第4話:いたずら好きの神様
最後の委員会の集まりから、もう数日が過ぎた。
変わらないはずの日常が、どこかスカスカに感じる。
大事なパーツを失ったみたいに、心の奥にぽっかりと穴が空いていた。
委員会の活動は、もう終わった。
つまり、先輩と顔を合わせる理由も――なくなったってことだ。
最終日の失敗が、今でも頭から離れない。
もっと俺に勇気があったら、何か変わっていたのかもしれないのに。
そんな“たられば”ばかりが波のように押し寄せてきて、気づけばため息ばかりついている。
でも、その中でふと思い出すのは――あの3回目の集まりの日。昼休み。
一緒に推しの話をして、笑い合った時間。
「これからも、こんなふうに話せたらいいな」って、そう思ってた。
推しの配信を開いても、集中できない。
モニターの向こうにいるのは推しのはずなのに、
ふとした瞬間に、先輩の横顔が浮かんでしまう。
……でも、人は後悔の上に、新しい感情を積み重ねていける。
少なくとも、そういう生き物だと信じたい。
そう、自分に言い聞かせた。
それでも――この気持ちを上書きしてくれるかもしれないイベントが、週末に控えている。
そう、夏コミだ。
しかも、俺の推し――桜庭コトネの参加も決定済み。
正直、大手というわけではない。だけど、だからこそ、通販では手に入らない限定グッズが並ぶこの機会は貴重すぎる。
さらに今回は、なんと3,000円で“ツーショットおしゃべりタイム”なるものまで付いてくる。
コトちと5分間、画面越しに会話できるって……コスパの暴力か?
気がつけば、どんよりしていた気分も少しだけ晴れていた。
先輩のことを考えて立ち止まるよりも、推しとの未来を考える方が今の自分には必要だ。
俺はさっそく、買いたいグッズをリストにまとめ、
おしゃべりタイムで何を話すか、ノートアプリにメモを取り始めた。
◇
夏コミ前日の夜。
部屋の明かりはついているのに、心の中はずっと夕暮れみたいだった。
委員会の最後の日から、時間は経った。
けれど、胸の奥に残った引っかかりは、まるで昨日のことのように鮮明だった。
「……学年も違うし、もう佐久間君と話すことなんて、ないよね」
小さく漏れた声が、部屋の静けさに溶けて消えていく。
分かってる。もう終わったことだし、悔やんでも時間は戻らない。
それでも、あの日――ほんの少しでも自分に勇気があったならって、
そんな“もしも”を何度も何度も繰り返してしまう。
推しの配信を流してみるけど、画面に映る明るい笑顔が、どこか遠くに感じた。
昔は、どんなに疲れていても、あの声を聞けば元気になれたのに。
今の私は、たったひとつの後悔さえ、まともに飲み込めていない。
画面の前で、たったひとり。
思わずため息がこぼれる。
「……はぁ」
あの昼休み、ほんの短い時間だったけど、楽しかった。
もっと話したかった。
でも結局、何もできなかった。
もう、全部遅かったんだ。
そう思いながら、なんとなくSNSを開いていたそのときだった。
《明日からの夏コミ、コトちも参戦するよ~!!
今回はグッズに加えて5分間のツーショットおしゃべりタイムも出来ちゃうよ!
東475で待ってるから~!》
一瞬、胸の奥で何かが弾けた。
「……え?」
推しの投稿を読み返す。もう一度、ゆっくり。
ツーショットおしゃべり。コトちのブース。
ふと、思い出す。
あの日のお昼、佐久間君が言っていた。
「このアクキー、去年のコミケで買ったんです」って。
もしかしたら——
「……コトちのブースに行けば、会えるかもしれない」
言葉にしてみても、それがどれだけ無謀な望みなのかは分かってる。
でも今、この小さな可能性だけが、胸の中の後悔を少しだけ上書きしてくれそうな気がした。
思い立つと、体が自然と動き出した。
会場までのルート、電車の時間、熱中症対策。
必要なものをスマホにメモして、荷物を準備する。
まるで、あの人に会いに行く“言い訳”を探してるみたいだった。
でもいい。たとえ、会えなかったとしても。
……明日、行こう。
少しだけ心が軽くなった気がして、遥は静かにベッドに潜り込んだ。
—————翌朝。
カーテンの隙間から漏れる、ほんのりとした朝の光。
夏の日差しにはまだ遠い、まだ世界が眠っているような時間だった。
それでも、遥はもう起きていた。
着替えを済ませ、最低限のメイクをして、鏡の前に立つ。
でもその顔は、どこか浮かない。
昨夜はあれだけ「会えるかも」と思って眠りについたのに。
朝になって、現実の重さが胸にのしかかっていた。
——本当に会えるの?
