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漕いで漕いで漕いで

作者: あさむら咲

 幼い頃に住んでいた街を12年ぶりに訪れた。地下鉄を降りて少し歩いたところにある公園の横を通ったとき、母とブランコで遊んだ日のことを思い出した。


 小学校に入る前に自転車に乗れるようになろうと、幼稚園の年長の夏頃から母とこの公園で自転車の練習をしていた。簡単なお弁当を持ってきて、木陰のベンチで食べたりした。あの日のお弁当はたまごサンドだった。コッペパンにたっぷりの卵フィリングが詰め込まれていて、話しながら食べていた私は、フィリングの塊を地面に落としてしまった。お弁当を全部食べ終わって、母が私の口の周りを拭いたティッシュでフィリングを拾おうと下を向いた。

「あれ?どこいっちゃったんだろう?」

 私が落としたはずの黄色い物体は無くなっていた。代わりに、先ほどまでは無かった黒い塊が足元にあった。よく見てみれば、蟻の大群だった。たくさんの蟻がフィリングに覆い被さっていたのだ。黒い塊から一本の黒い線が公園の向こうまで伸びていた。

「えっ?こんなに集まってくるの?」

 母は呆気に取られたように言って、笑い出した。母が声を出して笑っていて私はちょっと驚いた。母が「すごいねぇ」と私に笑いかける。「うん、すごいね」私もそう返したような気がする。二人で蟻がフィリングを運んでいく様子を観察した。母はずっと笑顔だった。蟻を見ているのも楽しかったけれど、母がとても楽しそうで、私はそれがとても嬉しかった。


 しばらくして、蟻の観察に飽きた私は、ブランコで遊びたいと母にねだった。私はブランコが好きだったが、漕ぐことができなかった。だから、母に背中を押してもらっていないとブランコに乗れない。横に立った母が、ブランコに合わせてそっと私の背中を押してくれる。

「そろそろおしまいね」

「もっと!もっと!」

「ダメ。お母さん、疲れちゃったもの」

「もっと遊びたい!」

「ダーメ。あと 10 回」

 10、9、8…と母がカウントダウンをする。しかし、1と言った後も母は背中を押すのを止めなかった。いつもなら「おまけのおまけの5回」くらいで絶対に止めるのに、この日は私が「もういい」と言うまで、ずっと背中を押してくれた。


 気が済むまでブランコに乗って、その後は滑り台や砂場で遊んだ。結局、この日の午後は自転車の練習はせずに家に帰る時間になった。自転車を母と交代交代で押してのんびりと歩いて家に帰った。当時の私が好きだった紫色の花が描かれた白色の自転車。6 歳の誕生日プレゼントに買ってもらったものだった。


 6歳!あの素晴らしかった日々。あの頃の私には、この世の全てが輝いて見えていた。


 6歳の日々は最高に素敵な形で始まった。


 6歳の誕生日は土曜日だった。土曜日の午前中は長兄と次兄の英会話教室があって、私は兄達の送迎をする母について行き、英会話教室の近くの室内遊び場で待つのが常だった。しかし、この日は私の誕生日だ。「ちょっと良いところに行こうか」そう言って母は百貨店に私を連れて行った。おもちゃ売り場で「何が欲しい?」と聞かれた。

「いいの?」

「うん。お誕生日だもの」

「自転車は?自転車はダメなの?」

「約束通り自転車も買うよ。これはママからのおまけのプレゼント」

 私はおもちゃ売り場を行きつ戻りつし、あれでもないこれでもないと何度もおもちゃを手に取り、最終的に大人っぽいドレスを着た着せ替え人形を買ってもらった。たっぷり時間をかけて選んだのだけれど、英会話教室が終わるまではまだ1時間以上もあった。

「美味しいものを食べに行こうか」

 母に連れられて、百貨店の中にある大人っぽいカフェに初めて入った。「彩ちゃんの食べたいものを頼んでいいよ」と見慣れない言葉がいっぱい書かれたメニュー表を渡された。「これは何?」「うーん、ふわふわしているスポンジのことだよ」「これは?」「はちみつっぽい味だと思うよ」母に一つ一つ教えてもらったけれど、チェーン店のお子様セットしか食べたことの無かった私にはよく分からない。写真を頼りに、ホイップクリームと色とりどりのフルーツがたっぷり乗ったパンケーキを頼んだ。小さなお皿に入ったソースも二つ付いていた。

