3-2.小春日和
この物語にでてくる薬名、治療法、一部の病名、一部の物理法則はフィクションです。
一階のリビングから声が聞こえる
「さあ、ご飯の用意が出来ました。下におりてきてください。」
リビングに下りてくると長いストレートの髪にカチューシャをした女性がご飯の用意をしていた。
「お熱とかこんこんとか出てませんか? とっても心配です。」
私が首を振るとその女性は安心してにっこりと微笑み私に話し掛ける
「準備が出来ました。今日も冬子がよりに腕をかけてご飯作りました。どうぞ召し上がれ。舞ちゃん...」
ガバッ
目がさめ、起き上がった。夢だった。このごろ良く見る夢だった。
詩音 :「なんなのよ、この夢~。かんべんして~」
和恵 :「詩音ちゃ~ん、いいかげんにおきなさい。いくら土曜日でももう10時すぎてるわよ~。ごはんかたづけちゃうわよ~」
下のリビングから声が聞こえる
詩音 :「はーい。今起きた~。着替えるから待ってて~」
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午後になっていつものように隣のくるみちゃんの家に遊びに行く。
くるみ:「いただきます。」
詩音 :「いただきます。」
もう11月も終わろうとしている小春日和の土曜の午後の昼下がり、くるみと詩音はいつものように庭のテーブルに腰掛け、お茶にする。今日はアップルパイとロシアンティーだ。
詩音 :「うん、おいしい。やっぱりくるみちゃんのお菓子は最高。」
くるみ:「どういたしまして。」
この習慣は詩音が物心ついたときには行われていた。秋から冬にかけて行事のない土曜の昼下がりはくるみちゃんの家で過ごす。天気が悪かったり、寒かったりするときは部屋の中だが、今日のような天気のいい日は外ですごす。
庭にはサルビアやけいとうやポインセチアの花が植えられている。
詩音 :「お庭、相変わらずきれいね。」
くるみ:「あきら君が、ちゃんと世話してくれてるから。」
にっこり笑って答える。ご両親は有名なバイオリニストで日本に帰ってくることはほとんどなく、くるみも年の半分はアメリカにいて、日本に帰っても、研究とか講演とかで忙しい。だから、この広い家と庭の面倒が見切れない。そこで、隣の楠木家が管理人を行っている。楠木家にとって貴重な収入源である。
くるみ:「オレンジケーキはいかが?」
詩音 :「わあ、オレンジケーキもあるんだ。ほしい~」
くるみ:「はいどうぞ」
詩音 :「いただきます。」
くるみは詩音が食べるのを微笑みながら見ている。
詩音 :「おいしい~」
詩音は幸せいっぱいでケーキをほおばる
・・・やっぱり、お菓子はくるみちゃんよね・・・
・・・お食事なら、やっぱり・・・
・・・冬ちゃん・・・
詩音の顔色が曇る。
くるみ:「詩音ちゃん、また、向こうの冬ちゃんのこと思っていたでしょ。」
詩音 :「うん。ちょっとね」
くるみ:「和恵ちゃん悲しむと思うの」
詩音 :「うん、和恵ママはとっても大好き。一番大好き。でもね...」
くるみ:「詩音ちゃんたちの夢の記憶は『対世界』がもたらす時空を越えた記憶の混濁だと思うの。だから、現実ではないの。」
詩音 :「うん。わかってる。そうだとすると向こうの舞ちゃんの記憶だよね。うらやましい。」
くるみ:「よっぽど舞ちゃんと冬ちゃんの印象が強烈なのね」
そういってにっこり微笑む。
冬ちゃん。黒木冬子。和恵の幼馴染である。調理師学校を出たはいいが、その後はこの街でぶらぶらしている。料理の腕も印象に残るようなレベルではない。詩音の見る夢のに出てくる冬ちゃんは詩音が知っている冬ちゃんとは明らかに違う印象だ。
くるみ:「行ってみたい?」
詩音 :「うん、行ってみたい。冬ちゃんと舞ちゃんに会ってみたい。」
くるみ:「大丈夫。そのうち会えるはず。でも、まずはαベクトル空間の謎を解かないと。」
詩音 :「うん。ところでそのαベクトル空間の行き方、研究進んだ?」
くるみ:「全然だめなの。今日は詩音ちゃんも来てるし、基礎からもう一回見直しましょう。」
普通、年が離れているとはいえ、女の子の会話だ。もっと、料理の話とか占いの話とか、男の子の話とかするものだが、この二人の話はガチガチの理論物理学になる。
詩音が紙に複雑な微分と積分の混ざった15元の偏微分方程式を書く。
詩音 :「とりあえず出発点はこの方程式ね。」
その方程式はニュートン力学の方程式でないことはもちろん、アインシュタインの宇宙方程式とも違ったものだった。
くるみ:「詩音ちゃん、すごいの。もうさらさらと統一場の理論の方程式書けるようになったんだね。」
詩音 :「えへへ。くるみちゃんの教えがうまかったから。」
