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第4話:いたずら好きの神様

 最後の委員会の集まりから、もう数日が過ぎた。


 変わらないはずの日常が、どこかスカスカに感じる。


 大事なパーツを失ったみたいに、心の奥にぽっかりと穴が空いていた。


 委員会の活動は、もう終わった。


 つまり、先輩と顔を合わせる理由も――なくなったってことだ。


 最終日の失敗が、今でも頭から離れない。


 もっと俺に勇気があったら、何か変わっていたのかもしれないのに。


 そんな“たられば”ばかりが波のように押し寄せてきて、気づけばため息ばかりついている。


 でも、その中でふと思い出すのは――あの3回目の集まりの日。昼休み。


 一緒に推しの話をして、笑い合った時間。


「これからも、こんなふうに話せたらいいな」って、そう思ってた。


 推しの配信を開いても、集中できない。


 モニターの向こうにいるのは推しのはずなのに、


 ふとした瞬間に、先輩の横顔が浮かんでしまう。


 ……でも、人は後悔の上に、新しい感情を積み重ねていける。


 少なくとも、そういう生き物だと信じたい。


 そう、自分に言い聞かせた。


 それでも――この気持ちを上書きしてくれるかもしれないイベントが、週末に控えている。



 そう、夏コミだ。



 しかも、俺の推し――桜庭コトネの参加も決定済み。


 正直、大手というわけではない。だけど、だからこそ、通販では手に入らない限定グッズが並ぶこの機会は貴重すぎる。


 さらに今回は、なんと3,000円で“ツーショットおしゃべりタイム”なるものまで付いてくる。


 コトちと5分間、画面越しに会話できるって……コスパの暴力か?


 気がつけば、どんよりしていた気分も少しだけ晴れていた。


 先輩のことを考えて立ち止まるよりも、推しとの未来を考える方が今の自分には必要だ。


 俺はさっそく、買いたいグッズをリストにまとめ、


 おしゃべりタイムで何を話すか、ノートアプリにメモを取り始めた。


 ◇


 夏コミ前日の夜。


 部屋の明かりはついているのに、心の中はずっと夕暮れみたいだった。


 委員会の最後の日から、時間は経った。


 けれど、胸の奥に残った引っかかりは、まるで昨日のことのように鮮明だった。


「……学年も違うし、もう佐久間君と話すことなんて、ないよね」


 小さく漏れた声が、部屋の静けさに溶けて消えていく。


 分かってる。もう終わったことだし、悔やんでも時間は戻らない。


 それでも、あの日――ほんの少しでも自分に勇気があったならって、


 そんな“もしも”を何度も何度も繰り返してしまう。


 推しの配信を流してみるけど、画面に映る明るい笑顔が、どこか遠くに感じた。


 昔は、どんなに疲れていても、あの声を聞けば元気になれたのに。


 今の私は、たったひとつの後悔さえ、まともに飲み込めていない。


 画面の前で、たったひとり。


 思わずため息がこぼれる。


「……はぁ」


 あの昼休み、ほんの短い時間だったけど、楽しかった。


 もっと話したかった。


 でも結局、何もできなかった。


 もう、全部遅かったんだ。


 そう思いながら、なんとなくSNSを開いていたそのときだった。


《明日からの夏コミ、コトちも参戦するよ~!!

 今回はグッズに加えて5分間のツーショットおしゃべりタイムも出来ちゃうよ!