遥は根っからのインドア派だった。
推しのために何度も行きたいとは思ったけれど、コミケには一度も行ったことがない。
一人で電車に乗って、知らない人の波に揉まれて、慣れない空間に身を置く。
それだけでも充分、心が折れそうになる。
それに、佐久間君が今日、本当に来ている保証なんて、どこにもない。
たとえ来ていたとしても、同じ時間に同じ場所にいるとは限らない。
ブースの前で偶然会えるなんて、奇跡に近い確率だ。
……そんな都合のいい偶然、本当にあるのかな。
一度そう思ってしまうと、不安ばかりが膨らんでいく。
「……もし会えなかったら、グッズだけ買って帰ろう」
小さく、そうつぶやいた。
無理に期待して、また後悔するのは怖い。
でも、もう支度はほとんど終わっていた。
「……せっかく準備したし、会場くらいは行こう」
まるで自分をだますように、遥はバッグのファスナーを閉じた。
覚悟なんて、まだできていない。
だけど、それでも一歩踏み出してみようと思えたのは、
昨日見た、あのツイートのおかげだった。
電車に揺られること約40分。
乗り換えを経て、ようやく最寄駅に着いた。
ここまでは驚くほど順調だった。
でも、駅のホームに降りた瞬間、その幻想は一気に崩れる。
「……うそでしょ」
足元から響いてくるようなざわめき。
四方を埋め尽くす人、人、人。
夏の湿気を纏った空気が、まともに呼吸すらさせてくれない。
流れに乗って、ようやく会場近くの待機列へたどり着いた頃には、すでに汗で背中がじっとりと湿っていた。
ただ立っているだけなのに、体力だけがどんどん奪われていく。
太陽の光が容赦なく肌を焼きつけ、白い腕がじりじりと赤くなっていくのがわかる。
「……もう帰りたい」
誰にも聞こえないような声で、ぽつりとつぶやいた。
だけど、周りをびっしりと囲む人の波に埋もれて、抜け出すのも難しい。
もうここまで来たのに、今さら引き返せない。
ただじっと、前に進むのを待ち続けるしかなかった。
そして、ようやく入場。
灼熱と人混みの地獄の先。
視界が一気に開けて、遥の心にふっと風が吹いた。
見渡す限り、オタクの世界。
カラフルなポスター、コスプレ、熱気。
あちこちから聞こえてくる“好き”の声が、少しだけ胸に沁みた。
まるで、現実から遠く離れた異世界みたい。
少しだけ気持ちが軽くなった。
スマホに保存していた地図を片手に、迷いながらも歩く。
15分ほどかかって、ようやくたどり着いた。
コトちのブース。
小さな机の上には、可愛らしいグッズと、モニターに映る推しの姿。
……でも、その周りに、佐久間君の姿はなかった。
「……そっか」
やっぱり、そううまくはいかない。
小さくつぶやいて、視線を落とす。
思ってた通りだったのに、
思ってた通りなのに、
なぜだろう。
ほんの少し、涙が出そうになった。
「……グッズ、買って帰ろう」
人混みにまぎれて、物販列に並ぶ。
前に並ぶ人はわずか二人。すぐに自分の番が来た。
「アクキーと、アクスタと、チェキ風カードと……ツーショットおしゃべり、お願いします」
少しだけ声が震えていたけど、売り子さんはにこやかに対応してくれた。
お会計を終えると、推しの映るモニターの前へと誘導される。
「じゃあ、今から5分測りまーす!」
その声と同時に、遥の“もう一つの想い”が、モニターに向かって動き出した。
モニターの向こうに、推し――桜庭コトネが映し出されている。
いつもと変わらない笑顔。
ふわふわとしたトーンの声が、スピーカー越しに響いてくる。
「初めまして~! 今日は来てくれてありがとね~!」
その瞬間、遥の胸がギュッと締めつけられた。
——どうしよう。何を話せばいいんだっけ。
佐久間君に会えるかもしれない、そんなことで頭がいっぱいで、
一番大事な「推しとの時間」のことを、何も考えてなかった。
「あ、あの……は、初めまして……!」
緊張で、思いきり声が裏返った。
「ふふ、緊張してる~? 大丈夫だよ、気楽に話そ~!」
コトちの声は、いつも通りだった。
配信で何度も聞いた、優しいトーン。
「わ、わたし……ファンで……す! いつも、応援してます!」
精一杯、言葉をひねり出す。
でも、あまりにも月並みなセリフすぎて、言ってすぐに後悔した。
こんなはずじゃなかったのに。
そんな遥の気持ちを察したのか、コトちがふんわり笑って問いかけてくれた。
「ねえ、お姉さんは最近、なにか嬉しかったことってあった?」
一瞬、言葉に詰まる。