統一場の理論と呼ばれるその方程式はくるみが発見した理論の方程式である。この発見でくるみはノーベル賞を受賞している。この世界は10次元でできており、そのうち二次元は直交する時間軸と定義することで表される方程式だ。くるみの第一定理とも呼ばれている。
くるみ:「この直交2次元の時間軸の現実時間を限りなく0にすると。。」
詩音 :「αベクトル空間が現われるの。」
詩音が13番目の方程式を指して言う。
くるみ:「そうなの。この世界の時間が流れない不思議な空間。しかも、その空間は光速に近い速度が必要とか、ものすごい加速度の世界、つまり高重力空間である必要がなく、普通の世界に安定して現われることがこの式からは導き出されるの。」
詩音 :「だけど、このαベクトル空間に行くにはものすごいエネルギーの障壁があって、簡単にはいけない。」
くるみ:「行くためには、高エネルギーの物質と反物質をシンクロトロン上で加速させて対消滅させないとだめ。」
詩音 :「今までの理論だとそんなことしたらブラックホールができることになっている。でも、実際にはできない。実際にはαベクトル空間が開くはず。それはくるみちゃんの第二定理を解けばそうなることが示される。」
くるみ:「そう。では、そのときに必要なエネルギーは?」
詩音 :「プロトン一つあたり240GeV。とんでもないエネルギー。直径数十キロのシンクロトロンか、それ以上の線形加速器が必要になる。」
くるみ:「そして、そんな加速器は日本はおろか世界にもないの」
詩音 :「うん。ヨーロッパで作っているらしいけど、まだ完成していない。」
くるみ:「でも、詩音ちゃんはαベクトル空間に行っている。つまり、なにかこの理論は抜本的に間違っている。別の理論と方法があるはず」
詩音 :「はあ、ここまでは今までのおさらいね。」
くるみ:「詩音ちゃんは何か特別なことをやっているわけでないの。重要なのは、特別な場所で発生していること。それ以外は共通点はみられないの。あと季節とか時間とかも少し関係あるかも。」
詩音 :「秋から春にかけて行くことが多いからね」
くるみ:「私も、そこに何かあると思ってる。理論はわからないけど、確かに活発化してるの。」
くるみが秋から春にかけて故郷に戻ってくるのは、これが理由である。
詩音 :「それで、行くと言うより、向こうから呼ばれた気がするの。」
くるみ:「だとしたら、向こうで飛ぶための高さを減らしてると思うの。そうね、何らかの理由で跳び箱の段数をそのときは減らしている。そんな感じなの。」
詩音 :「なるほどね。跳び箱か~。じゃあ、踏切板をこっち側につければいいのかな?」
くるみ:「! 詩音ちゃん、いいことに気づいたの。踏切板は水平方向のエネルギーを垂直方向に変換するの。これと同じようにα軸にエネルギーを変換する仕組みが必要。」
詩音 :「どうすれば変換できるんだろう。」
くるみ:「う~ん、それがわからないの。」
結局、この日は二人で色々話をしたが一歩も進まず日が暮れてきた。
和恵 :「詩音ちゃ~ん、くるみさ~ん。そろそろ寒くなってきたからお部屋に入りましょう。」
ポッチ:「夕飯の買い物してきたよ~。詩音、おとぎ話に夢中になってないで現実に戻ってきな~。」
詩音 :「あ、ママ、ポッチ、お帰りなさい。」
くるみ:「和恵ちゃん、ポッチちゃんお帰りなさい。」
和恵とポッチは夕飯の買い物に出かけていた。楠木家の土曜の夕ご飯はくるみと一緒にこの家で食べる。これも長年続けられている習慣の一つだ。この土曜日の食費はくるみもちなので家計には助かっている。そして、いつの間にかポッチまで加わっている。
詩音 :「今日のご飯はな~に?」
和恵 :「カレー鍋です。この頃流行っているらしくてお友達の家でも作ってるみたいです。」
詩音 :「やった~。この前ひかるちゃんの家でも作ったんだって。おいしかったって。」
和恵 :「そうなんですか。それじゃあ詩音ちゃんも手伝ってくれますか? くるみさんももし良かったら手伝ってください。
二人は「はい」と返事をして家の中に入っていく。世間一般から見たらとても普通とは思えないが、詩音にとっては極当たり前の平凡な土曜日が過ぎて行った。
つづく
ポッチ:「カレー鍋おいしかったね。やっぱり冬は鍋だよね。」
詩音 :「うん。おいしかった。でも、お肉食べたかった。ポッチが一人で食べた。」
ポッチ:「そうだっけ? そんな細かいこと気にするなて詩音らしくないよ。」
詩音 :「う~。食い物の恨みは恐ろしいんだぞ~。」
ポッチ:「ゴホン。さて、次回のトリックエンジェルは」
詩音 :「第22話『パリカール』です。」
ポッチ:「次回は響子先生登場です。お楽しみに。」