 東475で待ってるから~!》


 一瞬、胸の奥で何かが弾けた。


「……え?」


 推しの投稿を読み返す。もう一度、ゆっくり。


 ツーショットおしゃべり。コトちのブース。


 ふと、思い出す。


 あの日のお昼、佐久間君が言っていた。


「このアクキー、去年のコミケで買ったんです」って。


 もしかしたら——


「……コトちのブースに行けば、会えるかもしれない」


 言葉にしてみても、それがどれだけ無謀な望みなのかは分かってる。


 でも今、この小さな可能性だけが、胸の中の後悔を少しだけ上書きしてくれそうな気がした。


 思い立つと、体が自然と動き出した。


 会場までのルート、電車の時間、熱中症対策。


 必要なものをスマホにメモして、荷物を準備する。


 まるで、あの人に会いに行く“言い訳”を探してるみたいだった。


 でもいい。たとえ、会えなかったとしても。



 ……明日、行こう。



 少しだけ心が軽くなった気がして、遥は静かにベッドに潜り込んだ。


 —————翌朝。


 カーテンの隙間から漏れる、ほんのりとした朝の光。


 夏の日差しにはまだ遠い、まだ世界が眠っているような時間だった。


 それでも、遥はもう起きていた。


 着替えを済ませ、最低限のメイクをして、鏡の前に立つ。


 でもその顔は、どこか浮かない。


 昨夜はあれだけ「会えるかも」と思って眠りについたのに。


 朝になって、現実の重さが胸にのしかかっていた。


 ——本当に会えるの?


