って、この冬ちゃんの木箱? あ、冬ちゃんって私のお母さんのこと。」
詩音 :「うん、舞ちゃんが木箱でこの部屋に来るの見てたの。それで気付いたの。」
舞 :「この部屋って、やっぱり向こうから見えるよね。冬ちゃんも木箱使って見えるって。」
詩音 :「冬子さんも見ることができるんだ。新発見。多分、舞ちゃんや私と同じ固有時間振動数を持ってるんだろうね。」
舞 :「また、難しい言葉使った。」
詩音 :「ごめん。でも、共鳴はこの世界の基本だから覚えておいてほしいの。ギターとかバイオリンってどうして弾いただけで大きい音が出るかわかる?」
舞 :「えっと、大きな木でできた箱があって、その中が空洞になって音を大きくしてるから。あ、そっか! 木箱も木でできて中が空洞! それに『コーン』って音が鳴る!」
詩音 :「そうなの。それが共鳴。この木箱が実は跳び箱の踏切坂の役目をしていて、こっちの世界にいけるようになってるの。」
舞 :「へ~」
詩音 :「だけどね。ただの木じゃダメなのよ。それで結構苦労したんだ~。」
ふたりで一杯話した。今までの生活、ここまで来た方法。詩音は私たちの闘病生活に涙ぐみ、私は詩音のいたずら話におなかを抱えて笑った。
ここはαベクトル空間。決して時間の流れないところ。いくら話をしても時間がたつことはない。話しているうちに私たち二人はすっかり打ち解けて、生まれたときからのお友達のようになっていた。
詩音 :「ふ~。話疲れた。ちょっとしゃべりすぎたかな。」
舞 :「ほんと、詩音っておしゃべり、でも私も結構しゃべったかも。なんだかのどか乾いた感じ。」
詩音 :「私も~。」
αベクトル空間では飢えや乾きは感じられない。そもそも時間が流れないのだから。だから、のどが渇いたと思っているのは精神的な感覚で肉体が欲しているわけではない。
舞 :「なんか飲み物ないかな~」
詩音 :「ほんと。あ、いい方法考えた。舞ちゃん、その場に立って私の手を握って。」
舞 :「?」
舞は言われたとおりに立って詩音の手を握った。
詩音もたって右手に木箱を持った。そして、その右手を突き出しこう言った。
詩音 :「エルベ!」
その途端、周囲は一瞬柔らかな白い光に包まれ、ゆっくりと晴れて行った。
そこは花の丘公園だった。
舞 :「あ、ここは花の丘公園。戻ってきたんだ。」
詩音 :「うん。でも、花の丘公園はあってるけど、ここは舞ちゃんの世界じゃない。」
舞 :「え?!」
詩音 :「ここは私たちの世界。さあ、飲み物飲みに行こう。お話の続きはそれから。」
詩音は舞の手を握りずんずん進んでいった。
つづく