1-10.治験
舞は夜、お手洗いに行きたくなって目がさめた。
(コンコン、コンコン)
6月に入り、舞は夜になると咳が出るようになった。熱は夕方ちょっとだけ出るときがあるくらいだった。
舞 :「これくらい大丈夫。パパや冬ちゃんには心配かけられない。」
そう言って、お手洗いに向かう。途中美鈴の部屋が見えた。でも、戸が閉められていて中に入れなかった。会えない期間に入っていた。
舞 :「美鈴だって頑張ってるんだから、わたしも頑張らないと。」
そう言ってお手洗いに向かっていった。
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草薙 :「このごろだいぶ良くなって来ましたね。時々夕方熱が出るけど、それ以外は症状がないので、だいぶ回復しているようです。7月には退院できると思います。」
あきら:「本当ですか? よかった~。」
俺は安堵のため息をついた。
草薙 :「舞ちゃん、特に身体で変ったところはない?」
舞 :「ない。」
草薙 :「うん、いい感じですね。ところで楠木さん、今日ちょっと会わせたい人がいるんです。」
あきら:「はい。どなたですか?」
草薙 :「キャサリンです。私がこの間までアメリカに研修に行っていた時に一緒だった方です。今は製薬会社で研究員をしています。キャサリン~。」
草薙先生がそう呼ぶと大柄な外国人女性が入ってきた。べらべらべら~っと英語で話し掛けられたが、さっぱりわからない。何とか握手だけできた感じだ。その後キャサリンさんは草薙先生と楽しそうに話していた。
あきら:「キャサリンさんは草薙先生の恋人ですか?」
草薙 :「違う違う。なんでそんなふうになるかな。キャサリンは認可されたばかりの薬を持ってきたんです。」
あきら:「ええ、そうですか~? いい雰囲気でしたよ。」
俺はからかい半分ニコニコして言う。
あきら:「で、何の薬なんですか?」
草薙 :「ラインベルク症候群の薬なんです。」
草薙先生は茶目っ気ある顔つきで話をしてくれた。
あきら:「!」
舞 :「!」
俺は舞とお互い顔を見合わせた。
草薙 :「どうです。驚いたでしょう。アメリカでこの前認可された新薬なんです。キロニーネという薬です。私はキャサリンとアメリカでこの新薬開発の研究をしてたんです。それで、新薬認可の報告と日本で苦しんでる舞ちゃんに会いに来たんです。」
キャサリンさんが舞に抱きついてほお擦りをする。
草薙 :「それで、どうですか? この薬飲んでみませんか? まだ、日本では認可されてませんが、アメリカでは認可されてます。治験という形で投与することができます。」
あきら:「えっと、副作用とかないのですか?」
草薙 :「まず、大丈夫です。アメリカで認可されてますから。でも、さすがに100%とは言い切れません。」
あきら:「この薬を飲むと早く治りますか?」
草薙 :「ええ、7月には退院できると思います。」
あきら:「飲まないとどうなりますか?」
草薙 :「今までどおりの治療となりますので7月には退院できると思います。」
あきら:「あまり変らないんですね。」
草薙 :「まあ、実はそうです。もう、ほとんど舞ちゃん治ってますからね。」
あきら:「だったら、今までどおりでいいです。少ないとはいえ、新薬ですから副作用が怖いです。」
草薙 :「まあ、そうですよね。私もそうおっしゃるだろうとは思ってました。」
草薙先生はちょっと残念そうな顔をして、キャサリンさんと話している。キャサリンさんもちょっと残念そうな表情をしている。でも、実験のために舞を使うのは勘弁して欲しい。この薬を飲まなければ助からないのなら別だが。
あきら:「でも、これで安心できます。万が一のとき助かります。キャサリンさん草薙先生ありがとうございます。」
俺は二人に頭を下げた。キャサリンさんも言葉はわからなくても、意味は通じたみたいだ。にっこり笑ってくれた。
草薙 :「楠木さん、でも、気を許しちゃだめですよ。この病気は治りかけが危ないんです。突然一気にぶり返して、重症化することが多いです。そのとき命を落としてる人もいるので十分気をつけましょう。」
あきら:「ええ、わかりました。ありがとうございました」
草薙 :「はい、何か気づいたことがあったらまた遠慮なく言ってくださいね。」
草薙先生とキャサリンはそう言って病室を出て行った。
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次の日、冬子と舞がナースセンターにやってきた。そして、例によってたむろしている草薙先生を見つけて話し掛けた。
冬子 :「あの、キャサリンさんはいますか?」
草薙 :「今日は、東京の学会のほうに行っていますよ。」
冬子 :「そうですか。残念です。」