 遥は根っからのインドア派だった。


 推しのために何度も行きたいとは思ったけれど、コミケには一度も行ったことがない。


 一人で電車に乗って、知らない人の波に揉まれて、慣れない空間に身を置く。


 それだけでも充分、心が折れそうになる。


 それに、佐久間君が今日、本当に来ている保証なんて、どこにもない。


 たとえ来ていたとしても、同じ時間に同じ場所にいるとは限らない。


 ブースの前で偶然会えるなんて、奇跡に近い確率だ。


 ……そんな都合のいい偶然、本当にあるのかな。


 一度そう思ってしまうと、不安ばかりが膨らんでいく。


「……もし会えなかったら、グッズだけ買って帰ろう」


 小さく、そうつぶやいた。


 無理に期待して、また後悔するのは怖い。


 でも、もう支度はほとんど終わっていた。


「……せっかく準備したし、会場くらいは行こう」


 まるで自分をだますように、遥はバッグのファスナーを閉じた。


 覚悟なんて、まだできていない。


 だけど、それでも一歩踏み出してみようと思えたのは、


 昨日見た、あのツイートのおかげだった。


 電車に揺られること約40分。


 乗り換えを経て、ようやく最寄駅に着いた。


 ここまでは驚くほど順調だった。


 でも、駅のホームに降りた瞬間、その幻想は一気に崩れる。


「……うそでしょ」


 足元から響いてくるようなざわめき。


 四方を埋め尽くす人、人、人。


 夏の湿気を纏った空気が、まともに呼吸すらさせてくれない。


 流れに乗って、ようやく会場近くの待機列へたどり着いた頃には、すでに汗で背中がじっとりと湿っていた。


 ただ立っているだけなのに、体力だけがどんどん奪われていく。


 太陽の光が容赦なく肌を焼きつけ、白い腕がじりじりと赤くなっていくのがわかる。


「……もう帰りたい」


 誰にも聞こえないような声で、ぽつりとつぶやいた。


 だけど、周りをびっしりと囲む人の波に埋もれて、抜け出すのも難しい。


 もうここまで来たのに、今さら引き返せない。


 ただじっと、前に進むのを待ち続けるしかなかった。


 そして、ようやく入場。


 灼熱と人混みの地獄の先。


 視界が一気に開けて、遥の心にふっと風が吹いた。


 見渡す限り、オタクの世界。


 カラフルなポスター、コスプレ、熱気。


 あちこちから聞こえてくる“好き”の声が、少しだけ胸に沁みた。


 まるで、現実から遠く離れた異世界みたい。


 少しだけ気持ちが軽くなった。


 スマホに保存していた地図を片手に、迷いながらも歩く。


 15分ほどかかって、ようやくたどり着いた。


 コトちのブース。


 小さな机の上には、可愛らしいグッズと、モニターに映る推しの姿。


 ……でも、その周りに、佐久間君の姿はなかった。


「……そっか」


 やっぱり、そううまくはいかない。


 小さくつぶやいて、視線を落とす。


 思ってた通りだったのに、


 思ってた通りなのに、


 なぜだろう。


 ほんの少し、涙が出そうになった。


「……グッズ、買って帰ろう」


 人混みにまぎれて、物販列に並ぶ。


 前に並ぶ人はわずか二人。すぐに自分の番が来た。


「アクキーと、アクスタと、チェキ風カードと……ツーショットおしゃべり、お願いします」


 少しだけ声が震えていたけど、売り子さんはにこやかに対応してくれた。


 お会計を終えると、推しの映るモニターの前へと誘導される。


「じゃあ、今から5分測りまーす!」


 その声と同時に、遥の“もう一つの想い”が、モニターに向かって動き出した。


 モニターの向こうに、推し――桜庭コトネが映し出されている。



 いつもと変わらない笑顔。


 ふわふわとしたトーンの声が、スピーカー越しに響いてくる。


「初めまして~! 今日は来てくれてありがとね~!」


 その瞬間、遥の胸がギュッと締めつけられた。


 ——どうしよう。何を話せばいいんだっけ。


 佐久間君に会えるかもしれない、そんなことで頭がいっぱいで、


 一番大事な「推しとの時間」のことを、何も考えてなかった。


「あ、あの……は、初めまして……!」


 緊張で、思いきり声が裏返った。


「ふふ、緊張してる~? 大丈夫だよ、気楽に話そ~!」


 コトちの声は、いつも通りだった。


 配信で何度も聞いた、優しいトーン。


「わ、わたし……ファンで……す! いつも、応援してます!」


 精一杯、言葉をひねり出す。


 でも、あまりにも月並みなセリフすぎて、言ってすぐに後悔した。


 こんなはずじゃなかったのに。


 そんな遥の気持ちを察したのか、コトちがふんわり笑って問いかけてくれた。


「ねえ、お姉さんは最近、なにか嬉しかったことってあった?」


 一瞬、言葉に詰まる。


 けど、その問いかけが、不思議と心に触れた。


「……あの、わたし……」


 自分でも気づかないうちに、口が動いていた。


「学校で……ほとんど友達とかいなくて。話す相手もあんまりいないんですけ

 ど……」


「でも、最近、コトちが好きだっていう子と話す機会があって……そのとき、初めて、ちゃんと“楽しい”って思えたんです」


 言葉を並べながら、思い出が胸にあふれてくる。


「でも……その人とはもう、話す機会もなくなっちゃって」


「今日、もしかしたら来てるかもって思って、来てみたけど……」


 そこまで話したところで、ふと自分の言葉の重さに気づく。


 ——何やってるんだろう、私。


 推しに、こんな、重い話……


 下を向きかけたそのとき、画面の中のコトちが、まっすぐな声で言った。


「うん、その人との思い出、すっごく大切なんだね」


 微笑むコトちの表情は、いつもより少しだけ、真剣だった。


「忘れたくないって気持ち、ちゃんと伝わってきたよ」


 胸が、じんわり温かくなった。


「話す機会がなくなっちゃったって言ってたけど……本当に、もう完全に無理なの?」


「……ううん。わたしが……勇気を出せば、また話せる……かも」


「じゃあさ、まだチャンスはあるってことじゃん!」


 パァッと笑うコトちに、遥の目が潤んだ。


「きっとね、その気持ち、大事にしてあげてほしいな。ちゃんと向き合おうって思えたなら、それはもう、すごい一歩だよ」


「でもね、無理だけはしないで。“今日もぼちぼち頑張ろ~”くらいの気持ちでさ!」


 その優しさに、心の底から救われた気がした。


「……ありがとう、ございます……わたし、頑張ってみます……!」


 声が少し震えたけれど、その言葉には嘘はなかった。


「お時間で~す!」


 売り子さんの声がして、5分間のおしゃべりタイムが終わりを告げた。


 最後にコトちに深く頭を下げて、ブースから離れようとしたそのときだった。


 ……ふと、視線の先。


 グッズの物販列に並ぶ、ひとりの人影が目に入る。


 ——え?