けど、その問いかけが、不思議と心に触れた。
「……あの、わたし……」
自分でも気づかないうちに、口が動いていた。
「学校で……ほとんど友達とかいなくて。話す相手もあんまりいないんですけ
ど……」
「でも、最近、コトちが好きだっていう子と話す機会があって……そのとき、初めて、ちゃんと“楽しい”って思えたんです」
言葉を並べながら、思い出が胸にあふれてくる。
「でも……その人とはもう、話す機会もなくなっちゃって」
「今日、もしかしたら来てるかもって思って、来てみたけど……」
そこまで話したところで、ふと自分の言葉の重さに気づく。
——何やってるんだろう、私。
推しに、こんな、重い話……
下を向きかけたそのとき、画面の中のコトちが、まっすぐな声で言った。
「うん、その人との思い出、すっごく大切なんだね」
微笑むコトちの表情は、いつもより少しだけ、真剣だった。
「忘れたくないって気持ち、ちゃんと伝わってきたよ」
胸が、じんわり温かくなった。
「話す機会がなくなっちゃったって言ってたけど……本当に、もう完全に無理なの?」
「……ううん。わたしが……勇気を出せば、また話せる……かも」
「じゃあさ、まだチャンスはあるってことじゃん!」
パァッと笑うコトちに、遥の目が潤んだ。
「きっとね、その気持ち、大事にしてあげてほしいな。ちゃんと向き合おうって思えたなら、それはもう、すごい一歩だよ」
「でもね、無理だけはしないで。“今日もぼちぼち頑張ろ~”くらいの気持ちでさ!」
その優しさに、心の底から救われた気がした。
「……ありがとう、ございます……わたし、頑張ってみます……!」
声が少し震えたけれど、その言葉には嘘はなかった。
「お時間で~す!」
売り子さんの声がして、5分間のおしゃべりタイムが終わりを告げた。
最後にコトちに深く頭を下げて、ブースから離れようとしたそのときだった。
……ふと、視線の先。
グッズの物販列に並ぶ、ひとりの人影が目に入る。
——え?
心臓が、大きく跳ねた。
見覚えのある後ろ姿。
横顔。
それは、どう見ても……佐久間君だった。
◇
—————夏コミ当日の朝。
けたたましいアラーム音で目を覚ました。
夢か現実かも分からないまま、まぶたをこすりながらベッドを抜け出す。
今日のために、昨夜はスケジュールを完璧に組んでおいた。
この通りに動けば、推しのブースに一番乗りできるはず。
そう、自分に言い聞かせるように朝の支度を進めていく。
着替え、荷物の確認、財布、スマホ――
よし、すべて完了。
ドアノブに手をかけた、そのときだった。
「ちょっと優~、早く出かけるならこれ、捨ててきてくれない?」
リビングから聞こえた、母さんの声。
「……なんでこういう日に限って」
思わずため息が漏れる。
でも、今日の資金は母さんに少し出してもらってる。文句は言えない。
渋々、手渡された古紙の束を持って、外へ出る。
「まあ……ゴミ出しくらい、誤差だし」
予定より5分ほど遅れるが、まだ余裕はある。
ゴミ出しを終えて、ポケットからスマホを出そうとした瞬間――
……空っぽ。
「……え?」
置き忘れた。靴を履くときに一度玄関に置いて、そのまま。
頭が一瞬真っ白になる。
一度戻って、また駅まで走って――
「間に合う……間に合う、はず!」
息を切らせながら家に戻り、玄関のスマホをつかんで、全速力で駅へ向かう。
心臓が痛い。足が重い。
ようやく駅に着いて、ホームの掲示板を見る。
“遅延20分”
電光掲示板に、容赦なく赤い文字が灯っていた。
「マジかよ……」
どうしてこう、うまくいかないんだろう。
スケジュールを完璧に立てたって、ちょっとしたことで全部崩れてしまう。
……まるで、あの日の自分みたいだった。
電車に揺られ、どうにか会場の最寄り駅に到着した頃には、心も体もぐったりだった。
予定していた“開幕凸”には到底間に合わなかった。
それでも、せめて推しとのツーショットのために、気持ちを立て直す。
軍隊のような整列と牛歩の入場列。
目の前の人の背中をひたすら見つめながら、ようやく中に入った。
ブースの場所は、もう頭に入っている。
迷わず直行。
少し息を切らせながら、推しのブースへとたどり着く。
目に入ったのは、小さな机と、モニターの中のコトち。
そして、その前でツーショットをしている一人の女の子。
ふと目を凝らした瞬間、頭が真っ白になった。
——え。
あの後ろ姿。
少しだけツリ目の横顔。
どう見ても、宮下先輩だった。
なんで……?