「これは何?」

「パンケーキにかけて食べるんだよ」

「2つとも?」

「好きに使ったらいいよ。ソース無しでクリームだけで食べたり、こっちのソースだけつけてみたり、ソースとクリームで食べてみたり」

「全部つけてもいい?」

「もちろんいいよ」

 色んな組み合わせでちょっとずつ食べてみた。どの組み合わせも、とっても美味しかった。ここにはソースを1つだけ、ここにはもう1つのソースをかけて、と私は夢中になって食べ進めた。母はそんな私をニコニコしながら見ていた。

「ママは食べないの?」

「ママはお腹空いてないから、コーヒーだけでいいの」

「でも、すごく美味しいよ。一口あげる」

「ありがとう」

 私がクリームとソースをたっぷりつけたパンケーキの欠片を差し出すと、母はパクッと口にした。「美味しいね」と言う母に「でしょう」と私は得意気に答えた。

「ねぇ、彩ちゃん、楽しい?」

 半分くらい食べ進めたとき、母がふと尋ねた。

「うん、楽しい!」

「よかった。今日は楽しく過ごそうね。彩ちゃんのお誕生日だもんね」

 6歳の日は、5歳とは全然違った。いつもは兄達のお出かけに付いて行くだけで、母は兄達の方を向いていて、私はおまけだった。でも、今日は私が主役だ。本当にそれまでで一番楽しい日だったのだ。全部食べ終わってからも、私は名残惜しくてお皿についたソースを小さなスプーンでかき集めて掬って舐めていた。「お行儀悪いよ」と母は言ったが、顔は笑っていた。お皿を直接舐めようとしたときは、流石に止められたけれど。

「お兄ちゃんたちを迎えに行かなくちゃ。彩ちゃん、もう終わりだよ。行くよ」

 母が席を立ち、伝票を持ってレジに向かうのを私は慌てて追いかけて、その手を引いた。

「ねぇ、また来れる?また食べれる?」と私は尋ねた。

「気に入ったの?また来たい?」と母が尋ね返したので、「うん。すごく美味しかった!」と私は答えた。「そう。じゃあ、また来ようね。7歳のお誕生日に来ようか」母は私の顔を覗き込むようにして優しい笑顔でそう言ったのだった。


 だが、もう一度パンケーキを食べる日は来なかった。7歳の誕生日を迎える前に母は死んだ。


 私が小学校に入学してすぐに、母は交通事故で死んでしまった。私を小学校へと送り出した後、買い物に出かけた母は、家のすぐ近くの横断歩道を渡っているときに脇見運転のトラックにはねられてしまった。私の幸せな6歳の日々は突然に終わった。でも、自分が間も無く死ぬことを、母はその大分前から知っていたような気がするのだ。


 あの頃、母はよく、きょうだい3人で力を合わせて生きていってねと言っていた。私たち3人は毎日のように喧嘩をし、母はそんな私たちに怒る日もあれば、悲しそうな顔をする日もあった。私が幼稚園で作って今でも残してあるミニ笹の七夕飾りには、母の几帳面な字で「喧嘩がなくなりますように」「3人がいつまでも仲良しでありますように」と書かれた短冊が飾られている。


 母の願いは叶わなかった。母が死んだ後、多忙な父には3人の子供の世話をする余裕がなく、私たちきょうだいはバラバラになった。地元で一番の進学校に通っていた長兄だけが父のもとに残り、次兄は関西の父方の祖母のところで、私は九州の母方の祖父母のところで暮らすことになった。それから一度も故郷に戻ることはなかったが、この春から近くの大学に通うので父と一緒に暮らすことになったのだ。長兄は既に実家を出ているが近隣には住んでいて、せっかくの機会だからと次兄にも上京してもらい、今日は実に12年ぶりの家族水入らずの食事会なのだ。もう今では兄達のことは家族という感覚はない。父から食事会の提案があったとき、気まずさから断ろうかと思ったが、母の顔がチラついて断れなかった。兄達と疎遠になったことを寂しいとは全く思わないが、母への罪悪感が心の奥底にずっと燻っていた。


 いつから母は自分が死ぬことを知っていたのだろう?あの6歳の誕生日の日はどうだったのだろう。私の7歳の誕生日を祝う事がないことを知っていたのだろうか。そうだったかもしれないし、そうではなかったかもしれないと私は思う。でも、あのブランコの日、あの日の母はすでに知っていたと思う。


 食事会の時刻まではまだ間がある。私は公園に立ち寄ることにして、ブランコへと向かう。ブランコが揺れている。


 この先に起こることを何も知らない幼い私が、まっすぐに前を向き、眩いばかりの笑顔でブランコを漕いでいる。今と同じ世界がずっと続くことを疑うこともなく信じている。またパンケーキを食べに行くと思っている。この世の全てが輝いて見えている。


 私はその隣に立ち、ブランコが揺れるのに合わせてその背中をそっと押し続ける。あの日の母がそうしたように。

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