 心臓が、大きく跳ねた。


 見覚えのある後ろ姿。


 横顔。


 それは、どう見ても……佐久間君だった。


 ◇


 —————夏コミ当日の朝。


 けたたましいアラーム音で目を覚ました。


 夢か現実かも分からないまま、まぶたをこすりながらベッドを抜け出す。


 今日のために、昨夜はスケジュールを完璧に組んでおいた。


 この通りに動けば、推しのブースに一番乗りできるはず。


 そう、自分に言い聞かせるように朝の支度を進めていく。


 着替え、荷物の確認、財布、スマホ――


 よし、すべて完了。


 ドアノブに手をかけた、そのときだった。


「ちょっと優~、早く出かけるならこれ、捨ててきてくれない?」


 リビングから聞こえた、母さんの声。


「……なんでこういう日に限って」


 思わずため息が漏れる。


 でも、今日の資金は母さんに少し出してもらってる。文句は言えない。


 渋々、手渡された古紙の束を持って、外へ出る。


「まあ……ゴミ出しくらい、誤差だし」


 予定より5分ほど遅れるが、まだ余裕はある。


 ゴミ出しを終えて、ポケットからスマホを出そうとした瞬間――


 ……空っぽ。


「……え?」


 置き忘れた。靴を履くときに一度玄関に置いて、そのまま。


 頭が一瞬真っ白になる。


 一度戻って、また駅まで走って――


「間に合う……間に合う、はず!」


 息を切らせながら家に戻り、玄関のスマホをつかんで、全速力で駅へ向かう。


 心臓が痛い。足が重い。



 ようやく駅に着いて、ホームの掲示板を見る。


“遅延20分”


 電光掲示板に、容赦なく赤い文字が灯っていた。


「マジかよ……」


 どうしてこう、うまくいかないんだろう。


 スケジュールを完璧に立てたって、ちょっとしたことで全部崩れてしまう。



 ……まるで、あの日の自分みたいだった。



 電車に揺られ、どうにか会場の最寄り駅に到着した頃には、心も体もぐったりだった。


 予定していた“開幕凸”には到底間に合わなかった。


 それでも、せめて推しとのツーショットのために、気持ちを立て直す。


 軍隊のような整列と牛歩の入場列。


 目の前の人の背中をひたすら見つめながら、ようやく中に入った。


 ブースの場所は、もう頭に入っている。


 迷わず直行。


 少し息を切らせながら、推しのブースへとたどり着く。


 目に入ったのは、小さな机と、モニターの中のコトち。


 そして、その前でツーショットをしている一人の女の子。


 ふと目を凝らした瞬間、頭が真っ白になった。


 ——え。


 あの後ろ姿。


 少しだけツリ目の横顔。


 どう見ても、宮下先輩だった。


 なんで……?


 頭の中で言葉がぐるぐる回る。


 まさか、先輩が……コミケに?


 しかも、コトちのブースで?


 思考が追いつかない。


 でも、あの横顔だけは間違えようがなかった。


 まさかここで、また出会うなんて。


 まるで、いたずら好きの神様が、もう一度だけ希望の糸を垂らしてくれたようだった。


 ついさっきまで、頭の中は推しのことでいっぱいだった。


 けれど今はもう、全部、先輩のことで埋め尽くされていた。


 気づけば、自分の番がもうすぐそこに迫っていた。


 前並んでいた3人のうち、1人がツーショットおしゃべりの順番を待っている。


 このまま何もせずに列に並べば、先輩には気づかれず、そのまま帰ってしまうかもしれない。


 どうする? 行くべきか? 立ち止まるべきか?


 葛藤する中、売り子さんの「次の方どうぞ~!」という明るい声が響いた。


 自分の物販の番だった。


 ……今行ったら、横並びにならないか?