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
まさか、先輩が……コミケに?
しかも、コトちのブースで?
思考が追いつかない。
でも、あの横顔だけは間違えようがなかった。
まさかここで、また出会うなんて。
まるで、いたずら好きの神様が、もう一度だけ希望の糸を垂らしてくれたようだった。
ついさっきまで、頭の中は推しのことでいっぱいだった。
けれど今はもう、全部、先輩のことで埋め尽くされていた。
気づけば、自分の番がもうすぐそこに迫っていた。
前並んでいた3人のうち、1人がツーショットおしゃべりの順番を待っている。
このまま何もせずに列に並べば、先輩には気づかれず、そのまま帰ってしまうかもしれない。
どうする? 行くべきか? 立ち止まるべきか?
葛藤する中、売り子さんの「次の方どうぞ~!」という明るい声が響いた。
自分の物販の番だった。
……今行ったら、横並びにならないか?
そんな不安が頭をよぎった直後、「お時間で~す!」の声が聞こえた。
タイミングは、ぴったりだった。
先輩がツーショットブースから出てきたちょうどその時、俺は物販のテーブルへと足を踏み出す。
横目に見ると、去っていく先輩が、ふいにこちらを振り返った。
一瞬、目が合った。
「……え?」
ガヤガヤとした喧噪の中でも、確かに、俺の耳には届いた。
そのまま先輩は、ブース近くの壁際に立ち止まった。
それを確認して、俺は少しだけ安堵の息をついた。
まずは買い物だ。
事前に決めていたグッズをさっと選び、会計を済ませる。
そして、おしゃべりタイムの待機列へ。
今思えば、先輩がそのまま帰ってしまってもおかしくなかった。
それでもこのときの俺には、まず伝えたい気持ちがあった。
——推しに、ありがとうを言わなきゃ。
前の人が終わり、売り子さんの「次の方お待たせしました~!」の声が合図になる。
モニターの前へ進むと、そこにはいつもの笑顔のコトちがいた。
「初めまして~! 今日は来てくれてありがとね~!」
「は、初めまして!」
少しだけ声が上ずる。けど、気にせずに続けた。
「今日はその……コトちに、お礼が言いたくて」
「お礼? なんだろ~?」
首をかしげるコトちに、少しずつ言葉がこぼれていく。
「本当は今日、話したいこといっぱい考えてたんです」
「でも、さっきちょっと……状況が変わって」
何をどう言えばいいのか分からなくなって、たどたどしい口調になってしまう。
けれど、今の俺にはもう、取り繕う余裕なんてなかった。
「コトちのおかげで……“素敵だな”って思える人と出会えました」
自分でも、こんな言葉が出たことに驚いた。
たった数回しか会話を交わしていない。
でも、その人と過ごした時間が、俺の中でどれほど大きなものだったか。
「でも、俺のせいで……その人と話す機会、なくしてしまって」
「勇気が足りなかったから……チャンスを、逃してばかりで……」
モニターの向こうのコトちは、まっすぐに俺の言葉を聞いてくれていた。
「でも、今日……コトちのおかげで、その人に、もう一度会えました」
「出会えたのも、こうしてここに立っているのも……全部、コトちのおかげです」
「だから……本当に、ありがとうございます」
最後の言葉は、頭を深く下げながら絞り出した。
コトちは、いつもの明るい声で返してくれた。
「やだなぁ~、顔あげてよ~」
モニターの中の笑顔が、まるで光みたいだった。
「コトちは何もしてないよ? きっかけを作ったのは、もしかしたらそうかもしれないけど」
「でも、そこからちゃんと向き合ったのは君でしょ? 自信持って!」
思わず背筋をピンと伸ばす。
「二人のこと、コトちはちゃんとは知らないけど……きっと、仲良くなれると思うな~」
何かを察したような、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、コトちは言った。
「応援してるよ! どうなったか、よかったらまた配信のコメントとかで教えてねっ」
「……はい、ぜひ……!」
「お時間で~す!」