草薙 :「キャサリンに用事ですか? 伝えておきますよ。」
冬子 :「あの、草薙先生の恋人を見た...じゃなくて、舞ちゃんのお薬を開発した人にお礼をしたくて。」
どう見ても興味本位に来たとしか思えない。
草薙 :「...昨日も楠木さんに言いましたが、キャサリンとはそういう仲ではないです。」
冬子 :「でも、あきらさんが、言ってました。『とてもきれいで仲良さげにしてた』って。」
草薙 :「あのね~」
松井 :「草薙先生には忘れられない人がいるんですよ。」
松井先生が会話に割り込む。
草薙 :「おい。」
冬子 :「え?どんな人なんですか? 片思いなんですか?」
冬子が目をらんらんと輝かせて聞く。
つかさ:「松井先生...その話は。」
松井 :「あ、すいません。」
冬子 :「え? 内緒なんですか?」
草薙 :「内緒ではないんだが。」
草薙先生が松井先生にお前が責任持って話せと目で合図する。
松井 :「実は婚約者を亡くされたんです。半年前、事故で。」
冬子 :「え、す、すいません。冬子立ち入ったこと聞いちゃいました。」
草薙 :「いや、構わないよ。たまには思い出話をするのも良いだろう。それも供養だ。ちょっと湿っぽくなるが。」
松井 :「恋人の名は番井美雪さんとおっしゃいました。女神のような人でした。」
冬子 :「素敵な人だったんですね。」
草薙 :「いや」
松井 :「全然」
冬子 :「いやって即答ですか? 女神なんですよね?」
草薙 :「一言で言うと、高慢ちき」
松井 :「葉に衣を着せない言動」
草薙 :「高ビー」
松井 :「常に上から目線」
冬子 :「はあ」
松井 :「前の病院で一緒だったんですが、いつも『はあ? あなたお馬鹿』とか『そんなこともわかんないの? 年いくつ?』とか、『あのね。頭は生きているうちに使わないともったいないわよ。あんまりなさそうだけど。』とか『あなたは私に従えばいいの。ぐちゃぐちゃ言うと天罰くだすわよ』とか言われてました。」
舞 :「うわ~、すごい先生。」
松井 :「でも、草薙先生とはすごく相性良かったです。」
冬子 :「あの、いいところもあったんですよね。」
草薙 :「ああ、すごい優しいかった。『あなた、そんなことも出来ないの?本当に困ったわね。信じられない。しょうがない私が何とかするからそこで見てなさい』といった感じの人でした。」
松井 :「腕も最高なんでした。口の悪さとあいまって患者の家族にとんでもない暴言吐くんです。」
冬子 :「どんな感じですか? 『治るか治らないかわかるわけないだろう』とかですか?」
草薙 :「いや、逆。『私が来たからには必ず治します。あなた達は治った後、どうやって遊ぼうか考えていればいいんです。』って感じ。」
冬子 :「すごい自信家なんですね。」
草薙 :「ああ、でも実際に治す。」
松井 :「いい人でしたよね。本当はこの春からこの病院に来るはずだったんですけど。」
草薙 :「代わりに役立たずの松井先生が来たって訳だ。」
松井 :「役立たずはないでしょう。」
松井先生は草薙先生の大学での後輩でもあり二人は仲がよい。
草薙 :「きてくれれば、この小児科も周産期センターのように3次病院扱いだったかもな。」
舞 :「3次病院?」
草薙 :「ああ、重症よりもさらに危険性の高い重篤な患者を受け入れる病院のことだ。緊急手術が可能なところ。この病院では周産期センターつまり、産科と新生児科は3次病院扱いなんだ。まあ、最後の砦って感じだな。」
舞 :「へ~。すごいんだね。」
そのとき内線がなった。
つかさ:「草薙先生、周産期センターの八重山いちご先生から電話です。早産の恐れのあるお母さんの様態が急変して、緊急手術の準備をお願いしたいとのことです。」
ナースセンターに緊張が走る。
草薙 :「おお、噂をすれば周産期センターから呼び出しか。わかった。すぐいく、そう伝えてくれ。」
つかさ:「PICUで待ってるそうです。」
草薙 :「おう。じゃあ、冬子さん、舞ちゃん、この話の続きはまた別の機会に。それでは。」
そういってあたふたとナースセンターを出て行く。
舞 :「草薙先生、頑張って!」
草薙 :「おう!」
そう言ってエレベーターホールに向っていく。
つかさ:「松井先生も検診にいかないと。」
松井 :「はいはい。じゃあ、私もこれで。冬子さん、舞ちゃん。良い週末を。」
舞 :「は~い。」
冬子 :「松井先生も頑張ってください。」
冬子と舞はそのまま一時外泊の準備をした。今日から週末は一時外泊だ。
冬子 :「さあ、舞ちゃん。準備ができたら家に帰りましょう。」
舞 :「お~」
舞はかのんちゃんとたかしちゃんに挨拶をして戻ってきた。
冬子 :「さあ、帰りましょう。舞ちゃん。」
舞 :「楽しみ~」
なんだかんだいっても、舞はこの外泊を楽しみにしている。
冬子 :「今日はお客さんが来ます。」