 そんな不安が頭をよぎった直後、「お時間で~す!」の声が聞こえた。


 タイミングは、ぴったりだった。


 先輩がツーショットブースから出てきたちょうどその時、俺は物販のテーブルへと足を踏み出す。


 横目に見ると、去っていく先輩が、ふいにこちらを振り返った。


 一瞬、目が合った。


「……え?」


 ガヤガヤとした喧噪の中でも、確かに、俺の耳には届いた。


 そのまま先輩は、ブース近くの壁際に立ち止まった。


 それを確認して、俺は少しだけ安堵の息をついた。


 まずは買い物だ。


 事前に決めていたグッズをさっと選び、会計を済ませる。


 そして、おしゃべりタイムの待機列へ。


 今思えば、先輩がそのまま帰ってしまってもおかしくなかった。


 それでもこのときの俺には、まず伝えたい気持ちがあった。


 ——推しに、ありがとうを言わなきゃ。


 前の人が終わり、売り子さんの「次の方お待たせしました~!」の声が合図になる。


 モニターの前へ進むと、そこにはいつもの笑顔のコトちがいた。


「初めまして~! 今日は来てくれてありがとね~!」


「は、初めまして!」


 少しだけ声が上ずる。けど、気にせずに続けた。


「今日はその……コトちに、お礼が言いたくて」


「お礼? なんだろ~?」


 首をかしげるコトちに、少しずつ言葉がこぼれていく。


「本当は今日、話したいこといっぱい考えてたんです」


「でも、さっきちょっと……状況が変わって」


 何をどう言えばいいのか分からなくなって、たどたどしい口調になってしまう。


 けれど、今の俺にはもう、取り繕う余裕なんてなかった。


「コトちのおかげで……“素敵だな”って思える人と出会えました」


 自分でも、こんな言葉が出たことに驚いた。


 たった数回しか会話を交わしていない。


 でも、その人と過ごした時間が、俺の中でどれほど大きなものだったか。


「でも、俺のせいで……その人と話す機会、なくしてしまって」


「勇気が足りなかったから……チャンスを、逃してばかりで……」


 モニターの向こうのコトちは、まっすぐに俺の言葉を聞いてくれていた。


「でも、今日……コトちのおかげで、その人に、もう一度会えました」


「出会えたのも、こうしてここに立っているのも……全部、コトちのおかげです」


「だから……本当に、ありがとうございます」


 最後の言葉は、頭を深く下げながら絞り出した。


 コトちは、いつもの明るい声で返してくれた。


「やだなぁ~、顔あげてよ~」


 モニターの中の笑顔が、まるで光みたいだった。


「コトちは何もしてないよ? きっかけを作ったのは、もしかしたらそうかもしれないけど」


「でも、そこからちゃんと向き合ったのは君でしょ? 自信持って!」


 思わず背筋をピンと伸ばす。


「二人のこと、コトちはちゃんとは知らないけど……きっと、仲良くなれると思うな~」


 何かを察したような、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、コトちは言った。


「応援してるよ! どうなったか、よかったらまた配信のコメントとかで教えてねっ」


「……はい、ぜひ……!」


「お時間で~す!」


 時間はあっという間に過ぎていた。


 準備してきた質問も、話したかった話題も何ひとつ言えなかったけれど。


 それでも、心から満たされていた。


 もう一度、遥のいる方向を振り返る。


 良かった。まだ、同じ場所にいた。


 スマホを見ながら、じっと立っていてくれている。


 ペコペコと推しに頭を下げてから、俺は先輩の方へ歩き出した。



「青春だね~」


 まるで今から冒険に出る勇者のような背中を眺めながら、桜庭コトネはぽつりとつぶやいた。


 その声には、少しだけ、うらやましさが混じっていた。



 待ってくれている、なんて――本当に、そうなんだろうか。


 俺のことを待ってるなんて、ただの勘違いじゃないのか。


 気づいてさえいない可能性だってある。