時間はあっという間に過ぎていた。
準備してきた質問も、話したかった話題も何ひとつ言えなかったけれど。
それでも、心から満たされていた。
もう一度、遥のいる方向を振り返る。
良かった。まだ、同じ場所にいた。
スマホを見ながら、じっと立っていてくれている。
ペコペコと推しに頭を下げてから、俺は先輩の方へ歩き出した。
「青春だね~」
まるで今から冒険に出る勇者のような背中を眺めながら、桜庭コトネはぽつりとつぶやいた。
その声には、少しだけ、うらやましさが混じっていた。
待ってくれている、なんて――本当に、そうなんだろうか。
俺のことを待ってるなんて、ただの勘違いじゃないのか。
気づいてさえいない可能性だってある。
もしかすると、ただ近くで誰かと待ち合わせしてるだけかもしれない。
そんな不安が、胸の奥をジワジワと締めつけてくる。
けれど、それでも俺の足は止まらなかった。
たとえ違ったとしても――
もし、ここで何もできなかったら、きっと一生後悔する。
そう思った瞬間には、もう歩き出していた。
いつもなら、頭の中で何度も会話のシミュレーションをしてから話しかけるのに。
このときばかりは、ただがむしゃらだった。
先輩との距離が、あと10歩。
息を整える間もなく、声を振り絞った。
「あのっ、先輩!……ですよね?」
ビクッと肩が跳ねて、先輩がスマホから顔を上げた。
「さ、佐久間君……?」
驚いたような声。その一言で、心臓が跳ねた。
「ぐ、偶然ですよね~……まさかこんなところで会うなんて~」
思わず出た棒読みの挨拶に、自分でも苦笑いしそうになる。
でも、もうどうでもよかった。形なんて。
「先輩もコミケ来てたんですね! 一人ですか? 先輩ってインドア派っぽいから、ちょっと意外でした」
「う、うん……一人。今日は……どうしても欲しい、コトちのグッズがあって……」
「そうだったんですね! ちなみに、何買ったんですか?」
「私は、アクスタと……アクキーと……あと、チェキ風カード……」
ぎこちない会話。でも、それが心地よかった。
少しずつ、あの日の昼休みに戻っていくようだった。
やっぱり先輩と話すのは、楽しい。
会話が落ち着き、ふと訪れた静かな間。
たった数秒の沈黙が、急に怖くなる。
このまま、また「楽しかったね」で終わってしまうのか。
それじゃダメだ。
何か、何か一歩を踏み出さなきゃ。
考えがまとまるより早く、口が先に動いていた。
「俺、“あの日のお昼”……めちゃくちゃ楽しかったんです」
先輩が、少し驚いたように目を見開く。
「先輩からも“楽しかった”って言ってもらえて、すごく嬉しくて」
「このまま、先輩と……こんなふうにまた話せたらいいなって、思ってたんです」
「でも……最終日、俺、何もできなくて。話しかける勇気が出なくて……」
「このまま、“ただの先輩と後輩”に戻るのかなって、どこかで諦めてました」
言葉があふれるように、止まらなかった。
チラッと見た先輩の顔は、何かをこらえているようで、でも、ちゃんと耳を傾けてくれていた。
……だから、言わなきゃ。
もう、後悔はしたくない。
「先輩! もしよかったら――」
一度、言葉を飲み込んで、しっかり顔を上げた。
「……俺と、“友達になってくれませんか!”」
◇
—————あれは、間違いなく佐久間君だった。
一瞬で、心臓が跳ねた。
鼓動が早くなるのが、自分でも分かる。
もう、今日は会えない。
きっとこの先も、関わることなんてない。
……そう、諦めていたはずなのに。
まさか、こんな形で現れるなんて。
あまりに急で、心の準備がまったく追いつかない。
でも――これは、神様がくれた最後のチャンスだと思った。
推しが言ってくれた“まだチャンスがある”って言葉。
その“チャンス”が、思っていたよりずっと早く来てしまっただけ。
優は、私に気づいている。
どう話しかければいいかなんて、もう分からない。
頭の中は真っ白で、言葉なんて一つも浮かばない。
それでも――なんとかしなきゃ。
彼が物販を済ませて、ツーショットおしゃべりの列に並んでいくのを見届ける。
少しだけ、心が落ち着いた。
