第8話 「決まっていく未来、決められない過去」 ~3年C組、45分間の密室推理・第八章~
※この作品は『彼女の計画』シリーズのスピンオフですが、本編未読の方でも独立した作品としてお楽しみいただけます。
【前回までのあらすじ】
十二月。
後ろの席のノートが「対話」を始める。『次は、あなたの番です』というメッセージに、純は「書く」かどうか迷いながらもノートを預かる。それぞれが「見る側/見られる側」の二重性に気づき始める。窓の外の揺らぎは、教室のドアの前まで来ていた。
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【第八章】
一月『決まっていく未来、決められない過去』
1
一月の教室は、寒さで窓ガラスが真っ白になっていた。
暖房の効いた室内と外の冷気がぶつかり、窓には水滴が垂れている。その水滴がゆっくりと伝っていく様子を、拓はいつものように眺めていた。
LHRの時間。担任が分厚い封筒を抱えて入ってくる。
「はい、これ。進路希望調査」
配られる用紙。そこには「第一志望」「第二志望」の欄がある。名前の欄。生年月日の欄。
「三年生の0学期だと思って、真剣に考えてください。締切は来週」
担任の言葉が教室に響く。
6人は、それぞれの用紙を見つめていた。
――その時、Eの手が止まった。
用紙の「第一志望」の欄。そこに、すでに何かが書かれている。
自分の筆跡だ。でも、書いた覚えがない。
2
Eは、その文字をじっと見つめた。
『○○大学 教育学部』
確かに、ずっと迷っていた進路だ。図書館で何冊もパンフレットを借りては返し、借りては返した。でも、まだ決めていなかった。まだ、白紙のままのはずだった。
なのに、そこには確かに自分の字で、大学名が書かれている。
Eは周りを見た。誰も気づいていない。
沙織はキャンバスを見つめている。
康介は用紙を折りたたんでいる。
瞳は何かを考え込むように窓の外を見ている。
(これは……いつ書いたんだろう)
記憶をたどる。でも、ない。書いた記憶が、まったくない。
でも、筆跡は間違いなく自分のものだ。
(私が、書いたのか? 無意識に? それとも――)
ふと、あのノートのことを思い出す。あの日、勝手に文字が浮かんでは消えた、あのノート。
Eはもう一度、用紙を見る。
文字は、そこにある。消えない。
3
沙織の場合
放課後の美術室。
沙織は一人でキャンバスに向かっていた。描いているのは、あの7人目の背中。何度も何度も描き直しているのに、まだ完成しない。
「まだいたの」
振り返ると、美術教師が立っていた。
「進路、美大で決めたんだって?」
「……はい」
「良かったじゃない。ずっと迷ってたもんね」
沙織は少し驚いた。
「迷って……ましたか?」
美術教師は優しく笑った。
「うん。でも、最後は自分で決めたんでしょ?」
自分で決めた――そう言われて、沙織は考える。
(私が決めたこと。でも、本当に「私が」決めたのかな)
文化祭の時もそうだった。気づいたらポスターを描いていた。学級委員の時もそうだった。誰もいない席から手が挙がって、気づいたら自分が立候補していた。
(でも――)
あの時、確かに自分で手を挙げた。誰かに押されたわけじゃない。
沙織は、もう一度キャンバスに向き直った。
7人目の背中が、わずかに輪郭を結び始めている。
その時、ふと気づく。
キャンバスの隅に、自分の知らない筆致が混ざっている気がした。
4
康介の場合
職員室の前。
康介は担任に進路のことで相談していた。
「推薦、もらえることになりました」
担任が笑顔になる。
「おめでとう。康介君はずっと目標があったもんね」
康介は複雑な表情を浮かべる。
「……先生、一つ聞いていいですか」
「何?」
「“決める”ことと“決められる”ことの違いって、何ですか」
担任は少し間を置いた。
「難しい質問だね」
窓の外を見ながら、担任は静かに続けた。
「でも、一つだけ言えるのは、“決めた”と思えるかどうかじゃないかな。たとえ周りに流されるように見えても、最後に“自分で決めた”と思えたら、それは自分の選択なんだと思う」
康介は、その言葉を胸に刻んだ。
(“決めた”と思えるかどうか――)
あのアンケートの日を思い出す。選択肢の順番を変えたのは、もしかしたら自分だったかもしれない。でも、それは「見やすくしよう」と思っただけで、悪意があったわけじゃない。
(それでも、結果は変わった。誰かを“選ばされた”状態にしたかもしれない)
でも、今度は違う。これは自分の進路だ。
「ありがとうございました」
康介は軽く頭を下げて、その場を離れた。
――その時、ポケットの中の進路希望調査が、かすかに音を立てた気がした。
5
瞳の場合
教室に一人。
瞳は進路希望調査の用紙を見つめていた。もう志望校は決めている。でも、なぜか迷いがある。
(私が決めたこと。でも、本当に私が決めたのかな)
あのアンケートのことを思い出す。選択肢の順番が変わっただけで、結果が変わったあの日。
(もしかしたら、進路も同じなのかな。ちょっとしたことで、違う道を選んでたかもしれない)
もしあの時、違う選択をしていたら――もし別の高校に行っていたら――もし誰かと出会っていなかったら――
考え始めると、止まらなくなる。
窓の外を見る。フェンスの手前には、今日も揺らぎがある。
でも、その揺らぎは、前より少しだけ形がはっきりしている気がした。
まるで、誰かの形をしているように。
瞳は、その揺らぎをじっと見つめた。