 もしかすると、ただ近くで誰かと待ち合わせしてるだけかもしれない。


 そんな不安が、胸の奥をジワジワと締めつけてくる。


 けれど、それでも俺の足は止まらなかった。


 たとえ違ったとしても――


 もし、ここで何もできなかったら、きっと一生後悔する。


 そう思った瞬間には、もう歩き出していた。


 いつもなら、頭の中で何度も会話のシミュレーションをしてから話しかけるのに。


 このときばかりは、ただがむしゃらだった。


 先輩との距離が、あと10歩。


 息を整える間もなく、声を振り絞った。


「あのっ、先輩!……ですよね?」


 ビクッと肩が跳ねて、先輩がスマホから顔を上げた。


「さ、佐久間君……?」


 驚いたような声。その一言で、心臓が跳ねた。


「ぐ、偶然ですよね~……まさかこんなところで会うなんて~」


 思わず出た棒読みの挨拶に、自分でも苦笑いしそうになる。


 でも、もうどうでもよかった。形なんて。


「先輩もコミケ来てたんですね! 一人ですか? 先輩ってインドア派っぽいから、ちょっと意外でした」


「う、うん……一人。今日は……どうしても欲しい、コトちのグッズがあって……」


「そうだったんですね! ちなみに、何買ったんですか?」


「私は、アクスタと……アクキーと……あと、チェキ風カード……」


 ぎこちない会話。でも、それが心地よかった。


 少しずつ、あの日の昼休みに戻っていくようだった。


 やっぱり先輩と話すのは、楽しい。


 会話が落ち着き、ふと訪れた静かな間。


 たった数秒の沈黙が、急に怖くなる。


 このまま、また「楽しかったね」で終わってしまうのか。


 それじゃダメだ。


 何か、何か一歩を踏み出さなきゃ。


 考えがまとまるより早く、口が先に動いていた。


「俺、“あの日のお昼”……めちゃくちゃ楽しかったんです」


 先輩が、少し驚いたように目を見開く。


「先輩からも“楽しかった”って言ってもらえて、すごく嬉しくて」


「このまま、先輩と……こんなふうにまた話せたらいいなって、思ってたんです」


「でも……最終日、俺、何もできなくて。話しかける勇気が出なくて……」


「このまま、“ただの先輩と後輩”に戻るのかなって、どこかで諦めてました」


 言葉があふれるように、止まらなかった。


 チラッと見た先輩の顔は、何かをこらえているようで、でも、ちゃんと耳を傾けてくれていた。


 ……だから、言わなきゃ。


 もう、後悔はしたくない。


「先輩! もしよかったら――」


 一度、言葉を飲み込んで、しっかり顔を上げた。


「……俺と、“友達になってくれませんか!”」


 ◇


 —————あれは、間違いなく佐久間君だった。


 一瞬で、心臓が跳ねた。


 鼓動が早くなるのが、自分でも分かる。


 もう、今日は会えない。


 きっとこの先も、関わることなんてない。


 ……そう、諦めていたはずなのに。


 まさか、こんな形で現れるなんて。


 あまりに急で、心の準備がまったく追いつかない。


 でも――これは、神様がくれた最後のチャンスだと思った。


 推しが言ってくれた“まだチャンスがある”って言葉。


 その“チャンス”が、思っていたよりずっと早く来てしまっただけ。


 優は、私に気づいている。


 どう話しかければいいかなんて、もう分からない。


 頭の中は真っ白で、言葉なんて一つも浮かばない。


 それでも――なんとかしなきゃ。


 彼が物販を済ませて、ツーショットおしゃべりの列に並んでいくのを見届ける。


 少しだけ、心が落ち着いた。


 まだ、少し時間がある。


 その間に、深呼吸をして、落ち着いて、言うべき言葉を……


 ……いや、無理。何も考えられない。


 推しと話している優を見ても、綺麗にお辞儀をしている姿を見ても、頭がぐるぐるするばかりだった。


 そして――終わった。


 優が、モニターの前からこちらを振り向いた。


 思わず、手元のスマホに視線を落とす。


「やばい……なにも、考えられてない……」


 頭も心も、ふわふわしてる。