まだ、少し時間がある。
その間に、深呼吸をして、落ち着いて、言うべき言葉を……
……いや、無理。何も考えられない。
推しと話している優を見ても、綺麗にお辞儀をしている姿を見ても、頭がぐるぐるするばかりだった。
そして――終わった。
優が、モニターの前からこちらを振り向いた。
思わず、手元のスマホに視線を落とす。
「やばい……なにも、考えられてない……」
頭も心も、ふわふわしてる。
足元がぐらつくほど不安なのに、体はもう動けない。
気づけば、優はもう目の前まで来ていた。
「あのっ、先輩!……ですよね?」
「さ、佐久間君……?」
思わず、気づいてなかったふりをしてしまった。
「ぐ、偶然ですよね~。まさかこんなところで会うなんて~」
優の棒読みでぎこちない口調に少しだけ笑いそうになって、
緊張がほんの少しだけほぐれる。
「先輩もコミケ、来てたんですね。一人ですか?」
「う、うん……今日は、どうしても欲しいコトちのグッズがあって」
“佐久間君に会えるかもしれないから”――そんなこと、言えるわけがない。
「そうだったんですね。ちなみに、何買ったんですか?」
「えっと……アクスタと、アクキーと、チェキ風カード……かな」
たわいもない会話。
でも、それだけで嬉しくなる自分がいる。
あの日のお昼のように、少しずつ、自然に言葉が出てくる。
やっぱり佐久間君と話してるときは、素の自分でいられる。
でも、ふと沈黙が訪れる。
このまま話が終わってしまったら、きっとまた“先輩と後輩”に戻ってしまう。
その瞬間、彼が口を開いた。
「俺、“あの日のお昼”、めちゃくちゃ楽しかったんです」
私も、本当に楽しかった。
「先輩からも楽しかったって言ってもらえて、本当にうれしかったんです」
私も、“また語り合いましょう”って言えて、すごく嬉しかった。
「このまま先輩と、こういう関係が続いたらいいなって思ってました」
……同じ気持ちだった。
「でも最終日、俺、勇気が出せなくて。話しかけられなかった」
「このまま、“先輩と後輩”に戻っちゃうのかなって、諦めてました」
それは、違うよ。
私だって、同じだった。
勇気が出なかったのは、私も一緒だった。
本当は、あのとき話しかけたかった。
でも、気持ちはあっても、言葉が出てこなかった。
……今も、そうだ。
たくさん想いはあるのに、口が動かない。
しっかりしてよ、私の声帯!
必死に自分を叱咤していると――
「先輩! もしよかったら……俺と――」
「友達になってくれませんか!」
……ああ、結局、言わせちゃった。
本当は、私が言いたかったのに。
今日、会えるかもしれないって思って、勇気を振り絞ってここまで来たのに。
何度も頭の中で練習した言葉だったのに。
いざ目の前にすると、全部、出てこなかった。
だから今――
優の言葉を聞いた瞬間、嬉しさと情けなさが一気に溢れて、
私は涙をこぼしてしまった。
「せっ、先輩……?」
驚いたように、優が顔を覗き込んでくる。
「な、泣いてるんですか!? す、すみません……キモかったですよね!? やっぱり今のナシで! 忘れてください!」
「……ちがうの」
声にならない声。
それでも、なんとか絞り出す。
「私も……佐久間君と、友達に……なりたいの」
泣いているせいで、言葉がうまく出せない。
それでも、どうにか想いだけは伝えたかった。
優が、呆けたような顔で私を見ている。
「……い、今なんと……?」
一度、深呼吸をして。
ちゃんと、言葉にして伝える。
「私も――佐久間君と、友達になりたい」
やっと、言えた。
たったそれだけの言葉を伝えるのに、
こんなにも遠回りしてしまった。
でも、その分だけ、この言葉にはたくさんの気持ちが詰まっていた。
「そ、それじゃあ!」
優の表情が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。
「よろしくお願いしますっ!」
あまりの気合いの入り方に、思わず笑ってしまった。
「うん、こちらこそよろしくね」
そう言って笑った私は、たぶん――
今まで誰にも見せたことのない顔をしていたと思う。