(あんたも、何かを決めてきたんだろうか)
揺らぎは答えない。ただ、そこにいるだけだ。
――その時、机の上の用紙が、風もないのに微かに動いた。
6
Eの場合(続き)
図書館の隅。
Eは一人で本を読んでいた。でも、ページはなかなか進まない。
机の上には、あの進路希望調査。もう一度、最初のページを開く。
『第一志望』の欄には、確かに大学名が書かれている。
(これが、私の“決めた”ことなのか)
中学の時もそうだった。親友がいじめられているのを見て、何もできなかった。その時も、ただ見ているだけだった。
あの日、渡り廊下で見た光景を思い出す。非常階段の人たちと、それを見ていた自分。
(あの時、私は何も決められなかった。ただ、見ていただけ)
でも――
その後に、メモを置いた。あれは、自分で決めたことだ。
(決められることもある。決められないこともある。でも――)
Eは、もう一度、用紙に書かれた自分の筆跡を見る。
「私が、書いたんだ」
誰かに書かれたんじゃない。無意識だったとしても、この字は私の字だ。
Eは、そっと用紙を閉じた。
7
拓の場合
屋上。
拓は一人で空を見上げていた。雲がゆっくりと流れていく。あの日、教室の窓から見ていたのと同じ雲。
(俺はずっと、見てるだけだった)
でも、違う。
あの写真に写っていた。あの手が挙がるのを見た。あのノートの言葉を読んだ。
(俺も、その一部だったんだ)
「見られる側」でありながら、同時に「見る側」でもあった。
用紙には、もう志望校が書かれている。誰かに決められたわけじゃない。自分で選んだ。
(これでいいんだ)
風が冷たい。でも、その冷たさが気持ちいい。
拓は、用紙をしまい、ゆっくりと屋上を後にした。
8
純の場合
教室の片隅。
純は、5人全員を見ていた。
沙織が美術室から戻ってきた。
康介が職員室から戻ってきた。
瞳が窓の外を見るのをやめた。
Eが図書館から戻ってきた。
拓が屋上から戻ってきた。
それぞれが、それぞれの「決めた」顔をしている。
(みんな、決めたんだ)
純は、自分の進路希望調査を見る。まだ白紙だ。
でも、それは「決められない」んじゃない。
(私が決めるのは、まだ先でいい)
あのノートのことを思い出す。まだ白紙のページがたくさんある。
(まだ、書く時じゃない)
その時、Eが近づいてきた。
「純……ちょっといい?」
「うん?」
Eは、自分の進路希望調査を差し出した。
「これ、見て」
第一志望の欄には、大学名が書かれている。
「決めたんだね」
「……でも、書いた覚えがないの」
純は、Eの顔を見た。Eの目は、不安そうに揺れている。
「書いた覚え、ない?」
「うん。気づいたら、書かれてた。でも、字は私の字なの」
純は、もう一度用紙を見る。確かに、Eの筆跡だ。
「……それでも、“決めた”んでしょ?」
Eは、少し間を置いて、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。たぶん」
9
放課後。
6人は、自然と教室に集まっていた。誰かが呼んだわけじゃない。でも、気づけばそこにいた。
沙織が口を開く。
「みんな、決めた?」
康介がうなずく。
「一応な」
瞳が微笑む。
「私も」
Eが小さくうなずく。
拓は何も言わないが、その横顔はいつもと違う。
純が、静かに言う。
「私は、まだ」
沙織が驚く。
「え、まだなの?」
「うん。でも、それでいいと思ってる」
拓が、窓の外を見たまま呟く。
「決める時じゃないってことも、あるんだな」
その言葉に、なぜか全員がうなずいた。
沈黙が流れる。
Eが、ぽつりと言った。
「決めたこと、全部、本当に自分で決めたのかな」
誰も答えない。
でも、誰もが、自分の進路希望調査を思い浮かべていた。
書いた記憶のない文字。無意識に選んだ道。誰かに先回りされた未来。
それでも、それが「自分の選択」だと思えるなら――
10
窓の外。
校庭のフェンスの手前。
揺らぎは、もう校庭の真ん中まで来ている。
こちらを見ている。
でも、それはもはや恐怖ではなかった。
ただ、そこに「いる」という事実だけが、確かにある。
沙織が、キャンバスに最後の一本を描き加えた。
7人目の背中が、わずかに輪郭を結び始めている。
まだ見えない。まだ描けない。
でも、確かにそこに「いる」。
その感覚だけが、キャンバスの奥に滲んでいた。
11
教室を出る最後の一人は、今日も純だった。
机の上に、一枚のメモが置かれている。
『未来は決められる。でも、過去は決められない』
純は、そのメモを手に取った。
そして、振り返る。
後ろの席には、誰もいない。
でも、机の上のノートが、風もないのに開いている。
白紙のページ。
そこには、まだ何も書かれていない。
純は、そっとノートを閉じた。
「まだ、書く時じゃない」
そう呟いて、教室の灯りを消した。
窓の外では、一月の光が、冷たく、でも確かに降り注いでいる。
――その光の向こうで、揺らぎが微かに動いた。
ただ、それだけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『彼女の教室』は、本編『彼女の計画』シリーズの登場人物たちの高校時代(同級生設定)を描く全8話の学園ミステリーです。
本編で複雑に絡み合う大人たちの「なぜ」の答えが、この教室の中に隠されています。
また、本編『彼女の計画』シリーズも連載中です。
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