舞 :「だれ?」
冬子 :「誰だと思いますか?」
舞 :「う~ん、う~ん、わかんない。」
冬子 :「響子先生です。」
舞 :「え? 響子先生来てくれるんだ!」
舞は響子先生が大好きだ。幼稚園のとき2年間担任だったこともあって、すごくなついている。
家に着いて準備をしていると、あきらが帰ってきて、その後、響子先生が現われた。
響子 :「やほ~」
舞 :「響子先生~!」
舞が響子に抱きつく。
冬子 :「冬子、会ったとたんに響子ちゃんに抱きつくのはショックです。」
舞 :「冬ちゃん、ごめんなさい。だって、久しぶりなんだもん。」
そういって今度は舞は冬子に抱きつく。
響子 :「まあまあ、冬子も落ち着きなさいよ。舞ちゃんは冬子が一番好きなんだから。」
冬子と響子は舞の一件以来、急速に仲が良くなっている。だから、響子は冬子のことを「冬子」と呼び捨てるまでになっている。
あきら:「おれよりも冬子のことがすきなのか?」
響子 :「あきら、男親ってそんなもんよ。あきらめなさい。」
舞 :「パパも大好き」
今度は舞はあきらに抱きついてきた。
冬子 :「あきらさん、舞ちゃんに気を使わせてどうするんですか。あきらさん最低です。」
そう冬子は言いながらも笑っている。
響子 :「舞ちゃん、すっかりよくなったみたいね。」
舞 :「うん、もう大分元気。お熱も時々しか出なくなった。」
響子 :「じゃあ、退院までもうちょっとだね。」
舞 :「うん、このまま行けば7月には退院できるって。」
冬子 :「本当に良かったです。冬子うれしいです。」
そうやって舞にまた抱きつく。
響子 :「冬子もすっかりお母さんね。」
響子が笑う。
冬子 :「それじゃ、今日は退院の前祝で心をこめて料理します。期待して待っててください。」
舞 :「今日のご飯は何?」
冬子 :「鳥のからあげとしらすのテンプラです」
響子 :「から揚げは家庭料理の定番ね。でもしらすのテンプラってあんまり聞かないわね。まあ、冬子の料理期待して待ってるわ。」
言葉では期待してるといっているが、口調は全然期待していない感じだ。俺は舞と顔を見合わせて互いににやって笑う。
夕飯の準備が出来た。
あきら:「いただきます」
一同 :「いただきます」
料理ができ、さっそく響子が料理に口をつける。俺と舞が関心のないふりをしながら、こっそり目で見つめる。
いきなり響子が立ち上がり、箸を落とす。
響子 :「なに?この料理?」
冬子 :「鳥のからあげですが、響子ちゃんお口に合いませんでしたか?」
響子 :「違うわよ。その反対。なんなのよこの味。」
俺と舞がハイタッチをする。
舞 :「先生、びっくりしたでしょう。」
あきら:「想像してなかっただろう。」
響子 :「正直驚いた。から揚げってカラッとあげるのが命だけど、それってとても難しい。こんなにカラッとあげられるんだ。」
響子は箸でつまんだから揚げを見つめる。
あきら:「冬子の料理センスは抜群なんだ。一度食べるとその味を再現出来ちゃうんだ。」
冬子 :「冬子、練習もいっぱいしました。」
響子が今度はしらすのテンプラに手をつける。
響子 :「うわ~。何この味。から揚げは想像できたけど、これは想定外よ。あきら、あんたものすごい幸せ者だって気づいてる?」
あきら:「ちょこっと、その日本酒飲んでみな。新しい発見があるから。」
響子が一口日本酒を口に含む。さらに口の中でうまみが広がる。
響子 :「完全に脱帽ね。参りました。」
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夜になり、響子がそろそろお暇するというので、俺はバス停まで送っていくことにした。響子と並んで歩く。
響子 :「それで、式はいつなの?」
あきら :「え? なんでわかったんだ?」
響子 :「あのね、冬子の左手の薬指見ればわかるわよ。」
あきら :「そっか。10月だ。」
響子 :「冬子は全てを受け入れられたのね。」
あきら :「え?」
響子 :「あきらの過去と現在と未来。和恵という過去、舞ちゃんの病気という現在、それを背負ってあきらと舞ちゃんと未来を歩くことを決断したのよ。」
響子 :「私には結局そこまで踏み込めなかった。躊躇があった。全てを受け入れる勇気はなかったわ。」
あきら :「...」
響子 :「あ、今のは独り言。忘れなさいよ、あきら。」
あきら :「ああ」
ちょうどバスが来た。
響子 :「結婚式には私も呼んでくれるよね。」
あきら :「もちろんだ。」
響子 :「でも、私は新郎側でなくて新婦側友人代表だからね。それで新郎をめちゃくちゃこき下ろすスピーチしてあげるわ。」
あきら :「勘弁してくれ」
響子 :「あはは、冗談よ。じゃあね~」
そう言って響子はバスに乗って帰って行った。
つづく