 足元がぐらつくほど不安なのに、体はもう動けない。


 気づけば、優はもう目の前まで来ていた。


「あのっ、先輩!……ですよね?」


「さ、佐久間君……?」


 思わず、気づいてなかったふりをしてしまった。


「ぐ、偶然ですよね~。まさかこんなところで会うなんて~」


 優の棒読みでぎこちない口調に少しだけ笑いそうになって、

 緊張がほんの少しだけほぐれる。


「先輩もコミケ、来てたんですね。一人ですか?」


「う、うん……今日は、どうしても欲しいコトちのグッズがあって」


“佐久間君に会えるかもしれないから”――そんなこと、言えるわけがない。


「そうだったんですね。ちなみに、何買ったんですか?」


「えっと……アクスタと、アクキーと、チェキ風カード……かな」


 たわいもない会話。


 でも、それだけで嬉しくなる自分がいる。


 あの日のお昼のように、少しずつ、自然に言葉が出てくる。


 やっぱり佐久間君と話してるときは、素の自分でいられる。


 でも、ふと沈黙が訪れる。


 このまま話が終わってしまったら、きっとまた“先輩と後輩”に戻ってしまう。


 その瞬間、彼が口を開いた。


「俺、“あの日のお昼”、めちゃくちゃ楽しかったんです」


 私も、本当に楽しかった。


「先輩からも楽しかったって言ってもらえて、本当にうれしかったんです」


 私も、“また語り合いましょう”って言えて、すごく嬉しかった。


「このまま先輩と、こういう関係が続いたらいいなって思ってました」


 ……同じ気持ちだった。


「でも最終日、俺、勇気が出せなくて。話しかけられなかった」


「このまま、“先輩と後輩”に戻っちゃうのかなって、諦めてました」


 それは、違うよ。


 私だって、同じだった。


 勇気が出なかったのは、私も一緒だった。


 本当は、あのとき話しかけたかった。


 でも、気持ちはあっても、言葉が出てこなかった。


 ……今も、そうだ。


 たくさん想いはあるのに、口が動かない。


 しっかりしてよ、私の声帯!


 必死に自分を叱咤していると――


「先輩! もしよかったら……俺と――」


「友達になってくれませんか!」


 ……ああ、結局、言わせちゃった。


 本当は、私が言いたかったのに。


 今日、会えるかもしれないって思って、勇気を振り絞ってここまで来たのに。


 何度も頭の中で練習した言葉だったのに。


 いざ目の前にすると、全部、出てこなかった。


 だから今――


 優の言葉を聞いた瞬間、嬉しさと情けなさが一気に溢れて、


 私は涙をこぼしてしまった。


「せっ、先輩……?」


 驚いたように、優が顔を覗き込んでくる。


「な、泣いてるんですか!? す、すみません……キモかったですよね!? やっぱり今のナシで! 忘れてください!」


「……ちがうの」


 声にならない声。


 それでも、なんとか絞り出す。


「私も……佐久間君と、友達に……なりたいの」


 泣いているせいで、言葉がうまく出せない。


 それでも、どうにか想いだけは伝えたかった。


 優が、呆けたような顔で私を見ている。


「……い、今なんと……?」


 一度、深呼吸をして。


 ちゃんと、言葉にして伝える。


「私も――佐久間君と、友達になりたい」


 やっと、言えた。


 たったそれだけの言葉を伝えるのに、


 こんなにも遠回りしてしまった。


 でも、その分だけ、この言葉にはたくさんの気持ちが詰まっていた。


「そ、それじゃあ!」


 優の表情が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。


「よろしくお願いしますっ!」


 あまりの気合いの入り方に、思わず笑ってしまった。


「うん、こちらこそよろしくね」


 そう言って笑った私は、たぶん――


 今まで誰にも見せたことのない顔をしていたと思う。



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